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2007.09.17

パリ外国宣教会(Missions Etrangeres de Paris)についての情報収集/フランス人宣教師たちは原風景を長崎にうつそうとした?

 長崎の教会についてぼくの周辺では騒がしくなっている。地元の人びとが取り組んでいる最中なので、ぼくなどが余計なことをすることはできない。しかし西洋建築の専門家として、フランスからあるいは宣教する側から見た長崎の教会堂はいかなるものかについて若干スタディしたので、ご披露したい。意欲的に取り組んでいる若手の研究者のみなさんには、これを参考にして、ぜひ頑張っていただきたい。

最初に気がついたことを結論先取り的に箇条書きする。

・パリ外国宣教会は、いわばポスト・イエズス会として18世紀に布教の任を失った同会にかわって、アジア布教を教皇からまかされた。

・パリ外国宣教会は、インドシナ、中国などと貿易・外交関係を結ぶためのフランス政府の先兵としての役割を果たすこととなった(これはイエズス会とポルトガルの関係と同じ)。日本においても、フランスの先端技術は大胆に輸入されていたし、宣教師の来訪はそれと平行している。

宗教の側からの近代批判であった。フランスではフランス革命以降、19世紀全般にわたって、世俗化、近代化、産業化により社会は急激に変化していった。地方の、田舎の、信心深い人びとはそうした変化にたいし、たんに適応できないといったものだけではなく、確信犯的に対応したくないという心性がつねにあった。パリ外国宣教会に入会して、海外へ布教することは、そうした人びとにとってのはけ口であった。

・アジアは、とくに日本は、そうした現代文明に不満をもつ宗教家にとっては、布教のフロンティアであり、フランス母国において失われつつあるキリスト教的理想郷を、べつの形で実現しようというものであった(のではないか?)。すくなくとも世俗化してゆく母国、だからアジアをキリスト教化しよう、というモチベーションがあったと推定する(仮説である)。

・長崎にゴシック様式の教会堂が多いのは、こうした宣教師の原風景である。彼らはフランスの田舎の小さな町や村の教会という環境で育った。そしてフランス的現代文明には批判的であったとしたら?明言はされなくとも近代都市に批判的であったら?パリやアルゲでは流行最先端の様式がつかわれているが、それが表層的なものに感じられたら?彼らは自分たちの理想的風景を異国の地において実現しようとした。(仮説としてはこんなところである。もちろん証明するにはかなりの調査と研究とをようする)。

・1例としてマルマン神父の郷里の教会堂である。みごとに高窓がない(長崎の教会堂にみられる傾向。高窓のある教会は少数)。

Simandre_sur_suran2c_le_village_2

以下は情報収集。なお「パリ外国宣教会」の名称は時代によって、呼ぶ主体によって違う。外国宣教神学校、外国宣教協会・・・など。フランス語のHPでも一定ではない。

  日本語のウィキペディアとフランス語のそれとではずいぶん違う。情報量も違う。とりあえずフランス語版に準拠する。パリに拠点を置くカトリックの使徒団体。世界に福音伝道(布教)が目的。厳密に定義すれば、修道会でも教団でもなく、その会員たちもかならずしも修道士と見なされているのでもない。

 設立は1658-63年。アレクサンドル・ド・ロド(1591年アヴィニオン生)はイエズス会士としてヴェトナムで布教していた。聖書を現地語に訳す活動をしていた。しかし1630年に迫害にあい、戻ってきた。彼は教皇アレクサンドル7世に支援されて、3人のフランス人司教を説得して、アジア布教のためのミッションの旅に出発させた。3人とは、ピエール・ランベール・ド・ラ・モット、フランソワ・パリュ、イニャス・コトランディである。彼らがフランス宣教会の事実上の創設者であった。彼らは総勢17名でフランスから出発したが、2年にわたる旅のあいだに、8名がなくなった。そのうちのひとりがイニャス・コトランディである。
  フランソワ・パリュ猊下(ヘリオポリス司教、使徒座代理区長vicaire apostolique)であった)、ピエール・ランベール・ド・ラ・モット猊下(Bertyus司教、コーチシナ=現在のベトナムの使徒座代理区長)らが創設者。

 目的:教会の設立と、司教裁判権に従属する地元聖職者の育成によって、キリスト教を布教すること。宣教師を志願する人びとをリクルートするために、パリのバック通りに1663年、拠点が建設された。外国宣教神学校(Seminaire des Missions Etrangeres:アクサン省略)となのり、教皇アレクサンドル7世から承認され、フランス政府の法的認可をうけた。

 当初、これは修道会でも教団でもない。メンバーである司祭は、なんらかの教区に入籍したままであり、「布教聖省」(1662年、グレゴリウス15世によって布教を目的として設立された機関、今日のCongrégation pour l'évangélisation des peuples)の枠組みのなかで、外国のその地域の「使徒座代理区長」のもとで布教活動をするのであった。

  1710年。宣教会の規則が確立された。1840年、宣教師になれるのは司祭だけであったが、神学校生徒でも可能になった。神学校生徒はこの協会に入籍した。1917年、教会法が改正され、「外国宣教会」は司祭の協会であることをやめ、在俗司祭で構成された宗教団体となった。こうしてこの団体はその長と規約を投票で決めるようになった。

 神学校に入れるのは35歳までであり、最低3年間の布教経験ののちに、この協会のメンバーとなれた。

 布教史であるが、1658年から1700年まで。協会の布教本部はタイのアユタヤにあった。そしてトンキン(ベトナム北部)、コーチシナ、カンボジア、タイに布教をおこなった。4万人が洗礼。女性の教団も設立された。33人の現地人司祭が生まれた。

 もちろん協会の布教活動は、インドシナやインドにおけるフランスの商業活動の先兵でもあった。当時フランスはこれらの国々と通商条約をむすび、大使を置いた。バンコクを占領したし、インドシナ全体を支配する寸前までいった。しかし地域の司祭と司教のもとに、地域教会組織を管理した。

 18世紀前半、イエズス会はインド布教の担当を禁止されると、この宣教会がそれを担当した。イエズス会士たちは現地に残ったが、布教の成果はあがった。18世紀末、現地人の司教は6人、司祭は135人を数えた。神学校は9カ所。信者は30万人。洗礼は年3万人ほど。しかしフランス革命で一時頓挫した。

 19世紀に宣教会は活動を再開した。その財政を援助したのは、教皇に支援されローマに本拠をもつ教団Congregation pro Gentium Evangelisationeであった。

 布教の過程で、殉教するものは多かった。重要なのはこうした事件が、新聞、雑誌、書籍によって描かれ、ヨーロッパ諸国(とくにフランス、イギリス)の国民の感情に訴えたことである。これがコーチシナと中国に、さらなる宗教的、商業的、そして軍事的介入をすることに、国民的な合意をとりつけることに貢献したのであった。ちなみにスエズ運河もまた、布教の拡大という目的からも支援されたのであった。

 宣教師たち。19世紀と20世紀、宣教師になろうとする人びとの大部分は地方の田舎の出身者たちであった。これら僻地の田舎では、そもそもフランス革命の新憲法に宣言を拒否した司祭たちがいて、抵抗の精神をもち、暗躍するひとびとがいた。宣教会が1815年に再開すると、参加した若者たちはほとんどこうしたメンタリティの持ち主たちであった。数年ののちローマの布教本部は、こうした地方のあらゆる教区に海外布教活動を呼びかけた。教区組織が再建されるにつれ、さまざまな不満へのはけ口として、布教活動は教区の司祭たちの心をとらえた。彼らのほとんどは信心深いが貧しい家の出身者たちであった。家族は勉強のためにお金を出せない。彼らは布教活動をしたいと打ち明けると、家族や親近者たちはは猛反対した。それは家族の断絶、逃げるような別れ、別れの言葉もない離別、といったことが多かったようである。もちろん時がたって和解することもあったようだ。

 殉教がさらなる宣教熱を呼んだ。フランスの教区、司教区から宣教に旅立った誰かが殉教すると、その教区から次の宣教師が名乗りをあげるのであった。こうした司教区は、ブザンソン、ポワチエなどであった。さらに殉教が縁で、フランスの司教区と、海外の使徒座代理区が友好関係を結ぶということもある。

 宣教会の活動領域。当初はタイ、トンキン、コーチシナ、カンボジア、中国の一部であった。1776年、イエズス会が南インド布教から解任されると、その布教を引き継ぐ。教皇グレゴリウス14世は1831年、朝鮮半島と日本における布教を任せた。1838年、満州、1841年、マレーシア。1846年、チベットとアッサム(インド北東部)。教皇ピウス9世、1849年、中国のさらなる一部、1855年、ビルマ。ピウス12世、1952年にハワイと台湾の布教を命じた。しかしこうした過程のなかで、中国、ビルマ(ミャンマー)、ベトナム、カンボジア、ラオスからは追放された。

 宣教会は17世紀以来、4500人の司祭をアジアに派遣している。今日では379人を数える。

 バック通りの宣教会本部であるが、17世紀に建築家ランベールが礼拝堂を建設した。定礎式のときルイ14世のメダルが基礎の石におかれた。竣工は1697年。革命時に、すべての教会財産と同様に国の財産として没収され、売却されたが、ひそかに買い戻された。1802年、聖フランスシスコ=ザビエル教会となった。1848年、シャトーブリアンの葬儀。列席者のなかにはヴィクトール・ユゴー、サント=ヴェーヴ。バルザック。

  またパリ外国宣教会のHPから情報収集する。なおかなりの量のアーカイブがHPで公表されており、教会堂建設の経緯などもこれによりわかるのではないか。若い研究者に期待したい。研究の宝庫です。ぜひご活用してください。
http://www.mepasie.net/

(1)ベルナール・タデ・プチジャン神父;1829年にブランジ=シュール=ブルビンス生。オータンの神学校で学ぶ。1853年に司祭となる。2年間オータン神学校の教授、そしてヴェルダン=シュール=ル=ドゥ教区の司祭となる。彼は多くの教区で説教活動を展開知る。1858年、宣教会に入会し、1860年に日本に出発した。2年間琉球に滞在したのち、横浜、長崎に移る。大浦天主堂(宣教会では26聖人教会堂とある)については日本の文献・HPにあるとおり。

(2)ド・ロ神父;1840年にバイユ(カルバドス県)生。両親も信心深い人びとで、純粋な宗教的環境のなかで育てられる。幼くしてデュパンループ神父のもとにあずけられ、父親とは休暇のときにのみ再会した。1862年に外国宣教神学校(のちのパリ宣教会)に入会した。このとき22歳だから司祭としてではなく神学校生徒としての入会のはずである。バック通りには1年半いた。聖母マリアへの信仰が厚く、建築にも関心があった。神学校の中庭に、ノートル=ダム・デ・パルタン祈祷所の建設を指揮した。こののち病気のために司教区に戻る。1865年、カンのサン=ジュリアン教会の司祭となる。2年いた。プチジャン神父はリトグラフのできる人間としてド・ロ神父を日本に連れて行った。事実、日本に到着してはリトグラフでの出版にいそしんだという。あとは日本の書籍・HPのとおり。・・・ルトグラフというのがみそで、19世紀の建築書の挿図にもリトグラフは多用されている。現物を紹介するためには写真も銅版画や木版画もあったのだが、リトグラフが表現力があって、プロジェクト記述には向いているのは確かである。

(3)ジョゼフ・フェルディナン・マルマン神父;1849年、シマンドル=シュール=シュラン(ベレ司教区)生。シマンドル=シュール=シュランはスイスとの国境ちかくの町。現在の人口は638人。一度ペストで大打撃をうけ、僧侶たちが町を再建したという。両親もまた大変信心深い人びとであったようだ。普仏戦争ののち神学校に通っているうちに、海外への布教を進める神の声が聞こえるようになった。学長の許しは得たが、父親の涙と説得に直面したくはなかった彼は、一言もつげずにバック通りにやってきた。父親の狂乱ぶりはたいへんだったらしい。父親との葛藤は、困難で長く続いた。彼は田園の人であったようで、フランスにおいても日本においても、人びとが郷里を離れ都会に移住することにあくまで抵抗しようとした。長崎においては10棟ばかりの教会堂を建設したという。

あと何人かの神父もMEPで拾い読みしたが、・・・ここで中間まとめをしよう。

・ほとんどが地方の小さい町か村の出身で、きわめて宗教的な環境で育ったひとびとである。つまり社会的にはマージナルな立場であった。

・世俗化してゆく社会のなかできわめてピュアな宗教的環境でそだった。

・裕福な家庭出身の例もあるが、通説にあるように、貧しい家庭出身のひともいたし、布教出発で親との葛藤に苦しんだひともいた・・・。

・マルマン神父は出身村の教会堂の写真がWEBで検索できたが、まさに高窓のない教会堂であった。1例から法則化することはできないにしても、興味深い例である。日本にやってきた宣教師たちの原風景は、のどかな自然環境、そのなかの村、さらに集落のなかにある住宅よりはすこし大きいくらいの教会堂・・・であったのではないか。彼らは故郷の風景を、長崎に映してこようとしたのではないか。

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