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2007.09.03

【書評】多木浩二『建築家・篠原一男』青土社、2007/神なき神殿

建築家・篠原一男―幾何学的想像力 Book 建築家・篠原一男―幾何学的想像力

著者:多木 浩二
販売元:青土社
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 多木浩二が1960年代から篠原一男について書いてきたその論文選集である。

 個人的観察によれば、篠原一男はなかなか分析しづらい建築家である。スタイルも明確であり、みずから文章を書いているにもかかわらず、篠原一男を語るとき、さまざまに語るのだが、気がついてみれば結局、自分の関心をとおして、自分自身を語っていたりする。批判的言説はいつもそうなのだが、篠原一男が対象になるときにはそれが顕著である。

 この建築家を分析するのに、多木浩二は西洋哲学を引用する。ハイデガーの住まうことと建てることの同根性(だから近代的な住宅供給の世界では、住まうことと建てることが、手続きとしていったん、切断される)。だから住居は存在の形式である。あるいはメルロ・ポンティの現象学理論、意識はなにかについての意識であるというテーゼから、篠原の「装飾空間」概念は、物質に対する意識の問題であったととらえ直す。

 しかし、深淵な書でありながら、そこに書かれているのはやはり多木浩二の世界である。読み進めながら、字を追いながらも、ぼくの関心はしだいに記述された内容をはなれ、篠原自身の文章にむかってゆく。『住宅論』(1970)である。

 その書を読む限り、篠原はすぐれて逆説の人であって、社会に一般に受け入れられている概念を逆転させることからはじめる。有名なのは、住宅は広いほどいいというテーゼであって、それは最小限住宅などということが真面目に論考されていた時代の直後であった。しかしそれはル・コルビュジエのようなたんなる挑発的言説ではなく、機械的に操作して選んだ言語的出発点にようにも感じられる。たとえば、世の中は間違っていることが多いから、すべて逆転させて考えれば、正しいことに到着する可能性は大きいといったような・・・・

 そう考えると多木の記述をとおしても篠原的な逆説はいくつか見つかる。伝統とは、創作の出発点であって、回帰点ではない、という主張。また住宅は芸術であるとしながら、時期をへて、すべてが芸術となったいま、住宅はその反対でなければならない、と主張する、など。

 そればかりではない。篠原独特の言葉の使い方である。去年たまたま必要があって『住宅論』を25年ぶりに斜め読みしたが、とくに印象的であったのが「亀裂」というキーワードである。これはひとつのボリュームが、その内部でふたつのボリュームに分断されており、両者のあいだにギャップがあるおもに70年代の住宅のためのコンセプトであった。しかし同時に彼は、この「亀裂」という言葉を、世代、社会、体制の対立、首都と地方、伝統と近代などとさまざまな対立を述べるために使う。それが住宅内部の空間的な「亀裂」とはもちろん直結はしないが、彼はなんども文章をすこしずつ変換しながら、さまざまな意味の「亀裂」を、ひとつのものとして繋げてゆくのである。

 これは論理的な説明ではない。そこにひとつの組み立てをみようとおもうとかならず失敗する。これは呪文である。呪文をなんども唱えることで、意味は膨張し、曖昧になり、社会から空間へと浮遊し、さまざまな記述が渾然一体となった状況を呈する。

 それが篠原一男のPR作戦であったとは、ぼくは解釈しない。彼はまさにそのように思考し、設計したのではないか、と想像する。つまり篠原は、言語と空間を意図的に未分化な状況とし、ある言語がある空間を指示するというのではなく、意味の変容がそのまま空間の変容になるといった境地を作りあげたのではなかったか。同じ言葉を脳裏に反復しながら、ひとつの言葉のなかにさまざまな意味内容が投げ込まれ、さまざまな空間の形式が観念連合しながら、溶鉱炉と化し、そこから新しい住宅を設計してゆく。だから論理は構築されない。しかしその言葉を篠原がいかに反芻し、展開し、飛躍していったかを読まねばならない。

「亀裂」のほかには「大きな空間」「黒の空間」といった、逆説によって導かれた言葉が、呪文のように繰り返され、空間が生成されたのではなかったか。

そうした意味では徹底的かつ方法論的に内面的な、あるいは内向的な建築家であった。現代の建築家たちが、スマートに状況や与件を整理し解釈しつつ、それによって建築を設計してゆくのとは対照的である。歴史的にみれば希な例であることは確かだ。しかしひとつの住宅であれ、その内部空間が、じつは空虚でありながら、逆説的に、その空虚が、ひとりの人間の内面という別の空虚で満たされるということがありえた。それは神なき神殿である。あるいは空間が神であったというべきか。

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