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2007年9月の34件の記事

2007.09.29

東方旅行(032)1987年12月31日(木)チュニスからカイロへ

 【観光】Bardo美術館。先史、フェニキア、ローマ、アラブ。とくにモザイクがきれい。ミュージアムショップにはパリ碑文アカデミー賞を受賞した文献があった。建築関係も少なくなかった。なかでも『カイルーワンの柱頭』。パラパラとめくってみる。やはりこれら柱頭は古代建築からの転用材であったのだ。その起源は注目に値するものであったのだ。歴史は細部に宿っている。ヴェネツィアの石、カイルーワンの柱頭、東京の・・・新建材?

 チュニジアはコンパクトな国土と比較的穏健な民族気質が特質である。地理的には地中海の要所であった。そのためフェニキア人、ローマ人、アラブ人、オスマントルコ、フランス人に支配されることとなった。20世紀初頭から独立運動が始まり、1956年に独立するが体制は不安定であった。1991年の湾岸戦争ではフセインを支持し、イスラム原理主義に傾斜する。しかし基本的にはここは「ソフトイスラム」である。外国人には寛容であり、観光も重要な産業である。ぼくもここなら再訪してもいい。

 チュニジアにおけるナショナル・アイデンティティとは?基本的には日本などとはまったく異なったものである。民族・宗教的には、イスラム、地中海、アラブ・ベルベル(人口の98%はアラブ/ベルベル)という普遍的枠組みのクロスした形態をとる。建築的にはむつかしいところで、外国人でありスタディしていないぼくとしては、古代建築とイスラム建築はそれぞれ特性がはっきりしており、上位の概念でくくれるものではない。

 しかし「カイルーワンの柱頭」に典型的に示されるように、シリアやヨルダンなどと同様に、古代とイスラムは、柱身や柱頭(そしておそらく壁材そのものもそうであろうが、ビジュアルには訴えない・・)を転用するというきわめて即物的な建設行為によって、モノにより媒介されている。そのかならずしも観念的ではない(とはいっても柱頭のデザインはすぐれて芸術的、観念的なのであるが)、即物的な連続性が、上位の建築概念を構築するための手がかりになるのではないか。それは痕跡とか、模倣とかいうよりも強い何かを物語っている。

 若干考察すれば、死と再生なのであろう。これは地中海の石造建築ではありきたりのことなのだが、使われなくなり無用となった建物は石切場と化す。建物は解体され、転用材の産出場となる。こうした転用材が、たんなる切石などであれば、新しい形式の壁などの一部となって全体に埋もれてゆく。しかし柱、柱頭はそのアイデンティティをあくまで保つ。本来の文脈から切り離され、石切場に置かれ、一時的な死をむかえる。しかしそれはあらたな建物のしかるべき場所に置かれ、再生する。まったく異なる建物の一部となる。それは時代や場所だけではなく、建物の用途だけではなく、宗教というものまでトランスしつつ、そのアイデンティティを保つ。

  【未整理写真】モスク。近代建築(フランス人建築家の奇想であろう)、スークなど。

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 【移動】チュニス空港にて。「ホテルは決まったかい?案内するよ」「これからカイロへのフライトなんだよ」「ああ、じゃあいいよ!」。エジプト航空でカイロへ。到着は深夜。スムーズなフライト。隣のチュニジア人だかエジプト人だかはグッド・パイロットだと絶賛していたことが理由もなく印象に残っている。入国すると熱心なホテルの客引きに遭遇。彼らから逃れ、市内へ。

 【宿泊】Hotel Anglo-Suisse, 10.20EE(約5ドル)。いまとなってはどうやって宿にたどり着いたか覚えていない。部屋(どこもやたら天井が高かった)が見つかったころには新年をむかえようとする時刻になっていた。ホテルのロビーでは宿泊客たちがパーティーをやっていた。カウントダウン。・・・明けましておめでとうございます。1988年になりました。カイロの新年は格別だろうね。

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2007.09.28

東方旅行(031)1987年12月30日(水)ドゥガ(チュニジア)/地中海文明の重層性をあらわす好例として

 

 地中海的なるものといえば、ギリシアよりイタリアより、むしろカルタゴであり、そしてドゥガといった遺跡ではないか。つまり多民族の興亡すなわち支配と被支配が重層的に展開された地中海を象徴するのは、まさにこうした土着のもののうえ に、フェニキア、ギリシア、ローマがつぎつぎと上書きされた遺跡である。ひとつの強い普遍的な文明の痕跡しかないものよりも解読の喜びは大きい。

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 【プチ歴史】前11世紀ごろから北アフリカ圏には先住民族の進出が見られる。まずフェニキア人で、前1101年?にチュニジアにウティカを建設した。彼らは西リビアからスペインを目指した。前6~8世紀にアッシリアの攻勢のまえに勢力は衰えるが、カルタゴを中心に発展をとげた。彼らはあまり建築=遺跡を残していない。

 つぎにギリシア人。前8世紀ごろから地中海に進出。リビア、イタリア南部、シチリア島、南フランスに植民したのは周知のとおり。なかでもパエストゥムは有名。

 そしてローマ人。

 こうした支配者にたいし、リビア人やベルベル人など北アフリカ西方の土着民族がいた。彼らはドルメンやストーンサークルなどの霊廟建築を残している。カルタゴの文化にはこうした土着民のそれが反映されている。「ピュニック(フェニキア風)」と呼ばれる混合的な文化を形成するにいたった。それはローマ時代における地域性としてのこり、さらにはイスラム建築への流れさえ指摘されている。1997:ユネスコ世界遺産

 【遺跡】カルタゴ、ヌミディア、ローマ、ビザンチンの4文明が重層した、そしてきわめて保存状態のよい都市。これはそのうえに近代都市が建設されなかったことによる。丘の上に離散的に建設された都市。ピクチャレスクな古代都市。カピトリウムに神殿が建設され、フォーラムと広場を見下ろしている。公衆浴場があった。給水はどうしているのか疑問であったが、丘の上に巨大な貯水場2基があった。

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 リピコベルベールの霊廟(リビコピュニックとして紹介している文献もある。つまり土着=ベルベルとするかフェニキアとするかの違い)。ヌミディア人王室の数少ない遺構のひとつ。前2世紀。1842年、イギリス人領事トマス・リードがリビア語とフェニキア語の碑文を取り壊した。20世紀初頭修理。碑文は大英博物館にある。それによるとこの記念碑は、パルの子、イエプマタトの子、アテパンのために、アプダシュタルトの子アバリシュが建築家として、助手ザマルとマンギらとともに、建設した。頂上おかれたライオンは太陽、ピラミッド四隅のサイレンは空気の精、の象徴であり、それらは天上界を意味し、死者が騎士に導かれ、戦車に乗って天井のあの世に出発する、ということらしい。様式的にはエジプト、古拙期、ヘレニズム期の要素が融合されたカルタゴ圏における地中海建築の傑作とされる。

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 カピトリウム(カピトル神殿)。166-169年。ローマの三大守護神ユピテル、ユーノー、ミネルヴァに捧げられた神殿。マルクス・アウレリウスとルキウス・ヴェルスを記念して建設された。北アフリカに典型的な神殿形式とされ、高いポディウム、前柱形式、ほぼ正方形平面のケラがそうであるという。「アフリカ積み」の壁。すなわち切石と小割石を組み合わせ、一見軸組構造と充填材の組み合わせのような形式。また近くにはフォーラムと公衆浴場があった。

 ユーノー神殿。カルタゴの守護女神Tanitの後継者としてのユーノーに捧げられた神殿。神域の囲壁の一部は残っている。この壁は3世紀のもので、女神のシンボル三日月の形をしていた。

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 劇場。ローマ時代のもの。168-169年に建設。ローマ領アフリカにあるものとしては最も保存状態がいい。ドゥガの人口5000人にたいして、3500人を収容。

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 ケレスティス神殿。

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 その他。

 【移動】南バスターミナルにゆく。Teboursouk行きは北駅だという。バスとタクシーを乗り継ぐ。北バスターミナルにて。Douga行き10時発12:15着、2,500TUD。Dougga市から遺跡まで4KMを歩く。Teboursoukまで5km、ヒッチハイク。運転手はとても親切。Teboursoukからティニスまでバス17:00発、2,150TUD。

【観光客】イタリア人ツアー。アメリカ人家族。フランス人家族。

【現地人】チュニジア人青年につかまる。ひとりは文通を望み、住所を書かされる(結局、便りはこなかった)。もうひとりは政治と宗教にかんする質問。ヨーロッパ人はなんのためにチュニジアに来るのかあきらかにしなお。ヨーロッパ人がコーランを読めば目覚めるだろう。君の宗教は?日本人はどのくらい勤勉か?アラブ語は難しい。アラブをどう思うか?・・・イスラムは諸宗教の統合であり、宗教の最終形態なのだ・・・

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2007.09.27

磯崎新論ふたたび

 磯崎新について書かねばならない。ちょうどanythingについてこのブログでとりあげたばかりだけど、新しい展開などあるのであろうか?

 ラディカルであること。1931年生まれた彼は14歳で1945年の敗戦をむかえたのだから、その価値観の逆転から無傷であるはずがなく、すべてはそもそも無根拠だとするニヒリズムがあっても不思議ではない。さらにニヒルであるにもかかわらず、いやそれだからこそ創造に没頭するという逆説がありうることも、ぼく自身は想像できる。それにしても戦後の世代が、おなじようなラディカリズム、ニヒリズムを表明しても、彼のそれは実感の次元がちがうのであろ。ただそれを自分の仕事のどの段階で、いかなるかたちで昇華してゆくかが決定的に違うのであろう。

 磯崎新のバックグラウンドはそれほど解明困難ではないと思われる。すなわち日本がモダニズムをひととおり咀嚼し、その理論をともかくも理解し、西洋と同時代を共有できるまでに成熟した状態で、日本の伝統をふたたび解釈し、日本と西洋をともかくも同じひとつの「建築」というOS上で運動させうる段階で、建築を開始したのであろう。調査はしていないのでとりあえずキーパーソンをあげれば、岸田日出刀(過去の構成)、堀口捨巳(茶室などの「空間構成」)そして同時代人としては伊藤ていじ(日本の都市空間)らであろう。

 磯崎にとってオブセッションになっているのが、浄土寺浄土堂であり東大寺南大門である。それらは世界観としてダイナミックな造形として、理論的理解に先だって、彼にプリントされたもののように思える。それにくらべれば利休だの遠州などというのは、高尚な読者サービスにように思える。凡人なら歴史的な過去にすぎないものを、現代建築のクリエイティブな観点から躍動させる、そのことにおいて勉強させていただく。ただこの学習では磯崎のコアに近づいたという実感は得られない。

 244_jpeg026 浄土寺浄土堂と東大寺南大門

 哲学者にしてヴェネツィア市長を務めたマッシモ・カッチャーリが「群島」ということをいい、ヨーロッパ統合にたいする批判的対抗軸であろうとした。ヨーロッパの多様性を担保することにおいてむしろ統合を後押ししているようにも感じられるというぼくの個人的感想はさておき、磯崎はこの概念についてしばしば言及した。しかしその個々のシチュエーションでどういう意味で語っていたのか、そのことにはぼくは興味がわかない。現代思想的な理解ではなく、この言葉によって建築をどう類型化するか、建築の対抗軸をどうフレームアップするかをすぐ考えるのが建築家の性である。

 ここでは素直に群島/大陸としてみる。

 大陸とは帝国と言い換えられる。「帝国」といってもネグリの文献を念頭においているのではない。もっとベタな帝国である。すなわちペルシャ帝国、ローマ帝国、ビザンチン帝国、イスラム帝国、オスマン・トルコ、ムガール王朝などである。基本的にこれらは大陸の文明である。大陸を支配しなければならない大権力の建築である。そこではあけすけに巨大性、モニュメンタル、永遠性、彼岸性を指向しつつそれが建築として疑いをはさむことを許さない建築が実現された。建築はここで完成していた。つまりそこで終わっていた。だから20世紀の、ワシントンDCのキャピトル、ラッチェンスのニューデリー、ヒトラーの第三帝国などはすべて帝国もどきでおわってしまう運命にあった。ロシア・アヴァンギャエルドでさえそうであったのかもしれない。その意味で20世紀は壮大な時代錯誤なのであった。時代錯誤だから批判されるべきというのではなく、むしろそれなしでは20世紀がつまらなくなってしまうような、そんな時代錯誤であった。

 ぼくは、群島/帝国という構図において磯崎新はもちろん両義的であると思っている。日本建築はそれほど帝国的とはいえないが、古代や中世の建築は、近世以降のものよりはるかに大きな秩序への指向を表しているし、スケール感もある。彼が東大寺南大門や浄土堂においてかいま見たのはそんなものだったのではないか。

 両義的なものは浄土堂であろう。シンプルでダイナミックな構造は雄大でありながら、西方の夕日を背景として阿弥陀如来を拝観することで、バーチャルな浄土世界を体感することだとしても、古代から彼岸の世界はいつも「島」として描かれる。

 ゆえに島というアナロジーは、彼岸の世界、ヴァーチャルな世界、を意味している。それはユートピアでもありうる。理想郷というより非場所という意味で。

 磯崎新は海上都市の計画を何度か経験している。最初は丹下健三のもとでの「東京計画1960」である。二度目は「海市---ミラージュ・シティ」である。三度目が福岡オリンピック構想である。

 東京計画は機械的・生物学的アナロジーのもとに都市が東京湾上に計画される。道路システムが都市の骨格となっている。その上に空中都市が建設される。海市はマカオ沖合の人口島の計画だが、ヴェネツィア、あるいはピラネージが空想する古代ローマ都市に見たてられた海市である。ここでは「見えない都市」の可能性が最大限に発せられ、計画という理念は破棄され、都市は情報ネットワークによって成立し、間断なくビジッターらの介入によって上書きされつづけてゆく。福岡計画は、博多湾周囲でオリンピックを開催すべく、施設建設は最小限にして、宿泊施設などは豪華客船を停泊させることで、期間限定のオリンピック都市を湾上に浮かべようというものであった。

 しかし磯崎は群島を経由して、島国日本に回帰するとか、すくなくとも辻褄があるとか、そんなことではないであろう。あるいは1970年の大阪万博がすでに一種のヴァーチャル都市であったと指摘できるにしても。

 しかし彼の別の指向=嗜好、すなわちフランス大革命建築、ロシア・アヴァンギャルド建築を思い出すとき、グローバル化のなかでふたたび巨大建築が、ふたたび時代錯誤的なることで意義深いようなかたちで、建設される可能性もじゅうぶん感じ取っていたはずである。

 彼はある意味では自分のオブセッションにはきわめて忠実に生きていた。そしてこのオブセッションは分裂的で両義的であるがゆえに、外からはフレキシブルに見える。しかしそれなりの一貫性はあるように思える。その一貫性をもっとはっきり見いだして時点で、歴史家は彼に歴史的な位置を与えることができるのであろう。

 そうした群島/帝国(大陸)の構図を、もはや両義性などと指摘することも今ではどうでもいいことのうように思える。彼は世界に開かれた窓であり、それをとおして別の世界を拝むという、ぼくのような引きこもりには有り難い存在なのであろう。

 さて以上ははしり書きである。宿題がすこし明らかになった程度のことにすぎない。

 

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東方旅行(030)1987年12月29日(火)スーサ(チュニジア)

東方旅行(030)1987年12月29日(火)スーサSousse:【移動】乗合タクシーでチュニス→スーサ、2時間、3.300TUD。【食事】チキン半分5.300TUDとは高い。【帰路】スーサからチュニスまで鉄道。2時間。2.800TUD。チュニスに戻る電車の沿線は住宅街。独立住宅、連続住宅は、RC軸組に中空レンガの補填。表面は白塗り。イスラム風のアーチが装飾的。それを別にすればヴォキャブラリーは冗長ではなく、全体としては清潔。建物の規模もまあまあ。アルジェリアなどとくらべるとはるかに豊か。集合住宅も清潔なデザイン。

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市壁。アグラブ朝の時代859年、ビザンチンの要塞を取り囲むように建設。1205年、修復。1943年、空襲による爆撃。殉教者広場となる。

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大モスク。9世紀に建立。のちに改築。中庭三方の列柱廊はボールト天井、11世紀。礼拝堂に面するギャラリーは1675年。礼拝堂は6スパン、13廊式。要塞都市のなかのモスクである。中庭周囲の回廊部分の屋上も、城壁のようになっており、外側には銃眼飾りがつけられ、またパトロールもできるようになっている。

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Ribat。8世紀。最初は防御、巡礼を受け入れるため建物。のちには純粋宗教施設となる。
スーク。円筒ヴォールトがかかる。カイルーワンのものに似ている。

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その他。町並みなど。

スーサ小史。
紀元前9世紀:フェニキア人が都市を建設。
前6世紀~:カルタゴと同盟関係。
前310:シラクーサに占拠される。
前202:大スキピオに敗北。Hadrumete regional Romeとなりハドルメントゥム Hadrumetumという名称。
437:ヴァンダル人の浸入。
535:ユスティニアヌス帝、港を再整備。「ユスティニアノポリス」と改称。
7世紀:アラブ人到来。「スーサ」と改称。
9世紀:アグラブ朝。シチリア征服のためのアラブの拠点となる。
12世紀:ノルマン人の占領。
1537、1574:スペイン人の占領。
1574-1881:オスマン・トルコの支配。
18世紀:フランス軍(1770)、ヴェネツィア軍(1784,1786)の砲撃。
1881~:フランスの保護領。「スース」とフランス語風に改称。
1884:新しい港の建設。スース市政府の創設。
1988:ユネスコ世界文化遺産

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2007.09.26

伊東豊雄論ことはじめ

 そろそろ伊東豊雄論の準備をしなければならない。まずははしり書きから。

 世代論について。彼は1941年生まれである。直上の世代とは菊竹、磯崎、黒川らであり、直下の世代とは隈、妹島、青木らである。伊東の世代を、槇文彦は「野武士の世代」と称した。リアルな戦いを生き残った上の世代からみれば、平和な時代になにと戦っているのか、ということである。巨視的にみれば、それは戦後処理!であったのではないか。上の世代の戦い残された部分を戦ったのではないか。たとえば大量生産、機械的生産の単調さ、といったものへの戦い。それは総力戦構図の残滓にむけた戦いであった。

 トラウマについて。さて彼からほどよく下のぼくの世代にとっては、伊東はある意味で神格的な存在であった。それはすべて「中野本町の家」の衝撃がもたらしたものだ。つまり写真を見た瞬間、自分の内面がすべて説明されているのではないか、というショックである。ぼくの世代にとってはそれがトラウマになり、伊東豊雄は神格化されていった。

 透明性について。コーリン・ロウの透明性にかんする有名な論文を訳したのは伊東であった。ロウは虚の透明性と、実のそれを対比させ、前者を上位に置いた。しかし伊東はそれを承知でむしろ実の透明性を実現してきたように思える。いいかえれば観念よりも知覚、理念によりも視覚を重視した。

 社会性について。彼のいう社会性はもちろん、地域調査やマーケッティングのことではない。あくまで彼が社会的ととらえるものである。それは現代思想風には「他者」とよべるであろう。つまり最初はよそよそしく自分に敵対的、あるいは拘束的であるが、対話と相互理解を試みながら、しだいに味方に近づける存在である。彼は建築の力の根源を、この他者に見いだす。

 技術について。彼は構造設計家とのコラボで創造的なプロジェクトを提案しつづけている。注目すべきは、彼は決定論をとらないことだ。そうではなく、建築に介入してくるさまざまな外力をすべて受け入れられるように、フレキシブルに構える。

 風について。伊東が「風」というときもちろんそれは風水のことではない。それがアナロジーのようでいて、直截な表現かもしれない。つまり気温、日光、障害物などのありとあらゆる作用により決定され、しかもまるっきりランダムではなく、ある流れと方向性をもったもの。そこにはランダムさと規則性が同居する。・・・と考えてみれば、それは彼の建築そもののではないか。

 プレゼンについて。彼は外国でのプレゼ術を熟知している。それまでの日本人とはちがって日本固有の概念に逃避することはしない。地域の人口、密度、法規、制度など数字を織り交ぜて客観的に説明する。設計のプロセス、理念の表明のしかたもそうである。外国にいっても基本的には建築共同体なのであり、そこでは普遍的言語が存在する。それを知った最初の建築家(世代?)なのかもしれない。

 ケーススタディ1:せんだいメディアテーク。都市性あふれる建築であり、その室内は内包された広場であり、人間と人間が出会うことのさまざまな機会が提供されている。ゆえに都市的である。

 師・菊竹清訓の複合柱。しかし歴史家であるぼくはすこし意地悪な類推をする。彼の師である菊竹清訓は東光園ホテルにおいてRCの複合柱をもちいた。その複合柱は、RCなので、垂直にのびる大小の断面の柱の組み合わせであり、日本の寺院建築のような骨太の軸組構造を連想させる。せんだいは複合柱とはいえ鉄のパイプでできたレース状のものだ。もちろんそのままではない。しかし菊竹が、その説明として、柱は場をつくる、といったようなことを書いているのだが、その理念がここで再生しているように感じられる。それとは無関係なのか。この場合、柱は構造でありながら、それ以上に装飾的である。・・・そういえば菊竹も構造と空間が一致したときとんでもない傑作を生む。

 ケーススタディ2:武蔵美の図書館。アーチ構造がランドスケープを構成してるが、プランは均等ではなく、アーチ筋は交差する曲面をなしている。アーチという構造形式がそうさせるのであろうが、ぼくなどは20世紀初頭の、RC構造がまだ均等ラーメン構造に収束する以前の、さまざまな適応例があったことを思い出す。RCはじつはさまざまな可能性があったのだ。歴史的に残ったのはそうした多くの可能性のいくつかにすぎない。ちなみにル・コルビュジエはその可能性を展開したのではなく、定式化することでむしろ狭めたのではないか。もっともこの図書館の構造は正確にはRCではないのだが、萌芽的な技術のもっているこうした歴史的な可能性を思い出させる。彼と構造設計家がなしているのは、構造形式をそのプリミティブな姿に戻すことではもちろんなく、高度にソフィストケートさせることで、逆説的に、初期の段階でもっていた豊かな可能性を再生させたということであろう。

 移行期ということ。そういう意味で、伊東の建築は移行期のそれという特質を持っている。考えてもみれば、歴史的に、建築あるいは芸術とは完成されるべきものであった。ローマのパンテオンも、ブラマンテも、完成であった。しかし伊東の建築は、移行期的、変遷的であることによって逆説的な完成度を高めている。

 次に書くのは1年後かもしれないが、歴史家にとっての大宿題であることには変わりない。

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2007.09.25

【書評】磯崎新+浅田彰監修『Anything 建築と物質/ものをめぐる諸問題』NTT出版、2007/存在証明か不在証明(アリバイ)なのか?

 1990年から10年つづいたany会議の最後を飾った2000年の「anything」会議の議事録(の翻訳)である。すこし時間がたって、しかも地理的にも社会的にも遠い視点から眺めてみると、この例外的に密度の濃い活発な連続会議はやはり1990年代の特殊性を反映したものであろう。それは20世紀の最後を飾るともいえないし、21世紀を予感していたというようにも、個人的には思えない。

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 長い19世紀と短い20世紀など、時代のくくり方はいろいろだが、1990年代は不思議な時代で、冷戦構造が終わった後でありつつ、911の前というように、どの大きな時代にも完全には内包されない、バッファーゾーンのような、非武装地帯のような時期だったのかもしれない。グローバル化がすでに日程上にあり、市場原理の社会が到来するとされつつ、それでも批評などというものがまだ有効であるという幻想があった。

 会議は哲学と建築の対話でありながら、個人個人のリアルなプロジェクトや建築の解説であったりする。建築の位置づけ方においてレムとピーターは対比的である。レム・コールハースはYES体制のなかで建築は特権的にものではなくなり、その空間はジャンク・スペースとなり、建築家の仕事はリサーチそのものとなりながら、この体制がいつか根本的に覆るものであることを承知している。ピーター・アインゼンマンはコールハースに批判的であり、建築は政治的経済的文脈から切断しようという意志によって建築は批判的でありうると主張する。いっぽうジャン・ヌーヴェルは、形態ではなく戦術にオブセッションをいだく診断中毒者であることを告白し、建築は映像文化である(ポンピドゥ・センターで開催されたヌーヴェル展がその好例)という。

 ITによって物質性が変容するというのは共有された視点であった。石山修武はリアルな建築がコンピュータのもたらすヴァーチャルなものにより崩壊しながら、そのITそのもののなかに建築を見いだそうとする。ベアトリス・コロミーナはイームズ夫妻が先駆的に取り組んだマルチスクリーン技術が、当時のアメリカの世界戦略にそうものであり、今日のIT社会の先取りであることを論じている。アンソニー・ヴィドラーは、生物学的なものが建築のモデルであるという息の長い構図をもちだし、デジタル技術におけるアニミズム、情動、人間という主体にかんする不安などをとおして人間的なものが要請される構図を素描している。

 物の哲学的定義に遡及して再構築しようという人びともいた。イグナス・デ・ソラ=モラレスは襞とミニマリスムを論じている。ユベール・ダミッシュは、建築とはなにかという問いを建築とは何でないかという別の問いからはじめているが、それにしてもanyの概念が未決定性であり、それがプロジェクトのための言葉だとしたら読者ははぐらかされているだけだ。磯崎新+浅田彰は、モノは形相と質料という二元論の構造を外部から支え、それらを生み出すのであり、プラトンのいうコーラであるとする。柄谷行人は、物とは他者であるといい、any会議における自分がそうであると指摘しつつ、カントの『判断力批判』に言及して、関心を括弧にくくることが美的判断であるが、その括弧をはずすことも重要であることを指摘している。

 いずれも移行期における議論である、というのがぼくの印象である。

  「<anything>への手紙」のなかでコーエンがCIAMやUIAとの比較を試みていたが、ぼくなりにCIAMと対比してみよう。主催者のひとりがル・コルビュジエであったこと以上に、1928年に開始されたことのほうが歴史的には重要であろう。つまり世界恐慌によって、建築のつくりかたが一変してしまった。建材の価格が高騰したばかりではない。民間クライアント、そして地方自治体クライアントが相対的に没落し、国家レベルでの政策が重要になってくる。住宅供給、都市計画、そして防空計画などである。そこでは国家という主体による普遍的な「政策」が確立された。CIAMが機能的都市計画やミニマムハウジングや団地計画などを具体的かつ強固に立案できたのは、それらに対するカウンター政策としてであった。いいかえればCIAMはシャドー・キャビネットとして代替政策案をつぎつぎに策定していった。この運動の存在感と情報発信力の根源はそこであった。

 しかしany会議はそもそも当事者が決定不可能性から出発しているように、グローバル資本主義の支配のなかで、対抗軸になろうとも、対抗する相手がいないのである。国家はもはや確固たる「政策」を立案しようとはしないので、建築家は代替案をつくりようがない。世界を浮遊するキャピタルがつぎなる投資先を求めてさまよい、いいプロジェクトがあればそこに集中する。公的セクターは小さくなり、民間セクターが中心となるが、そこでの評価軸にはもはや公共性の構図は適用されない。こうした状況のもとでは、建築家の主張は、いわゆる自己評価にきわめて近いものとなる。決定不可能性、つまりあらかじめ基準が与えられていないのであれば、自分で評価基準を設定し、自分でチェックし、自分で点数をつけてゆくのである。哲学との対話は、建築家が自分で選んだ評価基準ということになろう。そういう意味では質量ともCIAMを圧倒しながら、歴史としてどちらが残るかというと、いまのところ判断は難しくないと思われる。

 コールハースが指摘するように体制などすぐ替わってしまうものなら、彼らがその先を考えているほうがむしろ健全である。Any会議における、内容の濃さとは対比的な、全体としての歯切れの悪さは、建築家たちがこの後世どう評価されるかわからない時代にあって、存在証明と不在証明(アリバイ)を同時におこなっているからなのであろう、というのがぼくなりの解釈である。

 たとえばコールハースはYES体制をはっきりと前提とすることは存在証明であるが、それが保留付のシニカルな態度でなされるのはアリバイ伏線であると受け止められるし、アインゼンマンもまた建築の自律性をもとめるのは不在証明でありながら、もちろん全否定ではない。

 こうしたグローバル資本主義の状況は過去のどの時代に類似しているのか? フランスでいえば18世紀後半であろう。7年戦争が終わってイギリスとの通商関係が再開され、資本が不動産に投資されるようになった。投機の時代であった。しかしそれが革命によって、イデオロギー的にも経済的にも逆転する。こうした激変のなかで、バブリーな時代にすでに流行作家であったルドゥなどは、革命後、それまでの自分のプロジェクトを脚色しほとんどつくりかえて、いかに自分が革命的な建築家であったかを演出する。つまりアリバイ工作をするのであった。

 こうした状況はいつまで続くのか?ぼくにわかるはずがない。ただ冷戦は半世紀ちかく続いたので、それと比較できるような長さなのかもしれない。そしてアリバイ工作などと書くと悪い意味にとられがちだが、そうではなくて、先の先になって自分がどう評価されるか、歴史的にどう位置づけられるかに意識がゆくのは、やはり建築家であるゆえんなのだ。

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2007.09.23

イスラム圏のキリスト教会建築

 ふたつの教会は似ていないだろうか。三角のペディメントと大アーチ、大きな円形の薔薇窓 、こまやかなアーケード、3連アーチの玄関という構成である。塔のつきかたが違うが、どちらも双塔である。 

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  これは「東方旅行」ですでに紹介したものである。左はチュニスの大聖堂、右はアルジェのサン=シャルル教会。建築的には同じ系統のデザインであって、同一建築家がさまざまなバリエーションを展開したというようにも想像できる。すくなくとも同じ教団の建築政策のもとで設計されたのであろうと推測される。イスラム圏における植民地時代の建築はまだまだ十分には紹介されていない。また教会はかならずしも国家的枠組みに対応しているわけではない。・・・しかしいずれにせよ、アルジェとチュニジアにおいて類似の教会デザインがなされたことは、なんらかの背景があったことを推定させる。

 残念なことにWEBで検索しても、オルガンの紹介であったり、古い絵はがきの紹介であったりで、建築家や建設年代はよくわからない。20世紀初頭であろう、くらいである。また最新の文献でもくわしくは紹介されていない。

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サン=シャルル教会の古い絵はがき。WEBより。

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2007.09.22

【書評】八束はじめ『思想史的連関におけるル・コルビュジエ---一九三〇年台を中心に10』10+1, no.47, 2007, pp.176-192

 連載の途中の回だけの読解なので全体を見ていないが、アルジェについて(東方旅行020~)書いたあとで、そのアルジェにおける近代都市計画にふれた八束論文にたまたま目にとまったので、理解を深めるよい機会とさせていただいた。

 内容は表題からあるように、アルジェ都市計画をめぐるプロスト、ル・コルビュジエ、CIAM、TEAM Xなどの思想とプロジェクトの展開である。ぼくなりの位置づけとしては『思想としての日本近代建築』(岩波書店2005)と同じ視点からかかれている著作である。すなわちエリート=前衛である建築家たちがその近代主義をいかに展開したかを、賞賛と批判を公平に書き分けながら、彼らの思想的な転向問題をも含めて、書いている。おそらくこの連載はこの視点からル・コルビュジエや彼と同時代の建築家たちの思想を描こうとしている。ちなみにフランス人にとっての北アフリカは、日本人にとっての満州であって、こうしたアプローチは当を得たものであろう。1931年の植民地博(そのときの建物がパリのヴァンセンヌ門近くの太平洋植民地館である)、衛生指向の都市計画、カスバへの介入、住居計画などとしてフランス人たちが介入していったということが先行研究を丹念に読解しつつ描かれている。

 しかし彼の文章を読んでいつも感じることがある。その広範な読解をとおして学習させていただいているとともに、あるいはそれ以上に、こうした物語を描く八束本人の思想の軌跡としてどうしても読み始めてしまうというということである。

 ぼくは長い経歴の八束読者なのだが、彼が30年近くまえにヨーロッパのラショナリズム、フォルマリズム、コテククスチュアリズムの紹介でデビューした当初は、進歩的思想の移入という近代的インテリと思っていた。しかし転向論、日本近代についての論考、そして丹下健三の最後の弟子であることの自負などを知るにおよび、彼は西洋も日本もおなじ視点からきわめて一貫した変わらぬ視線で批判的に考察しつづけた人物であることを知るにいたった。

 アルジェそのものについてはコーエンのモノグラフが主著であるがそれには言及していないこと、また1930年代に的を絞っていることの不満はある。つまりアルジェは植民都市である。それは西洋がアラブを支配したということにとどまらず、植民、すなわち民を植え付けるといった直な表現のとおり、それは既存集落の傍らに建設されたヨーロッパ人によるヨーロッパ人のための都市である。それは1840年代から建設がはじまっている。つまりオスマン以前である。おそらく植民都市における新規性というものがあれば、オスマン以前にオスマン的なものが建設されたはずであったということである。それを19世紀的なものと位置づけることができる。

 つまりル・コルビュジエたちの近代主義は、カスバ=アラブ的ということのほかに、19世紀的なヨーロッパ植民都市としてのアルジェに対抗するといったことがあったはずである。そしてここが満州との違いである。もちろん八束が最後に指摘しているように、オリエンタリズムはユニラテラルであり、近代的であることの問題はそこにもあるのであろう。そのとおりであろう。しかしそのほかに国内問題、国内の対立の構図を、海外(もっとも植民地だから外国ではないのだが、歴史的にはやはり異国である)にそのままもってくることのはた迷惑でということであろう。八束が最最後にいった「バナキュラー」問題も、60年代に注目されたバナキュラー概念をいっているわけで、たんなる近代=普遍/伝統=土着という時間軸の話ではなく、西洋/非西洋という別の問題を含んでいるといっているわけである。ただそれは近代主義よりもっと普遍的な問題となるのではないか、という気もするのでわざわざ指摘したのである。

 最初の話題にもどって、読者にとって学習になること以上に、八束自身の思想が見えてくるということである。彼の同世代人がいわゆる近代批判ということでほぼ一致しているのとは違って、彼は両義的である。彼は近代主義を批判するときでも、自分が批判することに意義があるといったスタンスでそうするのであり、そこにはモダニストであることの自負が顕著である。近代主義はたとえ批判されるべきであっても、それは近代主義がさまざまなものを引き受けようとした、その重さにあるのだ、と語っているようにも感じられる。彼がもし最後のモダニストとして生き、そしてモダニストとして終わろうという決意であるなら、それはぼくの昔の予想をはるかに超えた、とても重いことであることは明らかだ。

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藤森照信論(7)しかたないからいちおう結論にしてみよう

 前回は8月11日であった。かなり時間がたってしまった。書き手自身が内容を忘れそうである。そこでとにかく結論的なものを出さなければならない。

 そもそもの発端は、彼が建築家として突っ走りながら、赤派/白派などという彼自身がつくったカテゴリーには頓着せずに爆走をつづけていることにたいし、ぼくが疑問を感じたことであった。赤派/白派という枠組みがほんとうに有効で普遍的なものなら彼自身がきれいにそこにおさまるはずである。いっぽう建築家として彼がほんとうにオリジナルであれば、そんな二項図式など無関係なはずだ。だから建築家と建築史家としての二律背反という問題がどうしても浮上してしまうのである。

 そこでぼくは生気論/機械論という、いささか常套的だが、近代の構図を決定づけている二分法をとりだしてみて、それと赤派/白派を揺さぶってみようと考えたのであった。

 近代建築にはいわゆる機能主義という理論がある。じつは正確な定義はどこをさがしてもないのだが、しかし大正から昭和初期の日本の建築雑誌には機能主義的な言説がたびたび登場する。つまり様式だのある種の装飾モチーフだのといった事前に準備されたものを念頭において設計するのは「恣意的」である。そうではなく、建物の用途、機能、プログラムを率直にうけいれてプランを考え、経済性や強度の観点から最適の構造と材料を選択すればよいのである。・・・というのがこの「機能主義」の大前提である。しかしそれにとどまらない。そうやって恣意性を排除して設計すれば、そのプログラム、適正な構法を経由して、いわゆる時代精神あるいは芸術意志といったものが自然と反映されて、まさにその時代にふさわしい「様式」が自然に生まれるのである!・・・つまり捨てて勝つ!あるいはスポーツで疲労困憊したときに身体が最適で無駄のない運動を自然にする、みたいな考え方である。前回それをぼくは「奇跡」と呼んだが、この奇跡がかなりおこりうると考えていたのが近代なのであった。

 藤森の建築はそれこそ恣意性のかたまりであり、装飾的な要素であったり、素材の端部の処理であるとか、彼のテイストがどこまでも求められる。しかしいっぽうで、個人的な造形をもとめて技術的な解法をそれぞれの現場で試行錯誤してもとめてゆくやり方は、すでに解法を事前に知っている職人とはちがって、事前の恣意を排してかなり心をタブラ・ラサにしている。さらには縄文建築団の手業のランダムさが結果的にいい味わいを生むなどというのは事後的に生まれる美学であるといえる。つまりおおげさな比喩をすれば、できあがったデザインを脳裏にかなりイメージしながら設計するのを目的論的・生気論的アプローチとして、その逆に、すべてを別の因果法則やあるいは機械的なランダムさにゆだねるやり方を機械論的としてみる。すると藤森の建築は、この矛盾を内包しつつ、それをかならずしも理論的に克服するのではないけれど、あるいは理論的にそうしても建築にはならないので、実践と創造のなかでうまく折り合いをつけながら、二律背反を乗り越えてゆく。

 しかし前回書いたように「近代建築そのものが生気論/機械論の矛盾の統一だとしらた?つまり国家的偉容、万人のためのハウジング、衛生健康、文化の普及といった政策的目標は掲げながら、その手続きは、発展したテクノロジーに身をゆだね、あえて恣意性を排除することで時代精神という背景が憑依することを期待する。すなわち主体が機械的であれば、それだけ超越的な目的がとりつきやすいのである。だから二元論の克服こそが近代のプロジェクトであったとしたら・・・」どうするのだろうか。つまり藤森建築はまさに近代の構図をそのまま反映しており、体現することで批判とはなっていても、やはり近代建築のなかにとどまるものであったとしたら?藤森の立場はないではないか?

 近代とはなにか、近代精神とはなにか、という問いは、ぼくが学生であったころから繰り返されてきた。当時の建築史の偉い先生は、極端な合理主義、つまり理性によって意味を見いだせるもののみで世界を構築しようとする精神が近代的だといって鋭い近代批判を展開していた。しかしほんとうにそうだろうか。意識が支配できないものが、神や王いがいにあることが近代の発見であった。そして意識と意識外との葛藤というところに近代の意味がある。

 それを考える最適な例は、ぼくが最初に指摘するのではないけれど、やはりカントのアンチノミーだと思う。つまり世界はひとつの理論では支配できなくて、かならず二律背反になる。そのとき人間はどう実践してゆくのか、という問いである。たとえば必然性と自由のあいだのアンチノミー、つまり万物が因果論的にその運命がきまっていれば自由はない。自由が成り立てば因果論の意味がなくなってしまう。この哲学は、論理構築的というより対話的でありダイナミックである。

 カントについては『カントの哲学』(池田雄一著、河出書房新社、2006)の書評がWEBにでていた。こんなことが書かれていた。《カントは『判断力批判』のなかで、人体に対しても、それを何に使ったらいいのかわからない道具としてみる必要があると述べている。カントにとって美学的に世界をみるということは、世界を廃物として眺めるということを意味するのだ。このことは、世界を美しい仮象、スペクタクルとして鑑賞するということを意味するわけではない。》カントの批判哲学はシニシズムを帰結する。しかし同時に「シニカルな時代における行動の原理、シニシズムの対抗原理」をそこから読みとることが可能だ。その転回は、あたかもプトレマイオスの天動説から「趣味判断」をもってコペルニクスの体系にシフトするようにしてなされる。このコペルニクス的転回のための具体的方策は、カントを第三批判書から読み解くことである。世界を美学的に見ることである。

 美学的にみるということは要するにカント的に見るということであろう。それは二律背反そのものを受け入れた地平に身をおくことである。たとえば堀口捨己は「目的なき合目的性」という言い方でそうしたのではないか。

 藤森は生気論/機械論、目的論/合理論というアンチノミーを理論的に克服したのではなく、実践においてそれを生きることで世界を美学的に見ようとするのである。

 伊東豊雄が藤森を評して、白派と赤派という違いがあるが、どこかで出会うだろと指摘したことは当然だと思う。赤/白はほとんど表層的で建築史的な単純なレッテル貼りにすぎないからである。さらには伊東もまたアンチノミー実践的に生きることで世界を美学的に見ている。そしてそれらは、ぼくの目には、近代建築における最良の部分であるように映るのである。

 さていちおう結論を出してみて、いまさらカントのアンチノミーを持ち出す古さはいかんともしがたい。そもそも藤森の建築を思想という目で判断するのがおかしいのである。彼の業績は、最終的には、建築史の視点から、建築史家として、判断すべきであろうと考えている。

 そういう意味では、伊東忠太を継承するのは藤森照信その人しかいない。世界了解のしかたにおいて、建築を身体性において理解するその所作において、建築を個人化しようとするその腕力において、継承しつつ凌駕しているかもしれない。伊東忠太を頭で理解しようとする人びとはたんなる注釈者にとどまるであろう。ぼくは、身体で理解する歴史がどんなものなのか、とうてい想像不可能であるがゆえに、藤森照信に注目するのである。

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2007.09.21

東方旅行(029)1987年12月28日(月)チュニス/保護領下であり政教分離でありというクロスした状況とはいかなるものであったか?

 チュニスは見所の多い都市であるが、日程の関係でカテドラルとスークしか拝見していない。しかしカテドラルは、コロニアルな状況のなかでキリスト教建築の建設、しかも本国では政教分離といった、単純には整理できない状況での建設であったことを考えると、即断できるしろものではない。(なお建築解説は後半)

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 【航空券】Hotel Internationalにあるエジプト航空オフィスで購入。12月29日は満席だったので、12月31日チュニス→カイロ、227TD(=280ドル、4万円)。ヴィザカードで支払い。【宿】Hotel Central, rue Suisse。ダブル、一泊5TUD。移動疲れがたまっていたので、今日は一日チュニスでゆっくりすごそう。【両替】60ドル=45.800TUD。【新聞】1987年12月27日付のル・モンド紙によると「1ドル=125円という円高ドル安は日本の成長を促進するであろう」。

 【チュニス略史】チュニス小史。古代、フェニキア人が都市チュニスを建設。それは侵略者が交代していった歴史であった。フェニキア人、紀元前18世紀にカルタゴを建設。ローマ人。ビザンツ人。ヴァンダル人。シチリア経由のノルマン人。アラブ人(7世紀、ウマイヤ朝。750年、アッバース朝。800年、アグラブ朝。909年、ファーティマ朝、969年、カイロ遷都。1229年、ハフス朝)。スペイン人。フランス人。オスマン・トルコ(1574年~)。17世紀、レコンキスタでスペインから追い出されたムーア人たちが住み着く。1881年、バルド条約、フランス保護領。1943年、連合軍による解放。1956年、独立。

 【暴言】これだけ遺産に恵まれながら、それを生かそうとする精神がなかったのか?古代、中世、イスラムをもちながら、建築にたいする自我をもてなかった。ここにある近代建築もフランスの2流業者がすきかってにやったという感じである(それをおもえばヨーロッパの古典主義は空前絶後である)。あまりに保守的でダイナミズムに欠ける。発展の可能性をみずから見ようとしなかった?いやむしろ「完成」という概念があったというべきかもしれない。これこそが日本になくてイスラムにあるものか?

 【文献】モロッコ、アルジェリアとは異なり、ここには建築史の学術研究書がちゃんと書店で売られている。

 【テレビ】イタリアの番組が流れていた。地元番組はフランス風。

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 大モスク。732年建設。内部は15廊式で6スパン。186本の円柱は、カルタゴにあったローマ時代の神殿からの転用材。カイルーワンの場合は不明であったが、ここのモスクは転用材の出所がわかっている。柱が、とくに柱頭が、古代と中世を媒介にしている。

 どうじに古代建築からヨーロッパ建築に一本の線をひきその排他性を強調することがいかに現実を無視していることがわかる。イスラム建築もまた古代を継承しているのである。つまり古代はあとのさまざまな文明にとって共通の基盤でありOSであったということができる。

 スーク。とても狭い。はやく歩けない。

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 チュニス大聖堂。フランス式のとくにイル=ド=フランスのゴシック建築にはよくある対の塔。中央大アーチは、中世ではなく、むしろ19世紀的な都市性(都市空間に見合った大要素)のための演出に思える。下大アーチ上のアーケードはロマネスク風。ドームはビザンチン様式がペリゴール地方に伝わった様式に近い。ドーム見上げであるが、スキンチ・アーチであり、これはビザンチンにもフランス中世にも見られる。感覚的にはクリュニーとかあのへん。平面はフランスに一般的な、周歩廊がめぐっている巡礼式のもの。身廊のアーチはブルゴーニュ風。20年後、ウエッブで調べるのだが、20世紀初頭の建設ということしかわからない。ステンドグラスは当時の抽象絵画の影響を受けたものがあり、同時代性がわかる。

 ところが大聖堂身廊の柱と柱頭がおもしろい。すべて違っている。これもまた転用材である。そこから推測できることは、古代建築が(ひょっとして古代神殿が?)解体され、柱と柱頭が、イスラムのモスクに転用され、さらにそれが教会に転用されたとしたら?3宗教を渡り歩く柱たちがいたとしたら?この仮説は歴史家のロマンである。

 また上で述べたように、保護領下で、しかも政教分離下で、キリスト教会堂を建設するということがどういう具体的な状況であったのか、判明を要する。つまり国は財政支援しない、宗教団体が自助努力で建設する。しかし、ここからは可能性の話だが、宗教団体が建設の財源確保のために植民地でさまざまな活動をしたのではないか、それはなにか・・・・ロマンは続く。手前みそだが、こういうことが「長崎の教会」などと比較して検討されるべきなのだ。

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2007.09.20

東方旅行(028)1987年12月27日(日)カイルーワンの大モスク/建築の過渡期性ほど感銘を与えるものはない

東方旅行(028)1987年12月27日(日)仏Kairouen:英Qairouan:現地人の発音は「ケルワン」と聞こえる。

 あまり生産的な一日とはいえなかった。旅行日記によれば、この不満の残る一日は・・・ 。

7h30-9h30:乗合タクシー乗り場をさがすのに2時間もかかった。

9h45-11h45:タクシーの車中(3.400TD)。

12h00:ガイドしてやろうというチュニジア人青年ふたりにつかまる。親切そうではあったが、彼らにぼくの一日は支配された。

12h15:大モスクに到着。しかしキップが必要だという。

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12h30-15h00:くだんのチュニジア人青年の自宅で食事をごちそうになる。クスクス。彼は絨緞製造業者の息子であった。その自宅は裕福な生活ぶりを物語っていた。お母さんがやってきた。若い人はたくさん食べて元気にならないといけないよ、とありふれたことを語っていた。アラブ語でしゃべっていたが、そのときだけは理解できた。チュニジア人青年はアジアや日本にも興味があった。なぜヨーロッパの国ではないのに高度経済成長ができたか、などと質問してきたので、江戸時代すでに高度に発展していたのだよ、識字率も高かったし、などと解説した。

 15h00-16h00:やっと大モスク見学。かのチュニジア人青年はどこまでもついてくる。彼はアジア好きで、空手にも興味があった。組み手のポーズをとらせ、一緒に記念撮影させろというので、そうした。どこまでも友好的で親切であったが、建築のディテールをこまかく観察する余裕などない。

 16h40-17h40:乗合タクシー、カイルーワンまで1.700TD、そこからスースまで2.800TD。

 18h12-20h30:鉄道でスースからチュニスまで移動。車中、50歳くらいのチュニジア人男性と世間話をする。とても親切な人であったが、女性の社会的地位にかんしてはイスラム的理解を示していた。お国自慢をひとしきり。「アフリカといっても地中海側とサハラのむこうは違う。ここはイスラムの国で、地中海をとおしてむしろヨーロッパと交流していた。イスラムはヨーロッパよりも進んでいた時期もあったよ。ぼくたちには地中海アイデンティティといったものがあるんだ。それはヨーロッパに近いものなんだ」云々。

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カイルーアンの大モスクは836年以降建設。アグラブ朝(800-909年に北アフリカを支配した王朝で、首都はカイルーアン)の主要建造物。後述の将軍が南のベルベル人、北のビザンツ人から逃れるために、この地を選び、都市と同時に建設。ひとたび破壊されるが、695、774年に再建。たびたび改築。中庭のポーティコは9世紀、13世紀。ウマイヤ朝やアッバース朝の首都との関係が深かった。塔は礼拝堂の中央軸線上にたつ。9世紀に増築。ミヒラブのこの時期に充実された。その光沢のある化粧材で覆われたミヒラブの様式はイラク起源。

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 壁面装飾はごくわずかで、レンガがむきだしで、ローマ的威厳を感じる。簡素で純粋。イスラム建築はすぐれて表面と装飾の建築である。塔、礼拝堂の中央部の天井が高いこと、ミヒラブの様式・・・などがマグレブ、スペインのイスラム建築にとっての模範となった。

 柱頭、円柱はローマ時代の別の建築からの転用材である。ドームはビザンチン的。塔は閉まっていた。一般的によくメンテされている。このモスクは西イスラム世界では最古のもの。4角の塔はテイパーしてゆく壇状の様式はシリア式。

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  ぼくが感動するのは柱頭である。イスラム建築は、初期において、古代建築やビザンチン建築の転用材をそのまま使っていた。このモスクの柱頭もひとつひとつすべて違う。670年に建設された都市だから、この地に古代建築があったのではなかった。しかし周辺のどこかから運んできたのであろう。様式的には、ローマ、ビザンチン建築の転用というのが通説だが、ビザンチンではなくやはり古代ローマの建築から転用したもののように思える。抽象的な理念やデザインの図式ではなく、この柱頭というなまなましいものを媒介として古代と中世はつながっている。それを「過渡期」とよぶ。しかしこの過渡期的建築こそ、むしろ感銘を与えてくれる。様式として完成されたものは、じつはそれほどでもない。過渡期にはまだ定まっていない、しかし理念として存在していたある理想にむかっての希求が感じられる。それはやはり事後的に感じるものにすぎないとはいえ。

 カイルーワン小史。670年にアラブ人将軍Uqba ibn Nafiが創設。したがってギリシア、ローマなどの前史はもたない。ここはかつては林のなかで、軍事的な要所であったそうである。800-909、アグラブ朝。カイルーアンの最盛期。909年、首都の地位を失う。そののちエジプト、オスマントルコの侵入をうける。1057年、Hilaliensに都市は破壊される。1702年、Hussein Ben Aliは城壁を再建。1881年にフランスが占領。1988年、メディナがユネスコ世界文化遺産に登録。

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2007.09.18

東方旅行(027)1987年12月26日(土)カルタゴの古代遺跡/古代にふれたということだけが教訓であってはいけないのだが・・・

東方旅行(027)1987年12月26日(土)チュニス滞在、カルタゴ見学【両替】チュニジア銀行で80$=62.160DA、しかしチャージが1.200とられるので、60.962DAとなる。【航空券】チュニスからカイロまでの航空券。ティニス航空で月曜11h45発107TUD、エジプト航空で火曜・木曜発で228.500TUD(約4万円)。月曜、火曜は満席とのこと。【書店】ミシガン大学が出版した『カルタゴ発掘1976』があった。

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(左)アントニウス浴場。海に面して美しい。ここは採石場として活用され、チュニス市内、そして北地中海の都市たとえばピサ、に建材を補給する拠点となった。今は白い円柱が一本、復元され立てられている。(中)劇場。おもしろさなし。(右)ローマ人のウィラ。ペリスタイルが復元されている。

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 【カルタゴ博物館】ローマ人はカルタゴの丘のうえに広大なプラットホームを建設して平地のようにしてしまった。そこをフォーラムとした。いわゆる「アフリカ積み」の壁面が印象的である。

  ただここの遺跡は建築史にはあまり登場してこない。傑作が少ないからである。なぜカルタゴか。それは世界史的に重要だからである。

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   カルタゴの古代ローマ遺跡は海に面している。水平線は見えない。空と海がたまたま同じ色をしていたからだ。崩れたアーチのなかに船は浮かぶ。 

  プチ歴史。カルタゴは紀元前814年にフェニキア人が建設した。フェニキア人は地中海を支配したが、その覇権をめぐってシチリア戦争、ポエニ戦争がおき、結局前146年にローマにより滅ぼされた。ローマによる植民はまず紀元前122年にガイウス・センプロニウス・グラックスによって、さらにカエサルとアウグストゥスによりなされた。現在の遺構はほとんどローマ時代のものである。ちなみにアウグスティヌスはティムガドの出身であり、カルタゴで弁論術を学んだ。

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  5世紀、ヴァンダル属の支配。6世紀、ユスティニアヌスはヴァンダル王国を征伐し、ローマ領とした。カルタゴとラヴェンナには総督府が設置された。647年以降、アラブ人たちが侵攻し、698年よりイスラム教徒が支配した。

 ところで日本人による興味はここで終わる。つまり文献やWEBのなかの記載は、古代とイスラム化した時代についてのみで、ヨーロッパ諸国との関係や、フランス占領下のことはほとんど触れない。十字軍を引き連れカルタゴで亡くなった聖王ルイを記念するサン=ルイ大聖堂が、19世紀、建設された。1979年、ユネスコ世界文化遺産となった。しかしこのことはカルタゴの地中海性をものがたっており、ヨーロッパとくにフランスとの関係の深さを物語っている。日本人はべつに西洋人の視点や興味をもたなくともいいのだが、しかしそれでも、古代ローマ文明の継承性、とくにキリスト教時代があったことなどが、植民地支配の正当性の根拠となっているという構図を見なければならない。

 現在の遺構は、建築の偉大さを表現するようなものは残っていない。思い出すのは1980年代、日本がアメリカと貿易摩擦をおこしていたころ、日本はフェニキア人でアメリカはローマ人だと比喩されていたことである。日本は貿易国家として繁栄していたが、繁栄も度が過ぎると、ローマ帝国=アメリカが征伐しにやってくるということである。

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2007.09.17

パリ外国宣教会(Missions Etrangeres de Paris)についての情報収集/フランス人宣教師たちは原風景を長崎にうつそうとした?

 長崎の教会についてぼくの周辺では騒がしくなっている。地元の人びとが取り組んでいる最中なので、ぼくなどが余計なことをすることはできない。しかし西洋建築の専門家として、フランスからあるいは宣教する側から見た長崎の教会堂はいかなるものかについて若干スタディしたので、ご披露したい。意欲的に取り組んでいる若手の研究者のみなさんには、これを参考にして、ぜひ頑張っていただきたい。

最初に気がついたことを結論先取り的に箇条書きする。

・パリ外国宣教会は、いわばポスト・イエズス会として18世紀に布教の任を失った同会にかわって、アジア布教を教皇からまかされた。

・パリ外国宣教会は、インドシナ、中国などと貿易・外交関係を結ぶためのフランス政府の先兵としての役割を果たすこととなった(これはイエズス会とポルトガルの関係と同じ)。日本においても、フランスの先端技術は大胆に輸入されていたし、宣教師の来訪はそれと平行している。

宗教の側からの近代批判であった。フランスではフランス革命以降、19世紀全般にわたって、世俗化、近代化、産業化により社会は急激に変化していった。地方の、田舎の、信心深い人びとはそうした変化にたいし、たんに適応できないといったものだけではなく、確信犯的に対応したくないという心性がつねにあった。パリ外国宣教会に入会して、海外へ布教することは、そうした人びとにとってのはけ口であった。

・アジアは、とくに日本は、そうした現代文明に不満をもつ宗教家にとっては、布教のフロンティアであり、フランス母国において失われつつあるキリスト教的理想郷を、べつの形で実現しようというものであった(のではないか?)。すくなくとも世俗化してゆく母国、だからアジアをキリスト教化しよう、というモチベーションがあったと推定する(仮説である)。

・長崎にゴシック様式の教会堂が多いのは、こうした宣教師の原風景である。彼らはフランスの田舎の小さな町や村の教会という環境で育った。そしてフランス的現代文明には批判的であったとしたら?明言はされなくとも近代都市に批判的であったら?パリやアルゲでは流行最先端の様式がつかわれているが、それが表層的なものに感じられたら?彼らは自分たちの理想的風景を異国の地において実現しようとした。(仮説としてはこんなところである。もちろん証明するにはかなりの調査と研究とをようする)。

・1例としてマルマン神父の郷里の教会堂である。みごとに高窓がない(長崎の教会堂にみられる傾向。高窓のある教会は少数)。

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以下は情報収集。なお「パリ外国宣教会」の名称は時代によって、呼ぶ主体によって違う。外国宣教神学校、外国宣教協会・・・など。フランス語のHPでも一定ではない。

  日本語のウィキペディアとフランス語のそれとではずいぶん違う。情報量も違う。とりあえずフランス語版に準拠する。パリに拠点を置くカトリックの使徒団体。世界に福音伝道(布教)が目的。厳密に定義すれば、修道会でも教団でもなく、その会員たちもかならずしも修道士と見なされているのでもない。

 設立は1658-63年。アレクサンドル・ド・ロド(1591年アヴィニオン生)はイエズス会士としてヴェトナムで布教していた。聖書を現地語に訳す活動をしていた。しかし1630年に迫害にあい、戻ってきた。彼は教皇アレクサンドル7世に支援されて、3人のフランス人司教を説得して、アジア布教のためのミッションの旅に出発させた。3人とは、ピエール・ランベール・ド・ラ・モット、フランソワ・パリュ、イニャス・コトランディである。彼らがフランス宣教会の事実上の創設者であった。彼らは総勢17名でフランスから出発したが、2年にわたる旅のあいだに、8名がなくなった。そのうちのひとりがイニャス・コトランディである。
  フランソワ・パリュ猊下(ヘリオポリス司教、使徒座代理区長vicaire apostolique)であった)、ピエール・ランベール・ド・ラ・モット猊下(Bertyus司教、コーチシナ=現在のベトナムの使徒座代理区長)らが創設者。

 目的:教会の設立と、司教裁判権に従属する地元聖職者の育成によって、キリスト教を布教すること。宣教師を志願する人びとをリクルートするために、パリのバック通りに1663年、拠点が建設された。外国宣教神学校(Seminaire des Missions Etrangeres:アクサン省略)となのり、教皇アレクサンドル7世から承認され、フランス政府の法的認可をうけた。

 当初、これは修道会でも教団でもない。メンバーである司祭は、なんらかの教区に入籍したままであり、「布教聖省」(1662年、グレゴリウス15世によって布教を目的として設立された機関、今日のCongrégation pour l'évangélisation des peuples)の枠組みのなかで、外国のその地域の「使徒座代理区長」のもとで布教活動をするのであった。

  1710年。宣教会の規則が確立された。1840年、宣教師になれるのは司祭だけであったが、神学校生徒でも可能になった。神学校生徒はこの協会に入籍した。1917年、教会法が改正され、「外国宣教会」は司祭の協会であることをやめ、在俗司祭で構成された宗教団体となった。こうしてこの団体はその長と規約を投票で決めるようになった。

 神学校に入れるのは35歳までであり、最低3年間の布教経験ののちに、この協会のメンバーとなれた。

 布教史であるが、1658年から1700年まで。協会の布教本部はタイのアユタヤにあった。そしてトンキン(ベトナム北部)、コーチシナ、カンボジア、タイに布教をおこなった。4万人が洗礼。女性の教団も設立された。33人の現地人司祭が生まれた。

 もちろん協会の布教活動は、インドシナやインドにおけるフランスの商業活動の先兵でもあった。当時フランスはこれらの国々と通商条約をむすび、大使を置いた。バンコクを占領したし、インドシナ全体を支配する寸前までいった。しかし地域の司祭と司教のもとに、地域教会組織を管理した。

 18世紀前半、イエズス会はインド布教の担当を禁止されると、この宣教会がそれを担当した。イエズス会士たちは現地に残ったが、布教の成果はあがった。18世紀末、現地人の司教は6人、司祭は135人を数えた。神学校は9カ所。信者は30万人。洗礼は年3万人ほど。しかしフランス革命で一時頓挫した。

 19世紀に宣教会は活動を再開した。その財政を援助したのは、教皇に支援されローマに本拠をもつ教団Congregation pro Gentium Evangelisationeであった。

 布教の過程で、殉教するものは多かった。重要なのはこうした事件が、新聞、雑誌、書籍によって描かれ、ヨーロッパ諸国(とくにフランス、イギリス)の国民の感情に訴えたことである。これがコーチシナと中国に、さらなる宗教的、商業的、そして軍事的介入をすることに、国民的な合意をとりつけることに貢献したのであった。ちなみにスエズ運河もまた、布教の拡大という目的からも支援されたのであった。

 宣教師たち。19世紀と20世紀、宣教師になろうとする人びとの大部分は地方の田舎の出身者たちであった。これら僻地の田舎では、そもそもフランス革命の新憲法に宣言を拒否した司祭たちがいて、抵抗の精神をもち、暗躍するひとびとがいた。宣教会が1815年に再開すると、参加した若者たちはほとんどこうしたメンタリティの持ち主たちであった。数年ののちローマの布教本部は、こうした地方のあらゆる教区に海外布教活動を呼びかけた。教区組織が再建されるにつれ、さまざまな不満へのはけ口として、布教活動は教区の司祭たちの心をとらえた。彼らのほとんどは信心深いが貧しい家の出身者たちであった。家族は勉強のためにお金を出せない。彼らは布教活動をしたいと打ち明けると、家族や親近者たちはは猛反対した。それは家族の断絶、逃げるような別れ、別れの言葉もない離別、といったことが多かったようである。もちろん時がたって和解することもあったようだ。

 殉教がさらなる宣教熱を呼んだ。フランスの教区、司教区から宣教に旅立った誰かが殉教すると、その教区から次の宣教師が名乗りをあげるのであった。こうした司教区は、ブザンソン、ポワチエなどであった。さらに殉教が縁で、フランスの司教区と、海外の使徒座代理区が友好関係を結ぶということもある。

 宣教会の活動領域。当初はタイ、トンキン、コーチシナ、カンボジア、中国の一部であった。1776年、イエズス会が南インド布教から解任されると、その布教を引き継ぐ。教皇グレゴリウス14世は1831年、朝鮮半島と日本における布教を任せた。1838年、満州、1841年、マレーシア。1846年、チベットとアッサム(インド北東部)。教皇ピウス9世、1849年、中国のさらなる一部、1855年、ビルマ。ピウス12世、1952年にハワイと台湾の布教を命じた。しかしこうした過程のなかで、中国、ビルマ(ミャンマー)、ベトナム、カンボジア、ラオスからは追放された。

 宣教会は17世紀以来、4500人の司祭をアジアに派遣している。今日では379人を数える。

 バック通りの宣教会本部であるが、17世紀に建築家ランベールが礼拝堂を建設した。定礎式のときルイ14世のメダルが基礎の石におかれた。竣工は1697年。革命時に、すべての教会財産と同様に国の財産として没収され、売却されたが、ひそかに買い戻された。1802年、聖フランスシスコ=ザビエル教会となった。1848年、シャトーブリアンの葬儀。列席者のなかにはヴィクトール・ユゴー、サント=ヴェーヴ。バルザック。

  またパリ外国宣教会のHPから情報収集する。なおかなりの量のアーカイブがHPで公表されており、教会堂建設の経緯などもこれによりわかるのではないか。若い研究者に期待したい。研究の宝庫です。ぜひご活用してください。
http://www.mepasie.net/

(1)ベルナール・タデ・プチジャン神父;1829年にブランジ=シュール=ブルビンス生。オータンの神学校で学ぶ。1853年に司祭となる。2年間オータン神学校の教授、そしてヴェルダン=シュール=ル=ドゥ教区の司祭となる。彼は多くの教区で説教活動を展開知る。1858年、宣教会に入会し、1860年に日本に出発した。2年間琉球に滞在したのち、横浜、長崎に移る。大浦天主堂(宣教会では26聖人教会堂とある)については日本の文献・HPにあるとおり。

(2)ド・ロ神父;1840年にバイユ(カルバドス県)生。両親も信心深い人びとで、純粋な宗教的環境のなかで育てられる。幼くしてデュパンループ神父のもとにあずけられ、父親とは休暇のときにのみ再会した。1862年に外国宣教神学校(のちのパリ宣教会)に入会した。このとき22歳だから司祭としてではなく神学校生徒としての入会のはずである。バック通りには1年半いた。聖母マリアへの信仰が厚く、建築にも関心があった。神学校の中庭に、ノートル=ダム・デ・パルタン祈祷所の建設を指揮した。こののち病気のために司教区に戻る。1865年、カンのサン=ジュリアン教会の司祭となる。2年いた。プチジャン神父はリトグラフのできる人間としてド・ロ神父を日本に連れて行った。事実、日本に到着してはリトグラフでの出版にいそしんだという。あとは日本の書籍・HPのとおり。・・・ルトグラフというのがみそで、19世紀の建築書の挿図にもリトグラフは多用されている。現物を紹介するためには写真も銅版画や木版画もあったのだが、リトグラフが表現力があって、プロジェクト記述には向いているのは確かである。

(3)ジョゼフ・フェルディナン・マルマン神父;1849年、シマンドル=シュール=シュラン(ベレ司教区)生。シマンドル=シュール=シュランはスイスとの国境ちかくの町。現在の人口は638人。一度ペストで大打撃をうけ、僧侶たちが町を再建したという。両親もまた大変信心深い人びとであったようだ。普仏戦争ののち神学校に通っているうちに、海外への布教を進める神の声が聞こえるようになった。学長の許しは得たが、父親の涙と説得に直面したくはなかった彼は、一言もつげずにバック通りにやってきた。父親の狂乱ぶりはたいへんだったらしい。父親との葛藤は、困難で長く続いた。彼は田園の人であったようで、フランスにおいても日本においても、人びとが郷里を離れ都会に移住することにあくまで抵抗しようとした。長崎においては10棟ばかりの教会堂を建設したという。

あと何人かの神父もMEPで拾い読みしたが、・・・ここで中間まとめをしよう。

・ほとんどが地方の小さい町か村の出身で、きわめて宗教的な環境で育ったひとびとである。つまり社会的にはマージナルな立場であった。

・世俗化してゆく社会のなかできわめてピュアな宗教的環境でそだった。

・裕福な家庭出身の例もあるが、通説にあるように、貧しい家庭出身のひともいたし、布教出発で親との葛藤に苦しんだひともいた・・・。

・マルマン神父は出身村の教会堂の写真がWEBで検索できたが、まさに高窓のない教会堂であった。1例から法則化することはできないにしても、興味深い例である。日本にやってきた宣教師たちの原風景は、のどかな自然環境、そのなかの村、さらに集落のなかにある住宅よりはすこし大きいくらいの教会堂・・・であったのではないか。彼らは故郷の風景を、長崎に映してこようとしたのではないか。

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東方旅行(026)1987年12月25日(金)長い移動のはてにチュニスに到着

東方旅行(026)1987年12月25日(金)Tunis。天気?。

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チュニスの航空写真。絵はがきから。

 【移動】前日ティムガド→バトナ→コンスタンティンと移動。Constantineでは9時間じっと待たねばならなかった。ここで日がかわり、3時前に出発。onstantine2h50→Annaba6h00、Annaba9h30→Tunis17h30。この長い時間、ほとんど記録も記憶もなし。ご苦労様でございます。

 【宿】Hotel Metropole, 3 rue de Grece、1泊6.5DA。シャワーなし。シャワーは0.7DA払って使う。ずっと車中であったので両替ができず、チュニスについても銀行が開いている時間ではなかった。宿のおやじは夕食のために5DA貸してくれた。ありがとうございます。ご恩は一生忘れません。

 【チュニジアの夜】しかしハード・バップ期の頂点にたつ不朽の名作《チュニジアの夜》、しかもそれがアフロ・アメリカン表象の頂点であったというような通説をいだいて臨むと、都市・建築見学は勘違いをするのである。つまりアフリカよりも地中海という文脈が支配しているのだ。

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2007.09.16

東方旅行(025)1987年12月24日(木)ティムガドの古代ローマ遺跡

東方旅行(025)1987年12月24日(木)Timgad、曇り。

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【移動】バスAlger22h00→Batna4h30(67DA)、バスBatna7h00→Timgad7h40(4DA)

【今日も元気で】車中泊と車中泊のあいだの一日を使っての見学である。曇りであったのは幸いであった。こういうときは急いではいけない。ハイペースになると一挙に消耗する。80%のペースで、淡々と、着実に見てゆく。ゴールを考えてはいけない。着実に進んでいけばやがては達成する。そうすれば何十時間でももつものである。

【遺跡】グリッドプランの典型的な古代ローマ都市計画。カルド・マキシムス、デクマヌス・マキシムスは、列柱街路となっており、中央が車道で、列柱により隔てられて左右が歩道となっている。この狭/広/狭のリズムがそのまま凱旋門=都市門のそれとなっている。劇場の背景は、都市の街路と一体となっているかのようだ。ここでは劇場がヴァーチャルな空間を構成しているというより、都市そのものが仮想現実であって劇場はその特性がもっともはっきりした場所であるにすぎないようにも思える。街路の下は下水渠のように思える。

【移動】バス代調査。Timgad→Batna(4DA)、Batna→Constantine(28DA)、Constantine→Tunis(117DA)

 ウィキペディア仏語版によれば、トラヤヌス帝が紀元100年に建設した植民都市であり、ラテン名はThamugadiである。現在はアルジェリアのオレス州にある。当初は12Haであったが50Haまで拡大した。典型的なローマ都市として1982年にユネスコ世界文化遺産に指定された。

 100年、トラヤヌスは第三軍団アウグストと属州知事ルキウス・ムナティウス・ガルスに都市建設をさせた。したがってティムガド住民はすべてローマ市民権をもっており、パピリウス(ローマの氏族)の一員となった。この植民都市はマルキアナ・トライアナ・タムガディと呼ばれた。マルキアナはトライアヌスの妹の間であり、タムガディはラテン語的な格変化がないので原住民が呼んでいた名前であるらしい。前身都市があったかどうかは不明であるが、いずれにせよローマ人たちは処女地におけるがごとく、グリッドプランを展開した。とはいえローマ都市ならかならずグリッドであるというわけでもない。だからティムガドは都市となるまえは軍の野営地であって、都市はこの野営地の平面計画のうえに建設されたと推定される。このこともまた証明はできていない。しかしローマ軍の動きを考えると、野営地起源であるという仮説は説得力があるらしい。ティムガドはアフリカ軍にとって戦略的には最良の場所であったということである。

 とはいえ軍事都市としての機能は副次的なもので、退役軍人の町であった。ただ志願兵を徴収したり、食物を補給する拠点ではあったので、間接的な軍事都市という位置づけであった。オレス山脈にはローマ軍は侵攻できず、その地帯は謀反の温床となっていたので、それににらみをきかす意味があったという誤説があった。1960年代に航空写真などの分析から、ピエール・モリゾはこの地域がそれほど危険な場所ではなかく、そののち容易にローマ化しキリスト教化されたことを証明した。したがってティムガドの建設は、かならずしも軍事目的ではなく、属州の開拓であったようだ。

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 都市は、周辺の一体の土地を支配している。ポール=アルベール・フェヴィエによれば1500平方キロの土地を支配していたようである。これらの土地はすべて民間人の所有であったわけではなく、かなりの面積が皇帝が直接所有していた。こうした皇帝の土地は、プロクラトル(皇帝の代官)が管理し運営していた。ティムガドの住人たちはすくなくとも大地主ではなかったようである。

 キリスト教は4世紀にはいってきたが、この地はローマ・カソリックから分離して独立教会組織をもとうとする勢力が強く、抗争はながくつづいた。ドナトゥス主義といって4世紀にドナトゥスがおこした分離主義である。そののちヴァンダル人の浸入、ビザンチンの支配、そしてイスラム教徒の支配。イスラム化したときの状況はわかっていないらしく、おそらくこの時期に廃墟化したのであろう。そして人が住まなくなった都市は、風で運ばれてきた土砂にすこしずつ埋ってゆくのであった・・・・

 カピトリウム地区があった。2世紀の建設で、4世紀に再建された。これはローマのカピトリウム丘にちなんだもので、都市の起源を象徴する神殿などがおかれていた。ユピテル、ユーノー、ミネルヴァの神殿があったらしい。しかしフォーラムからは遠く、丘の上があてがわれてもいなかった。これは途中で都市計画の方針がかわって、都市が当初よりも大規模となったので、フォーラムに隣接した場所から移動されたと考古学者は分析している。4世紀に再建されたときはすでにキリスト教が広まっていたので、これもまた複数宗教性の反映であるとされている。

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 フォーラムと劇場。フォーラムにはクリアと市民バシリカが面していた。バシリカは小規模で、勝利の女神に捧げられていた。基壇にのった4柱式のポーティコをもつ。クリアも小規模なもので、バシリカに対峙していた。フォーラムには30基以上の彫刻が飾られていた。広場に面して碑文があって「狩りをし、浴場にいき、遊び、笑うこと、これぞ生きること」とあった。

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 凱旋門。狭/広/狭のリズムと寸法はそのまま車道と歩道の区別に対応している。列柱街路でもあった。轍のあとが印象的であり、交通量の多さを物語っている。なお轍は古代建築史家の研究テーマのひとつであり、今日ではハイテクを使って目には見えない轍まで観測できるという。

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 街路はもちろんペイヴされている。丸い石はマンホールであろうか。斜めに石を敷いているのは車への衝撃軽減であろうか。

 公衆浴場はいわずとしれた市民の憩いの場であり、ローマ都市には不可欠のものであった。しかし2世紀以降は私邸に浴室がひろまったらしい。社会の階級化、それにともなう社交の差別化が進行していたのだ。

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 住居。ペリスタイル。中庭式。壁はいわゆる「アフリカ積み」。

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 公衆トイレ。手すりはイルカの彫刻。

 キリスト教建築。都市の周辺か外側。墓地の近く。都心部のものとしては、ルキウス・ユリウス・ジャヌアリウス邸の住居のアトリウムに整備されたらしい。西のバシリカ。教会建築にもドナトゥス派のものとカトリックのものがあって、共存あるいは対立していた。洗礼堂があり、これは司教がいたことを物語っている。

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 ローマ都市の常として、墓地は都市の外側にあった。とくに街道沿いにあった。博物館には子供の墓碑がたくさん飾ってあった(たんに置いてあった?)。

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【発掘】1765年、イギリス人旅行者ジェームズ・ブルースが古代都市の存在を発見した。トラヤヌス凱旋門、カピトリウム、劇場を発見したが、彼の絵はやっと1877年から刊行された。1851年、ルイ・ルニエが探索、碑文を多数発見し、フォーラムを発掘し、また現地民族にたいしてティムガドが軍事的な役割をもっていたと推定した。それいらいティムガドはおもにフランス政府が発掘していった。

 本格的な発掘は1880年より、フランス政府の命で開始された。財宝、記念碑を探すのが主目的となり、当時の文明の状況、その日常生活の解明は二の次であったと今日では批判されている。1884年、フォーラムが完全にその姿を現した。1894年、バシリカが完全に発掘され、コンスタンティンの司教がそこでミサをおこなった。マグレブ地方がかつてローマ領でありキリスト教圏であったことを再確認するもので、すなわちフランスの植民地化計画を正当化するものでもあった。1897年、バリュが発掘の成果を文献にして刊行した。ルネ・カニャも参画した報告書が1903年と1911年に刊行された。

 1932年、都市のグリッドプランのほぼ全容が発掘された。さらにゴデが都市周辺部の発掘をつづけた。キリスト教、ビザンチンを対象とする発掘であって、1939年にアルジェで開催予定されたビザンチン研究会議に報告するためであった。ゴデの息子が発掘をつづけたが独立戦争のころにヘリコプター事故で死亡している。1982年にユネスコ世界文化遺産に指定されたが、今日では発掘はなされていない。気候条件、人的条件のせいで保存状況は悪化している。

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2007.09.15

【書評】三沢博昭・川上秀人他『大いなる遺産 長崎の教会』智書房2000/本書そのものがすでに大いなる遺産である

 長崎県では2001年いらい、長崎総合科学大学の林一馬教授らを中心に、長崎にある教会堂を世界遺産に登録しようという運動が展開されている。そして「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」がこのほど暫定リストにはいったという。この活動も、本書に集結した地域の人々の活動の集積があったからであろう。

 著者であるが、写真家の三沢博昭は土木建造物を撮影する専門家であり、川上秀人教授は長年建築史の立場から長崎の教会を研究してきたし、結城了悟はイエズス会士であり二六聖人記念館館長であり、亀井信雄は文化庁建造物課であり、柿森和年はかくれキリシタンにして長崎市役所文化財課である。関係者の総力を結集した一冊であることを示している。

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 とくに興味をもった点を箇条書きにしてみる。

 1853年、東洋布教の拠点を香港に置いたフランスのパリ外国宣教会が大浦居留地に本格的な教会堂・大浦天主堂(国宝)を建設しはじめたとある。つまり布教主体の変化である。ザビエル以来、日本を担当したのはポルトガルを後ろ盾としてゴアを拠点としたイエズス会であった。ところが明治以降は、香港を拠点とするフランスの教団であった。

 川上秀人教授は1971年より県に現存していた164棟の教会堂を実測調査し、その平面図を作成したという悉皆調査がなされた点である。長崎の教会群は国宝になり、やがては世界遺産にもなるかもしれないが、しかし遺産というものは現物の教会堂そのものだけではないということである。フランスの文化財の考え方からすれば、文化財のリスト、それらを情報化したものは、あるいは追記されてゆく文化的価値判断もまた、すでに当の文化財の価値の一部を構成している。であるなら川上教授の実測図面など情報化したものはすべて遺産の一部と考えていいはずである。一般的に、建築物の歴史的、文化的な価値判断は建築史家などがおこなっている。しかしそれを活用しようという後進の人びとは、そうした価値判断が所与の当たり前のものとして軽視しがちである。そうした方向にながされると、文化財登録件数は増えるのと反比例して、文化そのものは衰退するであろうことが容易に予測されるからである。

 棟梁建築家鉄川与助の存在。宣教師の指導をうけつつ、多数の教会堂を建設した彼は、建築学会の名誉会員でもあった。

 川上教授による教会堂分析のためのタイポロジー。構造(木造、レンガ造、RC造)、貫、内部立面構成、などにわたって長年の充実した研究の成果が示されている。

 さてぼくは川上教授とは同業の建築史の専門家である。したがってその偉大な成果をあえて批判する愚挙をお許しねがいたい。つまり教授の分析そのものは明確な基準にもとづくゆるぎないものであるが、それでも西洋的な様式の概念からは遠いのであり、それですぐれてヨーロッパ的な建築類型である教会堂を分析できるのであろうか、という不満である。すなわちゴシック様式を例にとってみれば、この様式の3大クライテリアは、尖頭アーチ、リブ・ボールト、フライングバットレスである。しかしこの3点を満たしていればゴシックかというと、そうではなく、それらがひとつの(リーグル、ヴェルフリン的な意味での)芸術意志によりひとつの様式を構成しなければならないのである。そしていくつかの基準をみたしつつ、それがひとつの様式として昇華されているかどうか、というのは機械的判断ではなくまさに高度な芸術的・様式的な判断である。そして川上教授の分析はひとつひとつの基準は厳密にあつかいながら、それらを統合しているはずの芸術意志はなんであったか、という視点が欠けているのである。おそらくそれは日本近代を専門とする建築史の研究者には一般的に不足しているものである。

 おそらく建築文化財が社会的に認知され広がりを見せるなかで、ユネスコ世界文化遺産的な枠組みのなかで、明快ないくつかの基準を満たせば遺産と認定されるといった、きわめて機械的な思考様式が広がりつつある。それにたいし建築史は、様式判定の下請け業者であってはならない。その総合判断ができるのはこれからも建築史の専門家なのである。そうした意味で、様式判断の総合性というあるべき姿に立ち戻ることが必要なのである。

 もうひとつの不満な点は、ド・ロ神父など宣教師についても詳細に研究されているようであるが、建築家として施主としての宣教師の分析としてはまだ物足りない点である。つまりここで問題とされているパリ外国宣教会にしろ、かつてのイエズス会にしろ、もっとまえのシトー会にしろ、およそ教団というものはコアたる教義はもちろん、宗教芸術や宗教建築についてもしっかりした方針をもつのが当たり前であって、それは宣教師個人の恣意でもなく、なんとなく時代の流れに沿うのでもない。きわめて意図的な建築政策がないのがむしろ不思議なのである。それを考える場合、パリ外国宣教会とカトリックとの関係、あるいはフランス国内問題として第三共和制における社会の世俗化の流れ、そして20世紀初頭の決定的な政教分離といったことが、日本においてどのような光と影を与えていたか、などなど、まさに世界戦略的な視点からすれば、長崎の教会は、日本の一地域のしんみりした閉鎖的世界ではなく、世界と連動したダイナミックな一部として見ることができよう。そうしたときに真の意味での「世界遺産」となることができよう。

 さてぼくは若輩者として偉大なる川上教授を批判しすぎたかもしれない。しかし川上教授のご研究は、本書をもってしてもまだまだ過小評価されていると判断する。上にのべたように、文化財ということを考えるとき、教授の研究や情報化そのものがすでに文化財の一部を構成していると考えるべきなのであって、それを遺産として引き継ぐということは、それを神格化することではなく、その労作を基盤としてそこからさらに発展させることであろう、と考えるのである。

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【書評】「かくれキリシタン」聖画巡回展実行委員会『栄光の歴史-「かくれキリシタン」聖画展』大伸社2003/ちいさなパンフレットのなかの広い世界

 展覧会の図録であるが、20数頁からなるパンフレットである。展覧会の実行委員長はカトリック大阪大司教区補佐司教であり、後援は在日のスペイン大使館、ポルトガル大使館、バチカン大使館、日本サラマンカ大学友の会、である。展覧会そのものは2003年が日本の聖イグナチオ教会とスペイン、2004年がリスボンで開催された。

  3世紀近くにもおよぶ弾圧の歴史のなかで、かたくなに信仰を貫いたキリシタン、その信仰のよりどころとなった聖母子画などが紹介されている。ヨーロッパへの布教が、普遍化とどうじに土着化であり、聖母子という普遍的構図のなかに、キリスト教的教義やその土地のその時代の心性を描きえたことを考えるとき、和服とかんざしの聖母も当然の展開であった。この展覧会の開催にあたっては村野朋子さんの他にはかえがたいご尽力があったことを人づてに聞き、建築史をやっている者としてはある種の感慨があった。

  巻末には世界地図が掲載されていて、リスボンから九州までの航路が描かれている。まだ弾圧がはじまるまえ、信者たちはローマのイエズス会総長に聖画の送付をもとめたという。おそらくそれは順調なら、ポルトガルのナウ船によって運ばれたことであろう。

 ぼく自身はキリスト教徒ではないので迫害や殉教にことさら関心をよせるのも不謹慎というものであろう。ただ布教の世界戦略ということで、ある断面をはっきりと示していることが感じられるのである。すなわちイエズス会、ポルトガルが主役であったということである。そうした関連が今日にも生きているよいうことである。

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NHK教育『美の壺』2007年9月14日は「長崎の教会」/その驚くべきデザインのキリスト教会堂建築

 9月14日22時NHKの番組『美の壺』の特集は『長崎の教会』であった。いつもながらにNHK教育というのは有名タレントの間接的語りとして紹介するのであるが、その美の特質をほんとうに理解するためのカギは与えずに、革新的与件にはふれずにぼんやりと指摘するのみであった。

 ただし教会を「天主堂」と呼ぶのは、中国でキリスト教を天主教と呼ぶことに由来する、ということは、日本における布教がすでにアジア的枠組みにあったことを示している。青砂ガ浦の天主堂の天井は、椿をかたどった装飾がゆたかで、これは近代和風である。ステンドグラスの修復家が紹介されていた。当時は色ガラスをフランスから輸入していたという。そのデザインも、おそらくすでにデザインされたステンドグラスを購入した場合、こちらでデザインした場合など、いろんなケースが考えられる。

 長崎の教会が文化遺産であるということは、明治以来、教会堂を建設した宣教師や日本人棟梁の功績だけのことではなく、それらを1970年代以降に研究した近畿大学の川上秀人教授であるとか(写真家・三沢博昭との共著『長崎の教会』2000年として集大成されている)、2001年から世界遺産化のために尽力している長崎総合科学大学の林一馬教授らの功績が大きい。しかし昨今の世界遺産化の趨勢のなかで、これまでの研究そのものが価値創造的であったことが忘れられ、過小評価されているのはあきらかだ。つまり川上教授や林教授の研究そのものも、それらの対象と一体となっており、それら文化遺産の一部である。このことをわすれると文化遺産の商業主義化と堕落がはじまるであろう。

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 さて長崎の教会堂の建築的特性を考えるとき、建てたのは日本人棟梁だから、すでに和風化が始まっていることは驚くことではない。あるいは日本人棟梁は、西洋建築がわかっていなかった、という説明は本当であり嘘である。つまり理解していないことはそのとおりであるにしても、施主としての宣教師が要求することは、理解できるはずであり、なんらかのデザインは意図して拒否されたと考えるべきである。すなわちすべては意図的な選択である。無名の職人が、なんとなくつくったなどという物語は、建築のなんたるかを知らない無知な素人の戯れ言である。建築においてはすべては意図的なのである。

 たとえばヴォールト天井を、竹と漆喰をつかってつくっている。日本建築にはこれまでまったくなかった形態に、在来の材料と技術を柔軟に適用していることで実現している。こうしたことが可能なら、宣教師の要求することはほとんど可能であったと考えるべきである。西洋でも、木造ならもう木造にふさわしい教会堂のデザインとする。それなのに日本では、石造建築のデザインを木造(竹造)でできてしまう。これを当たり前と考えてはいけない。驚くべきことである。

 もちろん例外はあるにしても長崎の教会は基本的にゴシック様式である。これは宣教師の方針であったと思われる。大浦天主堂をはじめ、多くの教会堂はゴシックである。身廊と側廊は区別され、リブヴォールトもどきが使用されている。しかし決定的に異なっている点がある。それは番組で指摘された「天井が低い」ということのみならず、高窓がない、という点である。これは古代ローマ時代からの教会堂の歴史において、そしてキリスト教の精神・象徴体系のなかで「光」がいかに重要であったか、そして「高窓」がいかに死活的であり、ロマネスクからゴシックへの展開のなかで重要な要素であったかを考えるとき、この高窓の不在はなにか決定的なことを物語っている。

 建築史家としての常識からすれば、そもそも宣教師が教会堂のなんたるかを知らなかったということにつきる。でなければこの本質をくつがえすなにかがあったということである。川上教授は前掲書のなかで風対策で高い建物を建てられなかったということを指摘している。それではなぜ高い塔を建てるのかわからない。常識的思考としては、そもそも日本建築は水平な建築であり、面積が広くなれば構造上それだけ屋根も高くなるのではあるが、それでも空間そのもの天井そのものが比例して高くなることはない。ことに木造であればそうである。レンガ造、RC造においても長崎の教会は、高さと高窓を求めていないように感じられる。

 であるから、高窓とそこからの光を求める本来の教会堂と、水平性をもとめる日本建築はそもそも原理的に矛盾するものであった。だから長崎の教会堂では、ステンドグラスはすべて1階レベルにあり、光は真横からはいってくる。それが身廊と側廊の一体化、内部空間のホール化、をまねいている。

 様式の問題にもどれば、19世紀末にゴシックというのはそもそも謎である。つまりヨーロッパでのゴシックリバイバルはすでに過去のものであり、様式の選択はもっと自由化されており、ビザンチン様式やロマネスク様式、あるいはその系統のさまざまな地方様式が混交して使われているからである。同時代に地球上のほかの地域で建設された教会堂のスタイルを比較してみれば、長崎の状況がいかに特殊で独特であったかがわかる。おそらくそこにキリスト教布教の世界戦略のなかでの日本、長崎の位置づけが浮かび上がってくるであろう。ちなみに本ブログで紹介したアルジェの教会堂を見ていただきたい。それらと長崎のものはほぼ同時代である。それらがまったく無関係ということもあり得ないのである。

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2007.09.14

東方旅行(024)1987年12月23日(水)さらばアルジェ

東方旅行(024)1987年12月23日(水)Alger5日目。雨。【パスポート】10時、シリア大使館にパスポート+ヴィザをとりにゆく。【両替】アメックスTC80ドルを392DAに。【郵便】絵はがきと手紙を郵送。【切符】AlgerからBatnaまで67DA。22時発。

【暴言】アルジェでは大使館がよいに時間とタクシー代がえらくかかった。さらに電池代、電話代、大出費であった。丘にのぼり古代博物館、人民会館を訪ねる。前者は閉館、後者も工事中につき閉館。ただし庭園にははいれた。ヴィザのためにかけずり回った披露が一挙にでる。おまけに雨。ついていない。
 バスは22時発、時間が余りすぎる。カフェは少なく、あっても満員。今日は水曜日であるが、これは日本の金曜日に相当する。なかなか座れない。待つのはつらい。バスの中で寝たい。
 アルジェリアの人びとは世界一友好的なのではないか。唯一の弱点は、公共の場で女性がほとんどいないことである。パリがなつかしい。アルジェリアは会主義国家だからチップの必要がない。おなじ理由でソ連ツアーの広告がある。しかし人びとはどうみても西側先進国にあこがれている。アルジェリア研究はフランス建築史のウラとして面白い。しかし資料が不足している。文化遺産の保存、資料の管理維持という点では遅れているのではないか。(後注:20年以上してコーエンがアルジェのモノグラフを出版した)。新市街地はフランス19世紀末のはなやかなものが多い。材料の関係か、フランスでは石の素材をそのまま露出しているものが多いが、ここではプラスター、ペンキなどで白く塗りたくってる。【出発】22時バトナ行きのバスに乗車。車中泊でも休息は休息。

【建築見学】日時不明のもの。

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大郵便局Grand Post、中央郵便局というほどの意味であろう。これは典型的なコロニアルな状況を反映した公共建築である。アルジェリア的あるいはイスラム的な要素としては、馬蹄形アーチ、窓、塔の頂上のドーム、柱頭の鍾乳的造形、ドーム見上げの幾何学的パターン、銃眼風のパラペットなどである。ヨーロッパ的なところは、建築ボリュームそのもの、3連アーチに両側の塔状部分といった構成、などである。すでに町並みにとけこんでいるので当たり前のものとして目には映るが、イスラム的細部を使って西洋的全体を構成している例としてはうまくまとまっていると思われる。

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人民会館Palais de peuple。これもイスラム的馬蹄形アーチなどを多用したデザインである。しかし地上階の大アーケード、2階のレース状アーケードという組み合わせは、ヴェネツィアの総督府に由来している。そしてヴェネツィア建築そのものが中世以来、ビザンチン、イスラム、ヨーロッパの混交であったことを思い出すとき、19世紀の折衷主義的フレームワークのなかでの様式の混交は、それじたい混交の歴史をひきづっていることを認識させられる。

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パリ的町並みである。砂岩でできたコリント式オーダーの古典主義建築は、これはオーセンティックな様式の例であり、コロニアルのレベルを超越している。市井のアパルトマン建築は、コリント式ピラスターもあるが、たくましい物干しとなっている。3階ベランダの持送りは豊満な乳房をした女性像であり、入植ヨーロッパ人の開放感を感じさせるとともに、独立後のイコノクラスムの対象にはならなかったことが感慨深い。原理主義の時代も生き残ったのだろうか?

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お金持ちの住宅と思われる物件。馬蹄形アーチ、ベランダが気持ちよさそうな戸建て。また中央部分が開放的な、あきらかにヴェネツィアのパラッツォをまねた邸宅もみられる。

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某有名建築家の集合住宅。マルセイユやナントやベルリンのものとちがって、斜面に建設されている。したがって空中歩廊を歩いて突き当たりまでゆくと、そこからすばらしい眺望を見下ろすことができるようになっている。車にも注目されたい。かわいいルノー。

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  いまでは400万人都市だから郊外は膨張し、スラム的なところもある。なおかつ斜面が多いので、地形的にはかなり変化に富んでいる。

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2007.09.13

【書評】高橋裕史『イエズス会の世界戦略』講談社選書メチエ2006/布教は世界戦略なのだから一国史のなかに位置づけて理解するのはよくない、という指摘は教会堂建設にもあてはまる

イエズス会の世界戦略 (講談社選書メチエ) Book イエズス会の世界戦略 (講談社選書メチエ)

著者:高橋 裕史
販売元:講談社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 ぼくの興味にぴったりフィットした一冊である。
 研究の目的は著者が明快に述べている。イエズス会の未公開資料が解放されたのでイエズス会の布教活動にかんする研究は飛躍的に深化した。日本人による研究はどうしても一国布教史になりがちで、国内史を飾る付随的エピソード的な扱いであった。しかしイエズス会は世界的布教という明確な戦略をもって活動してきたのだから、その世界戦略のなかで、日本がいかに位置づけられたかといった視点がこれからは不可欠である。とくに東インドにおけるイエズス会の聖俗にわたる活動と関連づけられなければならない。
 本書ではさまざまな修道会のなかで比較的若いイエズス会が、急速に活発化した理由として、ポルトガルの世界支配とともに、そのポルトガル王室との協力関係のなかでイエズス会が力をつけていったことを指摘している。1534年にポルトガル王が布教保護者となって、ゴア司教区が設置されたこと、など。
 さらにヨーロッパ人のアジア観、会の管区制度、会憲の制定、スペインとポルトガルの地球二分割デマルカシオンが背景にあったことが指摘されている。
 本書で魅力的なのは、布教活動のための、後援者づくり、資産経営、組織づくり、布教先の情報収集など、当然直面する具体的な懸案事項に会士たちがいかに取り組んだかが、丹念に具体的にかかれていることである。世界戦略、布教政策というものはひとつろ理念ではなく、まさにさまざまな政策の束として記述されるべきものであるからだ。財政としては、国王やインド総督からの支援のほかに、貿易、不動産経営をおこなって資産運営をおこなっていた。これは必要ではあるが過度になると清貧思想と両立しない。あらゆる教団に共通することで、ふるくは中世のテンプル騎士団も、イエルサレム巡礼者のために為替を発行して利便をはかりながら巨万の富を築き、フランス国王に解散させられた。イエズス会もそうして世俗化しすぎたので、1773年にいちど教皇により解散させられた。フランスではその前に追放されている。
 こうした流れを背景として、ポルトガルが支援するイエズス会と、スペインが支援するフランチェスコ会のあいだで日本布教をめぐるヘゲモニー抗争があったこと、日本を長崎、京都、豊後と3地区にわけたこと、日本の習慣を尊重した適応主義政策がとられたこと、マカオから長崎に入港するポルトガルのナウ船が日本イエズス会の生命線であり、それがもたらす南蛮渡来の珍品や武器が布教の道具であったことなどが紹介されている。日本イエズス会は定収入としてポルトガル国王からの給付金、ローマ教皇からの年金、篤信家からの喜捨、インド国内の土地による不動産経営で資金をまかなった。軍事化について嫌疑がかけられたのであった。この軍事化についても日本だけではなく、ローマ、ゴアなどで検討され、まさに世界戦略のなかでの位置づけが問われたのであった。
 ぼくにとって興味深いのは、布教にともなう教会建設運動の理解のためによいパースペクティブを与えてくれるからである。日本に布教した宣教師はとうぜんのことながら建築家ではないにしても、教会建築の最低限の知識と、教会の建築政策と、同時代ヨーロッパにおける教会建築の動向などをふまえた上で、教会を建設するのである。だから日本における教会建築を理解するためにも、キリスト教会=教皇の方針、宣教師を送り出した教団の方針、などをふまえる必要がある。また日本における布教活動が展開されているまさにその時に、ヨーロッパでもさまざまな布教活動がなされ教会堂が建設されている。その同時代性を理解しなければならない。

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東方旅行(023)1987年12月22日(火)アルジェ4日目

東方旅行(023)1987年12月22日(火)Alger4日目。晴れ。【ヴィザ】シリア大使館にヴィザの申請。40DA。【国際電話】日本に電話。123DA。【乾電池】さまよったあげく、電気屋でもなく時計屋でもなく写真屋でもなく(そもそも電気店も写真店もほとんどない)、しかし電卓も時計もあるので、どこかでは売っているだろうと希望を捨てないでいたら、結局、宝石店で発見。1個40DA(1000円!)、3個で120DAを購入。この国では宝石=時計=電池なのであろうか。手元の残金は80DAしかなく、パスポートはシリア大使館にあずけてあるから両替もできない。あといくら必要か。バス:Alger→Batna→Timgad、Timgad→Batra→Tunisで計200DA。

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クリマ・ド・フランス、200柱広場(Climat de France, Place des 200 colonnes)。建築家プイヨン。列柱と建物の隙間は狭く、そこで生活が展開するほどではなかった。むしろ全体として記念碑性が強調されている。貧しい人びとが住んでいる街区であるから、人びとの尊厳を高めるような建築が求められたのであろうか。しかしその点ではどれほど成功しているのだろうか。近隣にはバラックがひしめいている。

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 建築家フェルナン・プイヨンFernand Pouillonについて。1912年5月14日生。1986年7月24日没。戦後、マルセイユ、エクサンプロヴァンス、パリ、アルジェリア、イランで活躍。場所性の尊重、厳格で調和的な比例をもつボリュームの使用、高貴なる建材、彫刻家、ランドスケープアーキテクトらとの共同。
マルセイユで若い日々をおくり、そこの美術学校をへて、1932-34年にパリで建築を学ぶ。1936年、エクスで集合住宅。1947年、国境衛生局を建設。アルジェリアからの移民を多数受け入れる。1948年、マルセイユ港に面する集合住宅の建設を任された。戦後の建築ラッシュの時期には、エクスで「200ミリオン・フランで、200日で、200戸を建設」するプロジェクトを担当、良質の石材をつかってなしとげる。1953年、同様な手法でアルジェにDiar-el-Mahçoul集合住宅。365日で1600戸を建設、しかも地方様式を尊重し、都市空間の質を尊重しつつ。アルジェではさらにDiar-es-SaadaとClimat de France(200柱広場)を建設。
1961年、パリ郊外で大規模な団地をいくつか建設。ところが彼は名義貸しをすることでCNL(住宅国民金庫)の外郭団体の株主であったことが発覚し、司法の追求を受けた。もちろん近代プロフェッションの概念からして、建築家はデベロッパー、請負業者であることはできない。コストパフォーマンスの高い建物を建設しなければならなかったプイヨンは、団地を大量生産しなければならなかった。プイヨンは建築家資格を剥奪され、アルジェに亡命し、ホテル、観光複合施設、県庁、郵便局、大学都市など大量に建設した。1971年、ポンピドゥ大統領の恩赦をえて、1984年にフランス帰国。著作としては獄中で書かれた『粗い石』(1964、ル・トロネ修道院がテーマ、1965年ドゥ=マゴ賞)と、『ある建築家の覚え書き』(1968)。
 戦争直後の時期に、RCではなく高貴なる建材「石」をつかって住宅を大量生産したプイヨンは、本来ならばその意味において正当派建築家と称せられるべきであった。マルセイユとアルジェが活躍の場であった彼は、ル・コルビュジエとは違う意味で地中海の建築家であった。古典主義的でもありイスラム的でもあるそのスタイルは、ペレ/コルという、論争をしたふたりでさえ、ひとつの別の軸としてフランス建築界を支配していることを示唆している。プイヨンがなくなったとき、フランス国営放送は少し前の番組を流していた。アルジェリア亡命といった、まるで『望郷』のような物語を提供し、悲劇的な建築家像を示している。それでも彼は若い世代にはまったく支持されておらず、思想や、住宅供給への貢献以前に、そのスタイルが建築家としてのリスペクトを得られない状況であった。まったく見る価値のない建築を建てた建築家・・・・しかし最近はモノグラフがいくつか出版されている。

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カスバ。それほど危険ではない。モロッコとは違って自称ガイドはいない。持ち送りの構造が印象的。

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モスク前の広場。広場に面する建物はフランス風。

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Ketchaouaモスク。ディテールはイスラム風だが、ボリューム構成は教会風。2基の塔に、玄関構え。バットレスはゴシック風。後陣のニッチもヨーロッパ風。様式的には19世紀末と推定する。当然建築家はフランス人であるはずで、ヨーロッパ様式建築の素養をもち、しかしイスラムの建築文化にも理解をもった人物であったであろう。異なる文明の建築様式の混交は、コロニアルな状況ではむしろ一般的であり、インドで公共建築をてがけてイギリス人建築家たちも地域文化をまもってゆくという意気込みがあった。

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(左)殉教者広場に面したモスクは真っ白。(中)Lyre市場。鉄の建築。いかにも19世紀のパリ。バルタール以降、鉄骨造の市場は各都市で建設された。想像するに、建材はフランスで鋳造等され船で輸送されたのではないか。(右)アルジェリア国立劇場。バロック様式のいかにも劇場建築。これは19世紀的な都市の理念というもので、劇場ありて立派な文化国家とみなされうるのであった。

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Amar et Kama通りにはドリス式ポーティコが。新古典主義。通常なら銀行建築かそれに類するもののはずであるが、確認していない。

Palais du Gouvernement:A.ペレに似ている。

この国は絵はがきが極端に少ない。しかも印刷の質は劣る。昔は多かったらしい。2、3日前に展覧会であった某氏によれば、昔の絵はがきはほとんどパリに渡ったそうな。
本も大変少ない。パリでもよく見かけた建築書がキオスクでも売られていたのは驚いたが。
ホテルでテレビを見る。白黒。カラーはあるのだろうか。プイヨンの集合住宅の屋上にはアンテナが乱立していたので普及はしているようだ。放送はアラブ語ものが多かった。今日見たのは、教養番組、エジプトの遺跡、ロシアのロケット、エレクトロニクス。エジプト旅行の計画をたてる。

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2007.09.12

東方旅行(022)1987年12月21日(月)アルジェ3日目

東方旅行(022)1987年12月21日(月)Alger3日目。【バス】batna行きのバスの時間を調べる。【大使館】日本大使館とシリア大使館は近かった。【記念碑】シリア大使館に向かう道のロータリーには、柱が何本も空にむかうようなモニュメントがあった。モダン彫刻風。(写真なし)

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サン・シャルル教会。ロマネスク様式。フランスでロマネスク・リバイバルがおこったのと同時期である。正面は大アーチが、バラ窓らきしもののフレームとなっている。正面右の正方形平面の塔であるが、パラペットはイスラム風。後部のボリュームは中南仏的な放射状祭室の構成となっている。ここだけみればポワトゥ地方的。なお柱頭の人物頭像が削られており、独立ののちに偶像崇拝を好まないイスラム教徒がそうしたことが推定される。建築家名などを書いたパネルが、いちど覆われ、さらに覆いがはがされていた。解読を試みる。 Ste Roulin - Architecte、L T(?)ELMI-Ent(entrepreneur?)、V tor ZAN-SCR(sculpteur?)、1894-1896などが解読できる。この時期はフランスでも建築家名をファサードに彫ることができた。

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サクレ・クール教会。閉館。これはどうみても60年代のシェル構造である。しかし当時は独立したのだから、50年代かもしれない。街路のつきあたりにあるなど、フランス的。

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バルドBardo博物館。内部は、壁からはなれて2スパン×2スパン、計8本のコラムがその上のドームを支えていた。アルコーブはキリスト教の修道院風でもある。さらに持ち送りの様式は、カスバのものをリバイバルとして踏襲している。そういう意味ではリージナリズム的であるが、左右対称のデザインはやはりフランス仕込みである。

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コル風の集合住宅。そのほかの近代建築。

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教会のようなモスク。ひょっとしてモスク風の教会か。植民地時代の宗教政策は研究すると面白いかのしれない。1904年からは政教分離なので、基本的に20世紀には国家は介入しなかったはずである。もし建築デザイン上の干渉をするとすれば19世紀である。

【乾電池】Nikon FE2を使っていたが、測光用の乾電池が切れかけていた。日本に頼むしかない。

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東方旅行(021)1987年12月20日(日)アルジェ2日目

東方旅行(021)1987年12月20日(日)Alger2日目。【両替】700FFを616DAに。アルジェリア中央銀行。40分かかった。【展覧会】教会前で絵はがきの展覧会をやっていた。大郵便局は1912年、アラブ=ムスリム様式。Du Dey-Gussein宮は1829年。そのほか、20 casbah vue aerienne, 26 rue lieutenant Grani, 32 rue de la mer Rouge vers 1913, 29 rue de Chameau, 35 fontaine ZoudjAioune, 104 ancien Casbah date?, 114 Alger moderne
 【日本大使館】El Biarの警官に聞いた。とても親切。大郵便局から大使館まで1時間かかった。住所は旅行案内所で教えてもらったのとは違っていた。Square Port Saidから写真をとる。海沿いの建築はどうみてもリヴォリ通りそのものである。大郵便局はイスラム風である。
 今日すませたのは両替と大使館訪問だけである。道を尋ねても誰も知らない。バスはこない。タクシー乗り場で空のタクシーに声をかけても乗せてもらえない。
 【200柱広場 Place des deux cents colonnes】道を尋ねたアルジェの青年たちはとても親切であった。ただ要領が悪くて閉口した。このプイヨンの作品は期待したほどではなかった。この集合住宅はカスバの東の、比較的貧しい地区にある。近くにはトタン屋根のバラック群。このプイヨン(当地ではクイヨンとも呼ばれていた)の作品も比較的貧しい人びともためのものである。中庭にはサッカー場があり、子供たちが遊んでいた。回廊にはカバーはなく、露天であり、この回廊は装飾的なもの。店舗は地上階にある。きたない。・・今日は暗かったのでよくわからなかった。明後日もう一度訪ねよう。

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東方旅行(020)1987年12月19日(日)アルジェ到着

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東方旅行(020)1987年12月19日(土)Alger【到着】午前中に到着。列車がアルジェに近づくと、衝突音がなんども聞こえてくる。外をみるとスラムである。子供たちが列車めがけて石を投げて遊んでいる。乱暴な歓迎である。【宿泊】Hotel El Badr, 31 rue Amar El Kama, 1泊50DA。Uuarzazateで出会った人に教えてもらった。中央がひろびろとしたアトリウムになっている。
【旅行案内所】アルジェリア観光局(Office National Algerienne du Tourisme)にて、シリア大使館の場所、フェルナン・プイヨン設計のClimat de Franceの場所、アルジェ市内の観光ツアー、ティムガドまでのバスの便(Batnaで乗り換え)について情報収集。
【シリア大使館】バスとタクシー乗り継ぎ、遠い遠い大使館までゆく。途中タクシーがほかのタクシーに接触。口論の末にキレた運転手は、むこうの車の側面に車で一撃を加え、そのまま去っていた。
【地図】観光案内所には市内地図がない。町中にも書店はなく、地図が探せない。結局、土産物屋で見つけた。ホテルのロビーで地図をしげしげと眺めていると、ホテルのおやじやら他の旅行者たちがやってきて「こんなもの、どこで見つけたんだ!」と質問攻めであった。
 
【街】アルジェはフランス都市である。結局のところ完全にはフランス化できなかったモロッコ(とはいえカザブランカは見なかったのでなんともいえないが)とは違い、アルジェはパリそのものである。港に面したファサードは、リヴォリ通りである。海岸沿いの地域。1840年より、建築家ピエール=オーギュスト・ギオシャンフレデリク・シャセリオは市庁舎、裁判所、劇場、総督府などを建設。アーケード式のプロムナードとした。

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【アルジェ豆知識】紀元前4世紀に建設。1世紀にはフェニキアの海外拠点として、イコシムと呼ばれた。前202年、ローマ支配下に。反カルタゴ同盟。都市名もローマ化してイコシウムとなる。4世紀、キリスト教。429年よりヴァンダル人の支配。442年、ローマ人とヴァンダル人の条約により、ヴァンダル人の支配下でローマ人も暮らせるようになった。522年よりヴィザンチン支配下。ベルベル人の襲撃。711年イスラムの支配。1510年、スペイン人による要塞建設。1529年、要塞破壊。このころ「カスバ」建設、のちにユネスコ世界遺産に。
 1830年、シャルル10世の派遣した軍は都市を占拠、130年におよぶフランス支配がはじまった。植民地アルジェリアの首都となり、1948年には県庁所在地。19世紀後半にはフランス人などヨーロッパ人が大量の移住し、おもに郊外に定住した。現地人はカスバに住んだ。ここはスラム化していった。アルジェ市民の大部分はヨーロッパ出身である。
 第二次世界大戦では米英軍が上陸作戦を試みたが、成功したのはアルジェだけ。1942年8月400人のフランス軍(うち2/3はユダヤ人)が上陸し、ヴィシー政権の将軍たちを捕虜にした。作戦は15時間で完了し、おかげで連合軍は1日で抵抗なく都市全体を制圧した。アルジェは連合軍の本拠となった。アイゼナワー将軍(のちの大統領)がイタリア上陸する準備ができた。フランスの臨時首都となり、ドゴールは臨時国会を召集した。アルジェリア戦争(1954-1962)。独立派は徹底的に弾圧された。
 1962年、独立。1988年「アルジェの春」なる民主化運動。徹底的な弾圧、死者300人。1989年、新憲法、一党独裁は終わった。50以上の政党。報道の自由が保障された。さまざまな政治団体の主義主張。1991年、イスラム原理主義政党が優勢、1992年の総選挙は、棄権者多数。国家と超保守派の暴力抗争は1999まで続く。
 今日ではアルジェは開放的な都市となり、地下鉄、トラム、都市保全、衛星都市などプロジェクトが多い。チュニジアやモロッコとの都市間競争が激しいからである。いっぽうアルカイダ系の組織によるテロも発生している。英「エコノミスト」誌を引用しつつ地元紙は、アルジェは世界でももっとも住みにくい首都、と紹介している。現在人口約400万人。マグレブで最大の都市。

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東方旅行(019)1987年12月18日(土)トレムセン(アルジェリア)

東方旅行(019)1987年12月18日(土):【移動など】12h14Maghnia発→13h32Tremcen着。17h30 Tremcen発。だからトレムセンで4時間ほど暇つぶしをした。【切符】Maghnia/Alger片道切符、2等、Tlemcen, Oran経由。114DA。

【いちおう建築見学】トレムセンでの乗り換えの合間、あまり歩く気はしなかったが、とりあえず見学。ここは歴史的にも由緒ある古都であり、交易の中継基地であり、イスラムの文化をはぐくんだ場所なのだが、ぼくにとっては残念ながら重要目的地ではなかった。・・・モスクの塔は四角。町並みはフランス風。駅前通り、並木道。建物、コロニアル風、擬洋風あり。なかにはモダンデザインも。

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トレムセンの住宅。アルジェリア人のお金持ちの戸建て住宅にように思える。左はフランスの地方にあってもおかしくない。右はベランダが気持ちよさげである。

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左は車中からの風景。中は絵はがきの接写で、昔からのモスク。右はおそらく近代になって建設された新しいモスク。

【食事】しかしdemi poulet(チキン丸焼きの半分)35DAは高すぎはしないか。

【乗り換え】Oran駅には深夜ついて、早朝発。ホテルもなく(なかったと記憶しているが・・)駅で夜を明かす。ベンチで横になっているとつい眠ってしまうが、そうすると見回りのポリスが強制的におこす。ぼくのような外国人だけではなくアルジェリア人にもそうする。

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東方旅行(018)1987年12月17日(金)モロッコ/アルジェリア国境を渡る。

東方旅行(018)1987年12月17日(木)モロッコ/アルジェリア国境を渡る。ArRadidia→Bouarfa→Oujda→Maghnia

【調査】バス:ArRadidia05h00発、Bouarfa10h30着、40DH。荷物10DH!。Bouarfa発、Oujda14h00着、Figuig15h00着?

【暴論】モロッコには感動を与えてくれたものはなかった。もっとエキゾティックと思っていたが、単に田舎であるにすぎない。ここには植民地建築すら希である。あるとすれば新市街地におけるヨーロッパ的な都市計画のみ。イスラムの装飾モチーフもただ単に再使用されているのみ。その精神をくみ取った新しい造形にするとか、より抽象化するとかいった新しい試みはない。

【移動】ArRadidia5h(6h) → 10h30 Bouarfa 14h00→  16h30Oujda → Maghnia、30DH+10DH、計30.5DH也。

【国境】BouarfaにてレストランのおやじがOujda経由の国境の越え方を教えてくれた。すなわちOujdaのバス停でタクシーをひろい、郵便局でおろしてもらう(ここまでタクシー10DH)、郵便局で「グランタクシー」を調達し、国境で降りる(グランタクシー40DH)。国境を挟んでモロッコ入官と、アルジェリア入官は隣り合わせであった。出国手続きはごく簡単であった。

国境を歩いてわたる。というかまたぐ。30秒もかからなかった。

入国手続きも簡単であった。しかし旅行経路などくわしく聞かれた。荷物検査もごく簡単。身体検査なし。所持金は自己申告のみで、チェックはなかった。中年ポリスが使い残した100DHとのヤミ両替を要求してきたので、100DH=1000DAで交換した(もう時効です)。税関では500FF=430DAで正規両替。両替のおやじも、Maghniaからアルジェまでの連絡をことこまかに説明してくれた。警官たちもとても親切であった。国境はヒマなようだ。アルジェリアのポリスたちはみんなでフランス語のテレビをみていた。

ふたりのドイツ人がいあわせた。彼らはディーゼルの巨大なキャンピングカーで旅行していた。トラックを改造したようにも見える。ひとり1台。おそらくサハラ砂漠を冒険旅行するのであろう。複数台数なのは当然の保険である。ぼくは、国境からMaghnia(アルジェリアのもよりの町)までは歩いてゆくつもりであった。数キロであり、消耗するほどではない。ただ夜なので真っ暗で、やや不安ではある。ポリスが、さきほどのキャンピングカーのドイツ人たちを指さして、彼らに乗せてもらえ、とぼくに命令した。ドイル人も快諾してくれた。車中、ドイツ人は「今はマルクと円だけだね!」とぼくにいった。ドライブの途中、ガソリンスタンドで給油した。スタンドの少年たちがFFをねだる。使いのこしのコイン、15DHなどを渡した。結局Hotel Tafnaまで14kmをドライブした。

【宿泊】Hotel Tafna、ダブル、シャワー付、105DA。ドアのカギがかからなかった。内側からベッドでロックした。アルジェリアは、モロッコよりも西洋的な第一印象であった。ホテルのテレビはアメリカの番組がおおく、マイケル・ジャクソンを見てしまう。

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2007.09.11

東方旅行(017)1987年12月16日(水)カスバ街道をバスでひた走る

東方旅行(017)1987年12月16日(水)(*翌17日もひた走ったのだが、16日分としてまとめる)。カスバ街道:Ouarzazate→Tinrhir→ArRachidia。【両替】40$(TC)→ cour 7.90 316.00DH, commission 10,00DH, total 306,00DH, Banque populaire a Ourzazate【移動】バス、Ouarzazate Thigehrir 27,50DH, billet 11h, depart 12h、Thigehrir 16h30 ArRachidia 19h30  17,50DH。【宿泊】Hotel de la Renaissance、シングル、シャワーなし、30DH。【食事】ホテル1階のレストラン。タジン。20DH。

【旅の情報】Ouarzazateにて日本人にあう。彼によればFiguig-BeuiOnifのルートは今は難しく、むしろOujdaからのほうが容易であるとのこと。いってみなければわからないが。

【建築】建築について観察。いずこも階段状のパラペット=銃眼飾り。構造は、RCで軸組をつくり、現場で製造したブロックで壁をうめてゆく。そのほか土壁つくり、石造で土を塗ったもの、など。

【カスバ街道】「カスバ街道をバスでひた走る」とはロマンティックだが、ローカルなおじさんたちしか乗らない、生活バスである。サスペンションはひどい(あとでインドはもっとひどいことを体験で知った)。座席もクッションなどない。何十年も使い込んだバスの車内は独特に香りに満ちている。路線バスには特有の降り方がある。まず町のバス停以外に、バス停はない。都市間は砂漠である。おじさんたちは、降りたいところが近づくと、手をたたく、大声で叫ぶ、手持ちのスパナで車内の金属部分をたたく、などして合図する。バスが止まると、降りて歩いて去ってゆく。どこへ?砂漠のなかへ。はるか遠方の山しか見えない、砂漠にむかっておじさんはトコトコ歩いてゆく。地底住居があるらしい、ということをあとで教えてもらった。

街道上の町は、砂漠のなかにある。サハラやエジプトの砂漠ほどではないが、砂漠の気候は独特である。日なたにいると目眩がしそうである。しかしそのすぐ隣であっても、日陰では手がかじかみそうである。人びとは日なたでも、セーターやコートを着ている。つまり日本人的な皮膚感覚と視覚がまったく一致しないので、気が狂いそうである。

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カスバなのかオアシスなのか。

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砂漠といってもサハラやエジプトとは違う。

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これはあきらかにカスバ風に建設されたリゾートホテルである。汚染されていない観光地などない。観光そのものが汚染なのである。

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2007.09.10

東方旅行(016)1987年12月15日(火)ワルザザート、アイト・ベンハドゥ

016)1987年12月15日(火):Marrakech→Ouarzazate:・ワルザザート【宿泊】ワルザザートのHotel Royal, 31DHダブル。たいへん清潔。【観光】grand taxti: 120DH, Ouarzazate →Ait Benhaddou→Ouarzazate。タクシーの運転手はとても親切であった。しかしライトが点灯していなかったらしく、警察に取り調べをうける。【宿泊】Hotel Royal下のレストラン。肉タジン。サラダ。水。21DH也。【テレビ】モロッコのテレビ。ニュースはフランス語。コマーシャルはフランス語とアラブ語。おなじ番組のなかで言語がまざっている。

【建築見学】アイト・ベンハドゥのカスバ。世界でも屈指のカスバである。『アラビアのローレンス』『ナイルの宝石』の撮影もここでなされたらしい。もともとサハラとマラケシュを結ぶカラバンの中継地であった。*現在、世界遺産に登録されており、もちろんとっくに人は住んでいない。ここには生活はない。

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ワルザザートのカスバ

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ミュージアムの室内。こちらの室内としては開放的。天井の構造がわかる。

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2007.09.09

【書評】内田樹『街場の中国論』ミシマ社2007/ぼくが中国を論じるなんて考えもしなかったけれど・・

街場の中国論 Book 街場の中国論

著者:内田 樹
販売元:ミシマ社
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 これは自発的ではなく強いられた読書の成果?である。自分にとってはどうでもいいが重要ではあるテーマというものがあって、人の声は天の声とでも思って読んだものである。ぼくは中国を論じるほど上等な人間ではないが、この著者も素人であるという自覚のもとに書いており、専門家が介在しない著述と読解ということになる。

 講義録からおこしたとあるが、さすがに組み立てはしっかりしている。まず反日運動と反中宣伝車のどちらにもみられる硬直性にふれながら、とくに反日感情は、国内問題のすり替えであり、また反日=反軍国主義というシナリオが日中の密かな合意であるという説明がある。さらに魯迅の『阿Q正伝』が、これら排他的思考とは対照的なものとして位置づけられ、被害者の自己満足を具現している阿Qという、この前近代的にも思える中国人像を媒介として、他者の精神の内側に身をねじりこみ・・・・そこから見える歪んだ世界を記述するときだけ、・・・人間は自分の幻想から逃れられる・・・といったことが結びの言葉となっている。となると教訓だけが残ったかのようだが、ぼくなりに反応できた箇所をピックアップしてみよう。

 アメリカによるアジア分断の政策があるので、儒教文化圏、あるいはアジア共同体は難しいという指摘。これはアングロ=サクソン的な分断して統治せよ、のことだから驚かない。

 H・スペンサーの進化論と、中華思想の相似性と異質性。前者の社会進化論はたいへん影響力があって、日本近代における建築進化論もその理論の受け売りである。そのことを念頭におくと、内田の分析する中華思想は地理的であり、スペンサーは時間的であったと思える。

 「廃県置藩」すなわち廃藩置県の逆で、ちいさい国(自治体)をたくさんつくって、すぐれた指導者をたくさん養成しようという発想。これは一理ある。日本では市町村合併、道州制などがスケールメリットだけを根拠にいわれているが、ヨーロッパでは基礎自治体は変えないのが普通で、そのかわり市町村連合、地方圏(州に相当)など多層化させている。つまり市町村、市町村連合、県、州、国、欧州の6層構造であり、さまざまな行政サービスをその適正なレベルで展開できるようになっている。

 日本が植民地化されなかったのは、江戸時代をとおして社会が成熟し、文化が発展し、倫理観をもった人物が多かったことをヨーロッパ人が発見し、尊重したという説明。これはよく耳にする説明で、日本人の名誉白人願望をよくあらわしている。

 毛沢東の「農村が都市を包囲する」という戦略、インテリ、文化人、テクノクラートを攻撃した文化大革命の意義付けについては、それらが中国に伝統的な「王化戦略」とは逆の発想であったので、うまくゆかなかった、現在の先富論が行き詰まると、この毛思想が復活する可能性がないとはいえない、という説明。この予言がどうなるか、ぼくにわかるはずがない。思い出すのはフランスの20年前の旅行ガイドで「人類の5人にひとりは中国農民」と書かれていたことで、こういう直裁な書き方も気に入ったが、なるほどそれがうまく集結すればすごいパワーとなったであろう。だから毛沢東の思想は、とてつもなくラディカルである。根本的に20世紀は都市の時代であり、21世紀はメトロポリスの時代である。毛沢東は「反都市革命」という、それに逆行することを試み、膨大な犠牲者を出したのであった。その思想の復活は別の悪夢であろう。

 「革命」は、日本人がrevolutionの訳語として、漢語から選んだという説明。すなわち中国に先んじて近代化した日本は、ヨーロッパ語を、日本語というより、漢語に翻訳したのであった。これは国際的な文化貢献であろうが、今日では当たり前になっていてとくに感謝されることはない。ちなみに「自然」そして「建築」も同様である。大文明の辺境にあって、それなりに貢献していたのであった。

 台湾の植民地政策は、派遣された日本人官僚の手腕によるところが大きい、という説明。つまり後藤新平を評価しようとしている。後藤評価は最近高まっているから、このブログでもそのうちふれるかもしれない。

 などなど細やかな点は多いのだが、ぼくがいちばん興味をもったのは、内田樹その人の個人的トラウマである。彼の父親の中国体験は伝聞であるが、文化大革命をめぐる日本の文化人たちのバイアスがかかりすぎた評価と、1972年のニクソン訪中(いわゆる頭越し外交)と日中国交回復である。これはアメリカと日本の外交戦争でもあった。そしてアメリカを出し抜いた田中角栄は、手痛いプレゼントをもらうことになる(ロッキード事件)。内田の、いかに中国をくもりのない目で見るか、そしてアメリカのプレゼンスをどうさばくか、という2大視点は、まさにこれら70年前後の緊迫した体験から生まれているように思える。そして日中共同宣言における「日本軍国主義」と「日本人民」を区別するという周恩来のレトリック。ぼくもそのときは、仲直りするためには言い方を考えるものだと思った。しかし問題点としては、日本人民を切り離した反日運動が際限なくつづくという点であろう。また「日本人民」などというものは「民衆」と同様、むしろ理念的なものである。しかしそれで収まっているという大人の対応をすべきであろうか。

 さて若干の感慨を追加すると、日本(人)の大陸トラウマはいつまで続くのだろうという予測である。ぼくが小学生のころは、日清戦争と日露戦争の勝利が日本人の成功体験としていきていて、太平洋戦争の負の部分をいくらか補っていた。残念ながら反省していたばかりではない。内田のふたりの父親は中国を尊敬していたとあるが、実際は、日本人の体験は多様であると思う。ぼくの家系にも、大陸での軍事体験で廃人になったり、戦死したものもいた。人民裁判で処刑された人もおおかったようだ。「貝になりたい」という気持ちは多くのひとびとが共有していた。ぼく自身はまったく傷つくことではないが、親の世代はそれらを語ることができない。語れないどころか、記憶を完全に消去したのである。だから大陸に興味のもてないぼくのような人格ができるのである。ただ戦前、外国といえばアジアであって、大学生は卒業旅行に中国にわたったし、今でも巨匠建築家は大陸や半島で生まれた人が多い。ぼくの世代は戦後の鎖国世代といえるであろう。でも、大陸トラウマは放っておけばいいのであろう。

 ・・・というわけで中国についてこんなにたくさん書けるなどと思ってもみなかった。素人だからもう書きませんけどね。

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東方旅行(015)1987年12月14日(月)マラケシュ

015)1987年12月14日(月)マラケシュ【移動】8:45ラバト発、12:40マラケシュ着。350km、76,50DH。美しい風景。石と土の建物。【宿泊】Hotel Franco-Belge, 62 bld.Zektouri、50DH。GDR推薦のホテル。ダブルをひとりで使用。中庭に面しており、清潔。【下調べ】Marrakechから Ouazazateまで34,20DH。5時30分発。【食事】Restaurant El Fath、Jame El Fna広場に面している。定食30DH。2Fテラスで食す。遠くの山は雪化粧。【両替】Banque Commerciale du Maroc、アルヘシラスの両替はまったく率が悪いことを発見。

【建築見学】Koutoubiyya Mosquee、高さ77メートルの塔が必見とのことだが面白くない。死者の集会場であるとされるFna広場も、おもしろさなし。

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【暴言時間がなくほかの建物は見なかった。なんという旅行。メディナよりも新都市のほうが居心地がいいのは、ヨーロッパに染まりすぎた証しである。・・・今のところコルドバ、グラナダ以外はまったく興味なし。モロッコのイスラム建築はたんなる亜流ではないか。ラバトのモスクはすこしましであっただろうが。・・・イスラム建築はある時期から展開を見せなくなったのはなぜか?形式が完成され、保守化し、それ以上は発展できなくなった。空間よりも装飾に偏りすぎたため?文化として は閉じて完結したものだったのではないか。

  イスラム文明は世界性と広がりがありながら、中世においてはヨーロッパよりもはるかに優位にあった。それにたいしヨーロッパは開かれた文明であり、つねに異質なものを受け入れてきた。思った以上に柔軟なのである。モンテスキュー『ペルシャ人の手紙』、カトルメール・ド・カンシーの建築辞典における東方建築の項。ヨーロッパは均質ではなく、本質的に混成である。だからここを超えようとして別のものをもってこようと、イスラムなり土俗をもってきても無駄なのである。それらはすでに吸収され、超えられたのである。

 植民地であった国々では東洋対西洋という考え方にとらわれている人が多い。もちろん日本以上である。ただ近代の超克的な発想は、いわば理念的、原理主義的であって、やはり日本的現象といえるのではないか。植民地のそれはもっと身体的、具体的、である。他者が明快である。

 モロッコでは一人旅が難しい。つねに自称ガイドがやってきて、案内しようとするからである。写真をとるひまも、ゆっくり建築を眺める時間も与えてくれない。発想の逆転で、ガイドとして雇ってあげると、つねに急ぎ足で変なところに連れて行こうとする。モスクで写真をとっていても10分も待ってくれない。彼らにとってはガイド料よりも土産屋で買い物をさせてマージンをとることが重要だ。絨緞屋どころか賭博屋にまでつれていかれた。さすがにすぐ逃げたが。・・・モロッコ商法なる言葉はないであろうが、基本的には売り手と買い手の騙しあいというゲームである。発想が重商主義的なのである。近代の商法は、事前に買い手の欲望をいかに高めておくか、そのために商品情報を流し、広告をし、売り場ではディスプレーに凝るといった手法がとられる。これもいかに騙すかといったことである。売り手がいかにもそうするかどうかの違いなのだが。

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2007.09.08

【書評もどき】樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析---なぜ伝統や文化が求められるのか』光文社新書2007/この観点から篠原一男を再考する

ネオリベラリズムの精神分析―なぜ伝統や文化が求められるのか (光文社新書 314) Book ネオリベラリズムの精神分析―なぜ伝統や文化が求められるのか (光文社新書 314)

著者:樫村 愛子
販売元:光文社
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 専門外なので書評もどきとしてみよう。グローバル化、市場原理主義のなかでプレカリテ(不安定化)という状況が進行するなか、情報過多化、データベース化のなかにむしろ身をゆだねようとする動物化(東浩紀『動物化するポストモダン』)の道はとらず、いかに自分としてのまとまりを守ってゆくか、ということが書いてある。ラカン理論に頼りすぎるがごとく書いてあるのはよくわからないが、現代思想の解説としても読める。しかも逃げも茶化しもなく、木訥なまでに一貫して目的を目指す叙述は、最近にはめずらしい。かならずしも理論的かどうかはわからないけれど。

 「美しい日本」とは、市場至上主義による日本破壊と表裏一体になっている言説であるといった批判とともに、社会の心理学化、オタク、お笑い、ニューエイジ、リアリティ・ショー、電子メディアによるコミュニケーションがいかなる問題をはらんでいるかが丁寧に説明されている。「解離的人格システム」という、複数の人格を使い分けるようになることが顕著な兆候であると指摘されている。ちなみにここで小泉恭子『音楽をまとう若者たち』(頸草書房2007)を思い出すのだが、誰と共に音楽を聴くかで好みを簡単に変えてゆく若者たちは、すでに解離的人格システムなのであろう。

近代社会における「再帰性」が発達しすぎると、もはや自明視できなくなった「伝統」が破壊され、自明的世界の「恒常性」が傷つけられてゆく・・・。そのためには伝統や文化が必要となってくる、といった論旨である。そのコアになる概念が想像界であって、この虚構であってもそれに意識が向かうことで人格が統一されるらしい。著者はぼくとほぼ同世代であり、いわゆる新人類もむしろ保守的なことをいうようになったと、とりあえずは乱暴にいえる。とはいえ問題の構図についてはよく納得させてくれる。文化や伝統といった言葉で、具体的になにを示そうとしているか、それはこれからの課題であるにしても。今年読むべき文献のひとつであろう。

以上の論理をメタファーとして建築界にあてはめて見ると、たとえば磯崎新は、基本は偉大なる教養人でありながら、分裂的=解離的人格システムであったような気がする。今日、若手の建築家たちの文章で特徴的なのは、東的な意味でデータベース的であり、与件はこう整理できて、建築的にはこう対応できて・・・といった外的要因のみに追随しており、建築家の恣意性はほとんど排除したかのような書き方である。そこでは建築家の失敗は、すべて計算間違い、与件のリードミス、インプットミスとして処理されて、彼の人格はまったく傷つかないようになっている。

 そうした昨今の潮流になれきってしまったあとで、前回ふれた、篠原一男『住宅論』を読み返すと、もう世界が違うのである。つまり「亀裂」などという篠原の脳のなかだけにある幻想がある。この幻想は、社会にも、哲学にも、文化にも、経済にも、歴史にも、そして建築空間とも連動する可能性を秘めながら、それが語られるとき、どういう論理的な組み立てになるかは本人もわからない。しかし語ることで求心力を得て、幸いにして篠原一男は建築家として住宅を建設し、その虚構がなんらかのかたちで現実化することを証明する。こうしたプロセスのコアにある言葉の使い方を、ぼくは「呪文」と呼ぶのである。そしてそれは樫村のいう「想像界」の範疇に入りはしないか、と思うのである。しかし現実には存在しないであろう虚構=想像を、じぶんたちの現前にうちたて、それを指向することで個人なり感性の共同体が体を保つという、構え。それがかつてあって、今はない、ということを篠原の文章を読むことで、気づくのである。

ついでにいうと「美しい日本」では世界遺産ブームであるが、これこそデータベース化の典型例であって、そこで課題とされているのは与件から抽出されたさまざまなデータが、ユネスコの設定した必要項目を満たすかどうか、そのチェックリストをクリアするかどうかであって、これとまともにつきあえば文化の凋落を招くであろう。チェックリストに支配された脳が文化を創造することなどありえない。想像界がないからである。すでに研究され共有された文化遺産が、名誉として、世界遺産化されるくらいなら支持できるのであるが。

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2007.09.03

【書評】多木浩二『建築家・篠原一男』青土社、2007/神なき神殿

建築家・篠原一男―幾何学的想像力 Book 建築家・篠原一男―幾何学的想像力

著者:多木 浩二
販売元:青土社
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 多木浩二が1960年代から篠原一男について書いてきたその論文選集である。

 個人的観察によれば、篠原一男はなかなか分析しづらい建築家である。スタイルも明確であり、みずから文章を書いているにもかかわらず、篠原一男を語るとき、さまざまに語るのだが、気がついてみれば結局、自分の関心をとおして、自分自身を語っていたりする。批判的言説はいつもそうなのだが、篠原一男が対象になるときにはそれが顕著である。

 この建築家を分析するのに、多木浩二は西洋哲学を引用する。ハイデガーの住まうことと建てることの同根性(だから近代的な住宅供給の世界では、住まうことと建てることが、手続きとしていったん、切断される)。だから住居は存在の形式である。あるいはメルロ・ポンティの現象学理論、意識はなにかについての意識であるというテーゼから、篠原の「装飾空間」概念は、物質に対する意識の問題であったととらえ直す。

 しかし、深淵な書でありながら、そこに書かれているのはやはり多木浩二の世界である。読み進めながら、字を追いながらも、ぼくの関心はしだいに記述された内容をはなれ、篠原自身の文章にむかってゆく。『住宅論』(1970)である。

 その書を読む限り、篠原はすぐれて逆説の人であって、社会に一般に受け入れられている概念を逆転させることからはじめる。有名なのは、住宅は広いほどいいというテーゼであって、それは最小限住宅などということが真面目に論考されていた時代の直後であった。しかしそれはル・コルビュジエのようなたんなる挑発的言説ではなく、機械的に操作して選んだ言語的出発点にようにも感じられる。たとえば、世の中は間違っていることが多いから、すべて逆転させて考えれば、正しいことに到着する可能性は大きいといったような・・・・

 そう考えると多木の記述をとおしても篠原的な逆説はいくつか見つかる。伝統とは、創作の出発点であって、回帰点ではない、という主張。また住宅は芸術であるとしながら、時期をへて、すべてが芸術となったいま、住宅はその反対でなければならない、と主張する、など。

 そればかりではない。篠原独特の言葉の使い方である。去年たまたま必要があって『住宅論』を25年ぶりに斜め読みしたが、とくに印象的であったのが「亀裂」というキーワードである。これはひとつのボリュームが、その内部でふたつのボリュームに分断されており、両者のあいだにギャップがあるおもに70年代の住宅のためのコンセプトであった。しかし同時に彼は、この「亀裂」という言葉を、世代、社会、体制の対立、首都と地方、伝統と近代などとさまざまな対立を述べるために使う。それが住宅内部の空間的な「亀裂」とはもちろん直結はしないが、彼はなんども文章をすこしずつ変換しながら、さまざまな意味の「亀裂」を、ひとつのものとして繋げてゆくのである。

 これは論理的な説明ではない。そこにひとつの組み立てをみようとおもうとかならず失敗する。これは呪文である。呪文をなんども唱えることで、意味は膨張し、曖昧になり、社会から空間へと浮遊し、さまざまな記述が渾然一体となった状況を呈する。

 それが篠原一男のPR作戦であったとは、ぼくは解釈しない。彼はまさにそのように思考し、設計したのではないか、と想像する。つまり篠原は、言語と空間を意図的に未分化な状況とし、ある言語がある空間を指示するというのではなく、意味の変容がそのまま空間の変容になるといった境地を作りあげたのではなかったか。同じ言葉を脳裏に反復しながら、ひとつの言葉のなかにさまざまな意味内容が投げ込まれ、さまざまな空間の形式が観念連合しながら、溶鉱炉と化し、そこから新しい住宅を設計してゆく。だから論理は構築されない。しかしその言葉を篠原がいかに反芻し、展開し、飛躍していったかを読まねばならない。

「亀裂」のほかには「大きな空間」「黒の空間」といった、逆説によって導かれた言葉が、呪文のように繰り返され、空間が生成されたのではなかったか。

そうした意味では徹底的かつ方法論的に内面的な、あるいは内向的な建築家であった。現代の建築家たちが、スマートに状況や与件を整理し解釈しつつ、それによって建築を設計してゆくのとは対照的である。歴史的にみれば希な例であることは確かだ。しかしひとつの住宅であれ、その内部空間が、じつは空虚でありながら、逆説的に、その空虚が、ひとりの人間の内面という別の空虚で満たされるということがありえた。それは神なき神殿である。あるいは空間が神であったというべきか。

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【書評】和田幸信『フランスの景観を読む』鹿島出版会2007/「公益」むしろ「美による統治」?

 フランスの景観制度・行政にかんする研究の第一人者である著者の近著である。

 ほぼ1世紀にわたる、歴史的建造物、歴史的街区、地域保全、景観計画のながれがよく整理して平明に書かれており、この分野としては教科書的なものである。この著はとくに、看板、広告についてたくさんの頁がさかれており、それが景観整備の重要項目となっている、という位置づけである。まさに表題どおりであくまで「景観」なのである。

欲をいえば、都市計画と都市保全という日本では矛盾するがフランスでは矛盾しない制度のなかで、フランスでは、地区にすでに形成された社会集団、商工業、コミュニティを保全しようという政策がすくなくとも1977年以降、明確にとられている、といったことも述べられてよかった。「景観」がテーマだからといわれればそれまでだが、中身の話もあってもよかったかもしれない。

 本書は制度の紹介以外に、重要なふたつの視点を提供している。

ひとつは建築や景観が「公益」として位置づけられていると指摘している点である。そして公益である以上、国家が最終的に責任をもつということである。歴史的街区は国家が指定し、地方自治体が管理するものである。これは19世紀に土地収用法が段階的に整備されたさい、私権と公益の境界をどこにおくかという形で検討されたことを思い出す。そして日本の場合、景観問題はときには私権と私権の闘いの様相を呈していたことを思い出すと、いかに状況がことなるかがわかる。評者流にいいかえればフランスでは、国家が「美による統治」をしている、ということになる。日本は景観法によって地方自治体が美による規制をできるようになったということであろうか。これは伝統というより、体制の違いである。しかしその違いを明快にした点で、ひとつの出発点を提供するものといえよう。

もうひとつは、どの専門家も指摘することだが、法定都市計画のなかにすでに景観を規制するシステムがある、ということは法定都市計画そのものがある景観のイメージを前提に組み立てられているのではないか、ということである。日本にように、美が都市計画を外側から規制するのでは、やはり限界があるであろう。都市計画の枠組みのなかに、景観や美を整備してゆく仕組みをつくる、これはある一派の都市計画家たちの悲願であるようだ。しかし国家が「美による統治」に方向転換でもしないかぎり、難しいであろう。

このよくできた著作を読了して評者が感じるのはやはり文化に戻るということである。法制度が景観をつくってゆく、だから都市計画の専門家は制度学、行政学として景観を研究してきた。制度、行政はある意味で手法として、方法論として、日本にも適応可能なことが期待されるからである。そうしたスタディはすべてに目をとおせないほど充実している。しかしそうした法制度そのものは、背景の文化が生み出したものである。その文化に肉薄することが重要だ。著者は、「公益」の概念などを紹介しながら、そのことの重要性にじゅうぶん気がついている。しかし制度を生み出した文化を理解するためには、評者としては、前述にように「公益」はまさにそのとおりであるが、一歩進んで確固たる国家意志による「美による統治」あるいは「文化による統治」というのがなんであったか、なんであるのか、といった問題設定がより適切であろう。そう考えれば、当然のこと、すくなくとも17世紀から21世紀まで、ほぼ一本の線がひけるような気がする。

フランスの景観を読む―保存と規制の現代都市計画 Book フランスの景観を読む―保存と規制の現代都市計画

著者:和田 幸信
販売元:鹿島出版会
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2007.09.01

学会から懇親会へ(福岡、2007年8月30日)

福岡大学での建築学会大会の2日目が終わり、懇親会へ移動した。地下鉄の乗り換えは、地下街を10分歩く。

リハビリ中のぼくとしては、他人をよけながら歩くのは重いモノをもつくらい難儀なのだが、集中してこの苦行をこなす。するとランニングハイほどではない高揚しかつ安定した状況となる。しだいに昔の言葉を思い出す。群衆の人、群衆のなかの孤独、ダス・マン、燃え尽きた地図、城・・・・・なんとも大仰な話だが、三カ月ぶりの地下街体験はこんなものである。

このとき道中を共にしていた友人についいってしまう。

最近、ぼくね、こんな地下街のなかで、自分がどこにいるのかいつも注意している、っていう感覚がどんどん希薄になっていくんだよ。自分の位置についてどんどん鈍感になっているのさ。ここはどこ?私はだれ?って言い方があったけれど、それも愚問っていう。・・・迷っているともいえるし、迷ってないともいえる。どうでもいいっていう、気持ちが強くなってね。まあほんとうに迷えば地上にでてタクシーを呼べばいいのさ。言い換えはいろいろできるんだろうけどね、これは極端な自己中心主義で、自分が世界の中心である!なんてことかな。でもぎゃくに、これまた極端な博愛主義で、すべてを受け入れてしまっているってことかもしれないね。

そうですね、自分と世界の境界線が曖昧になってきたというか、世界を主人公にすると、世界が内面に浸入してきたってことですかねえ・・・

人格が外部にむかって無限に拡大したというか、ぎゃくにすべて内面に閉じこもってしまったというか、よくわからないんだけどね・・・。外国にいってもそう!最近は緊張感がないんだよね。まったり。でもこれでいいのかねえ?

地図を読めない人っているよね?でもそんな人でも迷わず目的地にいける。だから地図は実用のためにはどうでもいい。だけど認識上の問題なんだな。つまり地図って、俯瞰でしょ?だから道に立って地図のなかに自分の位置をプロットできるひとは、地上1.6メートルの視点と、地上100メートル、1キロでもいいけどさ、ふたつの視点をもっていて、ふたつが一致していると確信できるんだな。人にして鳥、人間にして神、というわけだな。

そういえば午後のPdは「空間システム」だったけど、都市計画の先生が、路上観察学的な視線でもって都市計画をしよう、なんていって、かなり顰蹙をかっていたけど、理論的には俯瞰的視点の都市計画が、人間の目をもつってこと?

彼らは人間の目をもってるつもりさ。でもパネラーはみんな団塊世代で、高度経済成長を生きた人々が空間の激変を体験したということで、生き証人なんていわれていたけど、結局、世代的課題なのか普遍的課題なのかってことでしょ?

でもねえ、西洋ではさ、都市空間と建築空間は同時に展開するのさ。都市の変容と、建築タイポロジーは同時である、いや同一である。だから陣内さんが紹介したムラトーリ学派ってのは、建築ティポロジアで都市の展開を語れるのさ。でも日本は、ある意味、都市と建築が異次元なんだな。だから都市を変えなくとも、建築を変えられる。だから日本の空間システムは構造がユルい。だから都市に内在する論理によらなくとも、マーケットに投げ出すことができるのさ。これは布野さんがいっていたルフェーブル理論だな。

それはそうと「衰退の歴史」はどうだった?君はいってたんでしょ?衰退って概念は西洋的なものだから、どこまで普遍化できるものやら。そもそも「歴史」だって西洋的だからね。歴史の逆が永遠の現在ってわけだ。

衰退の歴史ではなく、建築史の衰退ではないか、ってだれもが思っていたよね。その説明はあったの?

一応ね。まあぼくも全部は聞かなかったけど、日本建築史では衰退の概念は通用しないって意見もあったね。

衰退って、漠然とは理解できるけど、正確には、はっきりした指標がいるよね。技術とか生産なら、数値的指標がありそうだけど、建設量そのものとかね、建物の高さとか。でも様式の場合は違うでしょ。スタイルの場合は発展があって、そして完成がある。ルネサンスにおけるブラマンテとか。この完成がどこかを示すことがすべてであって、その後がなだらかな衰退だろうと一瞬の崩壊であろうと、どうでもいいんじゃない?

でも好意的に解釈すれば衰退をいいたいのは、たとえば「西洋の没落」のような、文明の相対的力関係がすこしずつ逆転してゆくってことをいいたいんじゃないの。そういう意味ではアジアにおける日本の位置を考えるときにさ、衰退ってのは重要でしょ?でもそのまえに西洋の衰退をしめすものとして日本の近代化があったわけでしょ?

いいですけど・・・。そういえば美しく衰退したのはヴェネツィアだよね。日本も第二のヴェネツィアになりますか・・・。「美しい日本」は衰退覚悟で、っていうなら腹が据わってますけどね。・・・でも「空間システム」も「衰退の歴史」も結局、団塊の世代か、全共闘世代の人びとにとっての、世代的問題でしょ?重大問題だけど、どこまで普遍化できますかね。

いやいやある世代にとっての抜き差しならない問題である、このことだけでも大変なことですよ。

それもそうだ。

団塊の世代の問題提起にすぎないとしても、そのつぎの谷間の世代は、団塊ジュニアはちゃんと問題提起できますか。問題提起どころか、むこうのほうからやってきた問題でつぶされるかもしれない。やはり団塊世代は立派です、すくなくとも谷間世代よりは。

でしょうねえ。

・・・などといっているうちに、自分たちがどこにいるのかも無頓着な人びとは、体内GPSをなんとか機能させて懇親会場である百年蔵に到着し、しこたま飲んだとさ。

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