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2007.09.27

磯崎新論ふたたび

 磯崎新について書かねばならない。ちょうどanythingについてこのブログでとりあげたばかりだけど、新しい展開などあるのであろうか?

 ラディカルであること。1931年生まれた彼は14歳で1945年の敗戦をむかえたのだから、その価値観の逆転から無傷であるはずがなく、すべてはそもそも無根拠だとするニヒリズムがあっても不思議ではない。さらにニヒルであるにもかかわらず、いやそれだからこそ創造に没頭するという逆説がありうることも、ぼく自身は想像できる。それにしても戦後の世代が、おなじようなラディカリズム、ニヒリズムを表明しても、彼のそれは実感の次元がちがうのであろ。ただそれを自分の仕事のどの段階で、いかなるかたちで昇華してゆくかが決定的に違うのであろう。

 磯崎新のバックグラウンドはそれほど解明困難ではないと思われる。すなわち日本がモダニズムをひととおり咀嚼し、その理論をともかくも理解し、西洋と同時代を共有できるまでに成熟した状態で、日本の伝統をふたたび解釈し、日本と西洋をともかくも同じひとつの「建築」というOS上で運動させうる段階で、建築を開始したのであろう。調査はしていないのでとりあえずキーパーソンをあげれば、岸田日出刀(過去の構成)、堀口捨巳(茶室などの「空間構成」)そして同時代人としては伊藤ていじ(日本の都市空間)らであろう。

 磯崎にとってオブセッションになっているのが、浄土寺浄土堂であり東大寺南大門である。それらは世界観としてダイナミックな造形として、理論的理解に先だって、彼にプリントされたもののように思える。それにくらべれば利休だの遠州などというのは、高尚な読者サービスにように思える。凡人なら歴史的な過去にすぎないものを、現代建築のクリエイティブな観点から躍動させる、そのことにおいて勉強させていただく。ただこの学習では磯崎のコアに近づいたという実感は得られない。

 244_jpeg026 浄土寺浄土堂と東大寺南大門

 哲学者にしてヴェネツィア市長を務めたマッシモ・カッチャーリが「群島」ということをいい、ヨーロッパ統合にたいする批判的対抗軸であろうとした。ヨーロッパの多様性を担保することにおいてむしろ統合を後押ししているようにも感じられるというぼくの個人的感想はさておき、磯崎はこの概念についてしばしば言及した。しかしその個々のシチュエーションでどういう意味で語っていたのか、そのことにはぼくは興味がわかない。現代思想的な理解ではなく、この言葉によって建築をどう類型化するか、建築の対抗軸をどうフレームアップするかをすぐ考えるのが建築家の性である。

 ここでは素直に群島/大陸としてみる。

 大陸とは帝国と言い換えられる。「帝国」といってもネグリの文献を念頭においているのではない。もっとベタな帝国である。すなわちペルシャ帝国、ローマ帝国、ビザンチン帝国、イスラム帝国、オスマン・トルコ、ムガール王朝などである。基本的にこれらは大陸の文明である。大陸を支配しなければならない大権力の建築である。そこではあけすけに巨大性、モニュメンタル、永遠性、彼岸性を指向しつつそれが建築として疑いをはさむことを許さない建築が実現された。建築はここで完成していた。つまりそこで終わっていた。だから20世紀の、ワシントンDCのキャピトル、ラッチェンスのニューデリー、ヒトラーの第三帝国などはすべて帝国もどきでおわってしまう運命にあった。ロシア・アヴァンギャエルドでさえそうであったのかもしれない。その意味で20世紀は壮大な時代錯誤なのであった。時代錯誤だから批判されるべきというのではなく、むしろそれなしでは20世紀がつまらなくなってしまうような、そんな時代錯誤であった。

 ぼくは、群島/帝国という構図において磯崎新はもちろん両義的であると思っている。日本建築はそれほど帝国的とはいえないが、古代や中世の建築は、近世以降のものよりはるかに大きな秩序への指向を表しているし、スケール感もある。彼が東大寺南大門や浄土堂においてかいま見たのはそんなものだったのではないか。

 両義的なものは浄土堂であろう。シンプルでダイナミックな構造は雄大でありながら、西方の夕日を背景として阿弥陀如来を拝観することで、バーチャルな浄土世界を体感することだとしても、古代から彼岸の世界はいつも「島」として描かれる。

 ゆえに島というアナロジーは、彼岸の世界、ヴァーチャルな世界、を意味している。それはユートピアでもありうる。理想郷というより非場所という意味で。

 磯崎新は海上都市の計画を何度か経験している。最初は丹下健三のもとでの「東京計画1960」である。二度目は「海市---ミラージュ・シティ」である。三度目が福岡オリンピック構想である。

 東京計画は機械的・生物学的アナロジーのもとに都市が東京湾上に計画される。道路システムが都市の骨格となっている。その上に空中都市が建設される。海市はマカオ沖合の人口島の計画だが、ヴェネツィア、あるいはピラネージが空想する古代ローマ都市に見たてられた海市である。ここでは「見えない都市」の可能性が最大限に発せられ、計画という理念は破棄され、都市は情報ネットワークによって成立し、間断なくビジッターらの介入によって上書きされつづけてゆく。福岡計画は、博多湾周囲でオリンピックを開催すべく、施設建設は最小限にして、宿泊施設などは豪華客船を停泊させることで、期間限定のオリンピック都市を湾上に浮かべようというものであった。

 しかし磯崎は群島を経由して、島国日本に回帰するとか、すくなくとも辻褄があるとか、そんなことではないであろう。あるいは1970年の大阪万博がすでに一種のヴァーチャル都市であったと指摘できるにしても。

 しかし彼の別の指向=嗜好、すなわちフランス大革命建築、ロシア・アヴァンギャルド建築を思い出すとき、グローバル化のなかでふたたび巨大建築が、ふたたび時代錯誤的なることで意義深いようなかたちで、建設される可能性もじゅうぶん感じ取っていたはずである。

 彼はある意味では自分のオブセッションにはきわめて忠実に生きていた。そしてこのオブセッションは分裂的で両義的であるがゆえに、外からはフレキシブルに見える。しかしそれなりの一貫性はあるように思える。その一貫性をもっとはっきり見いだして時点で、歴史家は彼に歴史的な位置を与えることができるのであろう。

 そうした群島/帝国(大陸)の構図を、もはや両義性などと指摘することも今ではどうでもいいことのうように思える。彼は世界に開かれた窓であり、それをとおして別の世界を拝むという、ぼくのような引きこもりには有り難い存在なのであろう。

 さて以上ははしり書きである。宿題がすこし明らかになった程度のことにすぎない。

 

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