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2007.09.22

藤森照信論(7)しかたないからいちおう結論にしてみよう

 前回は8月11日であった。かなり時間がたってしまった。書き手自身が内容を忘れそうである。そこでとにかく結論的なものを出さなければならない。

 そもそもの発端は、彼が建築家として突っ走りながら、赤派/白派などという彼自身がつくったカテゴリーには頓着せずに爆走をつづけていることにたいし、ぼくが疑問を感じたことであった。赤派/白派という枠組みがほんとうに有効で普遍的なものなら彼自身がきれいにそこにおさまるはずである。いっぽう建築家として彼がほんとうにオリジナルであれば、そんな二項図式など無関係なはずだ。だから建築家と建築史家としての二律背反という問題がどうしても浮上してしまうのである。

 そこでぼくは生気論/機械論という、いささか常套的だが、近代の構図を決定づけている二分法をとりだしてみて、それと赤派/白派を揺さぶってみようと考えたのであった。

 近代建築にはいわゆる機能主義という理論がある。じつは正確な定義はどこをさがしてもないのだが、しかし大正から昭和初期の日本の建築雑誌には機能主義的な言説がたびたび登場する。つまり様式だのある種の装飾モチーフだのといった事前に準備されたものを念頭において設計するのは「恣意的」である。そうではなく、建物の用途、機能、プログラムを率直にうけいれてプランを考え、経済性や強度の観点から最適の構造と材料を選択すればよいのである。・・・というのがこの「機能主義」の大前提である。しかしそれにとどまらない。そうやって恣意性を排除して設計すれば、そのプログラム、適正な構法を経由して、いわゆる時代精神あるいは芸術意志といったものが自然と反映されて、まさにその時代にふさわしい「様式」が自然に生まれるのである!・・・つまり捨てて勝つ!あるいはスポーツで疲労困憊したときに身体が最適で無駄のない運動を自然にする、みたいな考え方である。前回それをぼくは「奇跡」と呼んだが、この奇跡がかなりおこりうると考えていたのが近代なのであった。

 藤森の建築はそれこそ恣意性のかたまりであり、装飾的な要素であったり、素材の端部の処理であるとか、彼のテイストがどこまでも求められる。しかしいっぽうで、個人的な造形をもとめて技術的な解法をそれぞれの現場で試行錯誤してもとめてゆくやり方は、すでに解法を事前に知っている職人とはちがって、事前の恣意を排してかなり心をタブラ・ラサにしている。さらには縄文建築団の手業のランダムさが結果的にいい味わいを生むなどというのは事後的に生まれる美学であるといえる。つまりおおげさな比喩をすれば、できあがったデザインを脳裏にかなりイメージしながら設計するのを目的論的・生気論的アプローチとして、その逆に、すべてを別の因果法則やあるいは機械的なランダムさにゆだねるやり方を機械論的としてみる。すると藤森の建築は、この矛盾を内包しつつ、それをかならずしも理論的に克服するのではないけれど、あるいは理論的にそうしても建築にはならないので、実践と創造のなかでうまく折り合いをつけながら、二律背反を乗り越えてゆく。

 しかし前回書いたように「近代建築そのものが生気論/機械論の矛盾の統一だとしらた?つまり国家的偉容、万人のためのハウジング、衛生健康、文化の普及といった政策的目標は掲げながら、その手続きは、発展したテクノロジーに身をゆだね、あえて恣意性を排除することで時代精神という背景が憑依することを期待する。すなわち主体が機械的であれば、それだけ超越的な目的がとりつきやすいのである。だから二元論の克服こそが近代のプロジェクトであったとしたら・・・」どうするのだろうか。つまり藤森建築はまさに近代の構図をそのまま反映しており、体現することで批判とはなっていても、やはり近代建築のなかにとどまるものであったとしたら?藤森の立場はないではないか?

 近代とはなにか、近代精神とはなにか、という問いは、ぼくが学生であったころから繰り返されてきた。当時の建築史の偉い先生は、極端な合理主義、つまり理性によって意味を見いだせるもののみで世界を構築しようとする精神が近代的だといって鋭い近代批判を展開していた。しかしほんとうにそうだろうか。意識が支配できないものが、神や王いがいにあることが近代の発見であった。そして意識と意識外との葛藤というところに近代の意味がある。

 それを考える最適な例は、ぼくが最初に指摘するのではないけれど、やはりカントのアンチノミーだと思う。つまり世界はひとつの理論では支配できなくて、かならず二律背反になる。そのとき人間はどう実践してゆくのか、という問いである。たとえば必然性と自由のあいだのアンチノミー、つまり万物が因果論的にその運命がきまっていれば自由はない。自由が成り立てば因果論の意味がなくなってしまう。この哲学は、論理構築的というより対話的でありダイナミックである。

 カントについては『カントの哲学』(池田雄一著、河出書房新社、2006)の書評がWEBにでていた。こんなことが書かれていた。《カントは『判断力批判』のなかで、人体に対しても、それを何に使ったらいいのかわからない道具としてみる必要があると述べている。カントにとって美学的に世界をみるということは、世界を廃物として眺めるということを意味するのだ。このことは、世界を美しい仮象、スペクタクルとして鑑賞するということを意味するわけではない。》カントの批判哲学はシニシズムを帰結する。しかし同時に「シニカルな時代における行動の原理、シニシズムの対抗原理」をそこから読みとることが可能だ。その転回は、あたかもプトレマイオスの天動説から「趣味判断」をもってコペルニクスの体系にシフトするようにしてなされる。このコペルニクス的転回のための具体的方策は、カントを第三批判書から読み解くことである。世界を美学的に見ることである。

 美学的にみるということは要するにカント的に見るということであろう。それは二律背反そのものを受け入れた地平に身をおくことである。たとえば堀口捨己は「目的なき合目的性」という言い方でそうしたのではないか。

 藤森は生気論/機械論、目的論/合理論というアンチノミーを理論的に克服したのではなく、実践においてそれを生きることで世界を美学的に見ようとするのである。

 伊東豊雄が藤森を評して、白派と赤派という違いがあるが、どこかで出会うだろと指摘したことは当然だと思う。赤/白はほとんど表層的で建築史的な単純なレッテル貼りにすぎないからである。さらには伊東もまたアンチノミー実践的に生きることで世界を美学的に見ている。そしてそれらは、ぼくの目には、近代建築における最良の部分であるように映るのである。

 さていちおう結論を出してみて、いまさらカントのアンチノミーを持ち出す古さはいかんともしがたい。そもそも藤森の建築を思想という目で判断するのがおかしいのである。彼の業績は、最終的には、建築史の視点から、建築史家として、判断すべきであろうと考えている。

 そういう意味では、伊東忠太を継承するのは藤森照信その人しかいない。世界了解のしかたにおいて、建築を身体性において理解するその所作において、建築を個人化しようとするその腕力において、継承しつつ凌駕しているかもしれない。伊東忠太を頭で理解しようとする人びとはたんなる注釈者にとどまるであろう。ぼくは、身体で理解する歴史がどんなものなのか、とうてい想像不可能であるがゆえに、藤森照信に注目するのである。

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