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2007.09.26

伊東豊雄論ことはじめ

 そろそろ伊東豊雄論の準備をしなければならない。まずははしり書きから。

 世代論について。彼は1941年生まれである。直上の世代とは菊竹、磯崎、黒川らであり、直下の世代とは隈、妹島、青木らである。伊東の世代を、槇文彦は「野武士の世代」と称した。リアルな戦いを生き残った上の世代からみれば、平和な時代になにと戦っているのか、ということである。巨視的にみれば、それは戦後処理!であったのではないか。上の世代の戦い残された部分を戦ったのではないか。たとえば大量生産、機械的生産の単調さ、といったものへの戦い。それは総力戦構図の残滓にむけた戦いであった。

 トラウマについて。さて彼からほどよく下のぼくの世代にとっては、伊東はある意味で神格的な存在であった。それはすべて「中野本町の家」の衝撃がもたらしたものだ。つまり写真を見た瞬間、自分の内面がすべて説明されているのではないか、というショックである。ぼくの世代にとってはそれがトラウマになり、伊東豊雄は神格化されていった。

 透明性について。コーリン・ロウの透明性にかんする有名な論文を訳したのは伊東であった。ロウは虚の透明性と、実のそれを対比させ、前者を上位に置いた。しかし伊東はそれを承知でむしろ実の透明性を実現してきたように思える。いいかえれば観念よりも知覚、理念によりも視覚を重視した。

 社会性について。彼のいう社会性はもちろん、地域調査やマーケッティングのことではない。あくまで彼が社会的ととらえるものである。それは現代思想風には「他者」とよべるであろう。つまり最初はよそよそしく自分に敵対的、あるいは拘束的であるが、対話と相互理解を試みながら、しだいに味方に近づける存在である。彼は建築の力の根源を、この他者に見いだす。

 技術について。彼は構造設計家とのコラボで創造的なプロジェクトを提案しつづけている。注目すべきは、彼は決定論をとらないことだ。そうではなく、建築に介入してくるさまざまな外力をすべて受け入れられるように、フレキシブルに構える。

 風について。伊東が「風」というときもちろんそれは風水のことではない。それがアナロジーのようでいて、直截な表現かもしれない。つまり気温、日光、障害物などのありとあらゆる作用により決定され、しかもまるっきりランダムではなく、ある流れと方向性をもったもの。そこにはランダムさと規則性が同居する。・・・と考えてみれば、それは彼の建築そもののではないか。

 プレゼンについて。彼は外国でのプレゼ術を熟知している。それまでの日本人とはちがって日本固有の概念に逃避することはしない。地域の人口、密度、法規、制度など数字を織り交ぜて客観的に説明する。設計のプロセス、理念の表明のしかたもそうである。外国にいっても基本的には建築共同体なのであり、そこでは普遍的言語が存在する。それを知った最初の建築家(世代?)なのかもしれない。

 ケーススタディ1:せんだいメディアテーク。都市性あふれる建築であり、その室内は内包された広場であり、人間と人間が出会うことのさまざまな機会が提供されている。ゆえに都市的である。

 師・菊竹清訓の複合柱。しかし歴史家であるぼくはすこし意地悪な類推をする。彼の師である菊竹清訓は東光園ホテルにおいてRCの複合柱をもちいた。その複合柱は、RCなので、垂直にのびる大小の断面の柱の組み合わせであり、日本の寺院建築のような骨太の軸組構造を連想させる。せんだいは複合柱とはいえ鉄のパイプでできたレース状のものだ。もちろんそのままではない。しかし菊竹が、その説明として、柱は場をつくる、といったようなことを書いているのだが、その理念がここで再生しているように感じられる。それとは無関係なのか。この場合、柱は構造でありながら、それ以上に装飾的である。・・・そういえば菊竹も構造と空間が一致したときとんでもない傑作を生む。

 ケーススタディ2:武蔵美の図書館。アーチ構造がランドスケープを構成してるが、プランは均等ではなく、アーチ筋は交差する曲面をなしている。アーチという構造形式がそうさせるのであろうが、ぼくなどは20世紀初頭の、RC構造がまだ均等ラーメン構造に収束する以前の、さまざまな適応例があったことを思い出す。RCはじつはさまざまな可能性があったのだ。歴史的に残ったのはそうした多くの可能性のいくつかにすぎない。ちなみにル・コルビュジエはその可能性を展開したのではなく、定式化することでむしろ狭めたのではないか。もっともこの図書館の構造は正確にはRCではないのだが、萌芽的な技術のもっているこうした歴史的な可能性を思い出させる。彼と構造設計家がなしているのは、構造形式をそのプリミティブな姿に戻すことではもちろんなく、高度にソフィストケートさせることで、逆説的に、初期の段階でもっていた豊かな可能性を再生させたということであろう。

 移行期ということ。そういう意味で、伊東の建築は移行期のそれという特質を持っている。考えてもみれば、歴史的に、建築あるいは芸術とは完成されるべきものであった。ローマのパンテオンも、ブラマンテも、完成であった。しかし伊東の建築は、移行期的、変遷的であることによって逆説的な完成度を高めている。

 次に書くのは1年後かもしれないが、歴史家にとっての大宿題であることには変わりない。

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コメント

ケーススタディ2に「武蔵美の図書館」と記述されていますが、伊東豊雄が設計したのは「多摩美術大学附属図書館」です。
ちなみに建設中の「武蔵野美術大学美術資料図書館」は藤本壮介による設計です。

投稿: 越浦太朗 | 2010.02.03 18:53

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