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2007.10.14

東方旅行(036)1988年1月4日(月)カイロのイスラム地区(2)ファーティマ朝のアル・カーヒル

   1988年1月4日(月)の東方旅行(036)はカイロ市内の見学である。雨。イスラム地区の北半分である。べつにテーマ毎に見学しているわけではなく、便宜的に地理的まとまりで見学しているだけだ。しかし空間的まとまりにも歴史的な背景があるのはもちろんだ。前日のイスラム地区南部は、最初期9世紀のモスクであるイブン・トゥーゥーンと、19世紀の近代モスクを同じ日にみて、振幅の大きさに感銘をうけた。

 今日は北半分である。ここはファーティマ朝時代(969-1171)の遺構が多い。この王朝が「カイロ」の語源となる「ミスル・アル=カーヒラ」を建設したのだから、こここそが元祖カイロというわけであろう。カイルーワンを拠点とし、モロッコまでの北アフリカを征服したファーティマ朝は、エジプト征服という野望を実現しようとする。そのためにカーヒラの敷地として、軍事的にも政治的にも重要な場所が選ばれていた。

 ところでファーティマ朝の起源であるが、8世紀後半、シーア派の多数派イマーム派の第六代イマームこと、ジャアファル・サーディックが亡くなったが、その長子イスマーイールにイマーム位継承権があるとするイスマーイール派がそれである。すでに書いたとおり、チュニジアが発祥である。アッバース朝、後ウマイヤ朝(スペイン)にたいし強い対抗意識をもっていた。いわゆる3カリフ時代である。チュニジア・ファーティマ朝は戦略的な見地からカイロ(カーヒラ)を築いて、他のカリフに対抗したのであった。

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 さて都市カイロの設立である。第四代カリフ、アル・ムイッズ(在位952-975)の宰相ゴーハル・アル・シッキリ(シチリア生まれのギリシア人であって白人奴隷としてチュニジアに送られた)は、チュニジアのカイルーワンからアレクサンドリアまでの2000キロの道路を整備した。969年、大軍をひきいてカイルーワンを出発し、アレクサンドリアを無条件降伏させ、さらにナイルを渡ってフスタートを降伏させた。ゴーハルはフスタートの東北に場所をさだめ、そこをアル・カーヒラの敷地とした。都市建設の開始は神事であって、1キロ×1.5キロの矩形の輪郭にそって棒をたてて綱をはり、鈴をつるす。ゴーハルがクワ入れの儀式をおこない、同時に鈴を鳴らすと、綱を経由して順繰りに鈴はなり、それを合図に兵士たちが作業を開始するてはずであった。ところがカラスが綱に舞い降りてきて鈴を鳴らしてしまったので、兵士たちは合図を思いこんで仕事を始めてしまった。占星術師たちは困惑したが、ちょうど火星(アル=カーヒル)が上昇する時刻であったので、戦争、不幸という含意はいやだが、勝利者のといった意味もあるので、「アル=カーヒル」を都市の名前とした。以上が都市成立の逸話である。そしてカリフことムイッズの遷都は972-73年であった。

 当初、宗教的には寛容であった。ムイッズ、ゴーハルには人種や宗教の偏見はなかった。改宗ユダヤ人の宰相イブン・キッリスのもとで財政も順調になった。ファーティマ朝第5代カリフであるアル・アジーズ(在位975-96)のころは、キリスト教徒もユダヤ教徒もまだ優遇されていた。またファーティマ朝そのものはシーア派であったが、大多数のエジプト人はスンニー派のままであった。

イスラム芸術博物館(Musee islamique)
イスラム博物館。白、緑、赤の大理石モザイク。18世紀オスマン時代のエジプト。

ズワイラ門(Bab Zuwaya)とフトゥーフ門(Bab al-Futuh)

 やはりファーティマ朝時代の市壁とその門。バドル・アル・ガマーリーは1087年から1092年にカイロ市の防衛施設を強化した。バーブ・アル・フトゥーフとは「繁栄の門」と呼ばれていたという。バーブ・ズワイラ(ズワイラ門)は1092年建設。もうひとつ、写真はとっていないがバーブ・アル・ナスルがある。工事を担当したのはウルファから来た3人のキリスト教徒でるといわれている。ウルファは1086年にスンニー派の支配するところとなった。キリスト教徒にとってはシーア派であったファーティマ朝のほうが寛大であったらしい。3つの市門はシリアあるいはアルメニアの構造形式、つまり半円アーチやペンデンティブ・ドームの形式がもたらされた。

門からの眺め。崩壊しつつ建設されてゆく都市。

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アル・ムアイヤッド・モスク

多彩色大理石のモザイクが美しい。ピサ大聖堂を思い出させる。

アル・アズハル・モスク(Al-Azhar Mosque
 これはムイッズとゴーハルが設立したもの。カリフのモスクである。アズハルとはファーティマの称号である「ザフラー(花)」の派生語。

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 970年、ジャウハルはこのモスク建設に着手した。972年、最初のフトバ(金曜礼拝の説話)、988年最初の大学。柱身や柱頭は転用材である。アーチはレンガで、四心尖頭形である。装飾などにはイブン・トゥールーン・モスクからの影響が指摘されている。

 ムイッズの息子アル・アジーズ(第五代カリフ)の地代にはマドラサ(学院)が増築された。978年である。このアズハル学院はイスマーイール派最高教育機関である。ここで学んだイスラム教徒は全世界に布教し、その活動は中国にまで及んでいる。現在はアル・アズハル大学であり、イスラム神学の総本山である。ムスリムの学問の中心地であり、世界でも最古の大学のひとつ。多柱式の礼拝堂。横断方向のアーケード。中央の柱間の奥はミヒラブとなっている。キブラ壁の手前の天井はドームとなっている。中庭の両側は教室の昨日である。屋根、それを支えるアーケード、アーチは2心式であり、コリント式の柱が支えるという、コプト教会の伝統を汲むもの。竜骨アーチはこの時期には確立され「ファーティマ式アーチ」と呼ばれることもある。イラク、コプト的エジプト、ファーティマ朝の首都カウルーワン、の諸要素が混在している。

スルタン・カラーウーン(Al Nasir Mohammade Iban Qalaum)のモスク(写真=上2段)とマドラサ(写真=下1段)

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スルタン・バルクーク・モスク(S. Barquque Mosque)
スルタン・ハッサンモスクを小さくしたもの。

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アル・ハーキム・モスク(El Hakim Mosque

 アル・ハーキムはファーティマ朝6代目カリフである。狂気のカリフとも呼ばれた。一般的にファーティマ朝の指導者は神秘主義的な傾向がつよく、戦や占領行為の開始を星占いで決めていたりしたらしい。とくに彼はその傾向が強かった。宗教的には、ユダヤ教徒とキリスト教徒を弾圧した。5年かけて全国の教会堂を破壊した。そのなかにはイエルサレムの聖墳墓教会もあって、のちに十字軍が派遣される遠因となった。家臣や召使いを容赦なく殺し、エジプト人の大好物モロヘイヤを食することを禁じ、ビールとワインの飲料を禁じたばかりか、ぶどうの木はすべて切り倒された。

 しかし学芸の保護者でもあった。彼は「ダール・アル・ヒクマ(知恵の学舎)」を創設し、バグダート学派を継承するカイロ学派を興隆させた。天文学、光学、に顕著な成果があった。とくにイブン・アル・ハイサムの『視覚論』はダ・ヴィンチやケプラーにも影響を与えたようだ。

 Mosque of al-Hakim(1013年竣工) はアル・アズハル・モスクの系統。礼拝堂は陸屋根。イブン・トゥールーン・モスクの流れを汲む、マッシブな角柱がならぶ。中庭4面はすべてアーケードで囲まれている。中庭は壁と床が真っ白。外はカオス、内はすばらしい宇宙的秩序。内部の中央部は天井が高い。

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 カリフ・ハーキムの在位は996年から1021年までと長い。もともと前任のカリフ・アジーズ(在位975-96年)が990年ごろ、イブン・トゥールーン・モスクを模範として建設したモスクであった。ピアはレンガ造だがもっと星。高窓のある中央のミフラーブ廊、キブラ壁にそう廊にかかる3ドームはアズハル・モスクに由来すると指摘されている。

 ハーキムは入口側ファサードの建設を命じた。2本のミナレット、中央の入口。1002年ごろ完成。これは石造で、装飾は50年前に建設されたメディナ・アッ・ザフラーに由来するとされる。またソロモンの刻印である五星飾りがあちこちにあり、ハーキムが黒魔術に関心をいだいていた証拠とされている。

アル・アクマル・モスク(Al-Aqmar Mosque

 修復中であった。後期ファーティマ朝のもの。12世紀のファーティマ朝カリフは軍司令官の傀儡であって、シーア派統一国家の夢をほそぼそとエジプトでみつづけていただけであった。1125年、カリフ・アミールとそう宰相はこの小規模なモスクを建設した。それは街路に面して主要ファサードが連続するという、都市的な文脈を考慮した最初のイスラム建築であった。すなわち中庭のみ開放的で、外に対しては閉鎖的な小宇宙を形成するそれまでのモスクではなく、町なみの一部を形成するように配慮されたのであった。入口はニッチつきで、ハーキム・モスクの影響。竜骨状アーチは後期ファーティマ朝の特徴。

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 シーア派にはアリーの子孫の誰を奉じるかで大きく三つの流れがあった。 ムハンマド・ブン・ハナフィーヤの系譜であるカイサーン派。 フサイン系の子孫ジャアファルの子らから分岐した人物を奉じるイマーム派。 主にハサン系(フサイン系も含む)の子孫を奉じるザイド...... [続きを読む]

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