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2007.10.13

東方旅行(035)1988年1月3日(日)カイロのイスラム地区(1)

 東方旅行(035)1988年1月3日(日)は雨。予想外の気候。きょうはカイロのいわゆる「イスラム地区」の南半分を歩いた。カイロはかつて文化、政治、経済の中心であったことを感じさせる。あるいはイスラム世界の中心であり、ということは世界の半分の首都でもあった。それゆえコスモポリタンであり、異邦人をやさしく包み込むようなメンタリティはまだ強く残っているように感じられた。下世話な話だが、チップを要求する人がいるが、しつこくはなく、不快感を与えるようなことはない。マグレブに比べるとはるかに都会的で洗練されている。

 携帯していたフランス語の旅行案内では「イスラム・カイロの黄金時代は640年から1516年まで」とある。つまりオスマン・トルコの支配下では不遇であった。大都市とはいえ地方都市になりさがったのであった。この直裁で厳しい目がフランス的か。

 この時代のモスクの多くは今でも残っており、当時の盛りを思い出させる。現代では半分崩れかけた建物のなかで人びとが生活している。過去の栄光と現代の悲惨のコントラスト。文明は栄え滅び、しかし人びとは生き続ける。1979年にはユネスコ世界文化遺産の登録された。

リファイ・モスク(Rifai Mosque)
天井はたいへん高い。建築家フサイン・パシャ。1869年受注。1911年竣工。

ムハンマド・アリ・モスク(M.Ali  Mosque, 1824-27) オスマン・トルコ様式のモスク。19世紀には古典形態への回帰がみられる。20世紀はすでにオスマントルコの領土は縮小し、もはや帝国の威厳はなくなっていた。そのときにこそ栄光の時代の空間が求められたのであろうか。これは建築家の意識にもよるが、そのままのサバイバルではなく、きわめて近代的なリバイバル建築とみなすべきであろう。ヨーロッパにおけるゴシック・リバイバルに相当するものである。ちなみにこの時代はまさにムハンマド・アリが近代化をめざしていた。西洋との関係も深かった。アスワンのオベリスクをフランスに贈ったりした。ちなみにそのオベリスクはいまでもコンコルド広場を飾っている。そうしたなかで歴史的なものの見方、そのなかには過去の建築様式を意図して復活させるというようなことがあっても不思議ではない。たとえば歴史的様式としてのビザンチン=オスマン建築のドーム建築などを一種の歴史的遺産として使ったのではないか・・・歴史家のロマンに果てはない。

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ナセル・ムハンマド・モスク(Nasser Mhammad Mosque)
二色の石のアーチ。コプト式柱頭。

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スルタン・ハッサン・モスク(Sultan Hassan Mosque、1356-63)マドラサ、霊廟もある。白と緑の石。ポーチ。マムルーク朝時代の傑作とされている。スルタン・ハッサンは、1347年、11歳で王位を継承。1361年まで在位。カラーウーン家出身の最後のスルタンであった。彼は1356にそのモスクを着工。シリア人建築家を呼んだ。1357年には実質的に竣工。ところが1361年に塔が倒壊し、結局、塔建設は挫折したようだ。1661年、こんどは墓室ドームが崩壊している。マドラサは、4つの法学派がそれぞれイーワーンを使っていたという。入口ポーチは、対のミナレットは完成しなかった。鍾乳型のアーチがイスラム的。このポーチは世界にむけたミフラーブだとされている。ムカルナス・ポータル。碑文と建築が一致している。大ポータルにはコーランからの引用。ミフラーブにも引用。

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●Rifai Mosqueの近くにあったモスク
シナイから持ってきた柱だという(写真なし)。

イブン・トゥールーン・モスク(Mosque of Ibn Tulun, 867-9):イラクから呼ばれた職人が担当した。何度も改築されたがもとの雰囲気は保っている。レンガ造でスタッコ化粧。石造ではない。サーマッラーのモスクをモデルにして建設された。ゆえにアーケードの柱は角柱である。また角柱の4隅は円柱が付け柱状になっている。装飾様式もサーマッラーに由来するが、異なる種類のものが混在している。このモスクはイラク型であるとはいえ、職人はアッバース朝の首都から、すこし前にカイロにやってきたものと考えられる。このモスクはエジプトにおける、アッバース朝建築という位置づけである。

 シリアや北アフリカの初期のイスラム教建築とはちがって、ここでは古代ローマの痕跡が皆無である。イラクの影響ということもあって、強いていえば古代オリエントを遠くに感じる。

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 ブハーラーはカリフ、マームーンにトルコ人奴隷を貢ぎ物として献上した。この奴隷には835年、息子ができた。イブン・トゥールーンである。よい教育を受け、カリフ雇用兵のなかでも優秀で、エジプト総督の代理人に任命された。サーマッラーに住み、エジプトから収入を得ていた。868年、軍隊をひきつれてエジプトに旅立ち、エジプトとシリアの知事職を継承した。その治世は905まで続いた。870年、新市街地カタイを創設した。

 中庭はサフンと呼ばれ、一辺が92メートル。均質な柱割りのアーケードがぐるりとならぶ。この均質さがサーマッラー的である。塔は一般的にミナレットと呼ばれる。最初のものは、やなりサーマッラーのものをまねて、螺旋状であった。バベルの塔、ジグラットの伝統である。のみならず中央軸線上にあり、シンメトリを強調していた。現在のものは1296年にラージンが再建したものであるが、彼は軸船上からはずしてしまった。内部ではミフラーブ。ビザンチン風透かし彫りの柱頭。ミフラーブまわりはさまざまなサーマッラー様式の混交であり、建築と碑文の有機的一体がイスラム建築としての完成度を照明している(らしい。ぼくは碑文は読めない)。

イブン・トゥールーン・モスクの塔からの街の眺め: 特徴的なのは、壊れかけなのか、建設途中なのか、屋上を建材置き場にしているのか、壊れかけたような建物だらけである。地上をあるいても19世紀後半から20世紀初頭の様式建築の外壁がこれまた半壊状態で放置されている。1988年での景観だから、現在ではどうなっているか知らない。しかしこの半壊状態の都市が、じっさいは活気があってにぎやかである、というのが新鮮な体験であった。それは最初はショッキングであるが、10分もすれば慣れてしまい、むしろこのほうが自然に感じられてくるのである。

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プチ学習:長いエジプト(とくにカイロ)の歴史
2700-2350:古王朝
2060-1780:中王朝
1580-1160:新王朝
666-524:saiteの時代
525:ペルシア人の侵入
342:ペルシア人の占領
333:アレクサンダー大王による解放。ギリシア時代はエジプトの宗教は尊重された。
30:オクタウィアヌスの侵入。エジプトはローマ帝国支配下に。
395:東ローマ帝国の一部。
451-582:コプト教会の成立。
640:アラブ人の到来。イスラム軍将軍アムル・イブン・アル=アースはローマ軍駐屯都市「バビュロン」のちかくにアラブ人の軍事都市「フスタート」を築く。これは現在、カイロ市内。
661-750:ウマイヤ朝。ダマスカスのカリフの勢力下。706年、公式行事はすべてアラブ語でなされることとなった。
750-870:アッバース朝。この時代、バクダッドはイスラム帝国の首都。
969-1171:ファーティマ朝。フスタートのやや北に「勝利の町」を意味する新都「ミスル・アル=カーヒラ」を建設。これが「カイロ」の語源。そこに宮殿、アズハル・モスクなどを建設。以降2000年間、ファーティマ朝の首都。
1174:サラディン(十字軍に勝利した)がエジプトを支配。カイロにシタデルを建設、城壁と町を拡大してみなみのフスタートをも含むかたちで、都市を建設した。
1250-1516:マムルーク朝。サラディンが始めた都市拡大の完成。
1258:バグダードがモンゴルに占領される。イスラムの宗教・文化の中心はカイロに移動した。
1517:エジプト独立の終焉。オスマントルコの属州となる。カイロはスルタンもカリフもいなくなり、政治的重要性は失った。
1798:ナポレオン上陸
1801:フランス支配の終わり。
1811-1849:ムハンマド・アリの諸改革。
1869:スエズ運河完成。
1883:イギリスがエジプトを支配。
19世紀末~20世紀初頭:民族運動。ヨーロッパ風の都市計画(新市街地、へリオポリスなど)
1914-1918:イギリスの保護国。
1922:イギリス政府、エジプトの独立を承認。
1952~1970:ナセル大統領
1953:共和国宣言。
1956:スエズ運河国有化。
1970-1981:サダト大統領。
1978:キャンプデーヴィッド。サダトにノーベル平和賞。
1981:ムバラク大統領

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