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2007.09.01

学会から懇親会へ(福岡、2007年8月30日)

福岡大学での建築学会大会の2日目が終わり、懇親会へ移動した。地下鉄の乗り換えは、地下街を10分歩く。

リハビリ中のぼくとしては、他人をよけながら歩くのは重いモノをもつくらい難儀なのだが、集中してこの苦行をこなす。するとランニングハイほどではない高揚しかつ安定した状況となる。しだいに昔の言葉を思い出す。群衆の人、群衆のなかの孤独、ダス・マン、燃え尽きた地図、城・・・・・なんとも大仰な話だが、三カ月ぶりの地下街体験はこんなものである。

このとき道中を共にしていた友人についいってしまう。

最近、ぼくね、こんな地下街のなかで、自分がどこにいるのかいつも注意している、っていう感覚がどんどん希薄になっていくんだよ。自分の位置についてどんどん鈍感になっているのさ。ここはどこ?私はだれ?って言い方があったけれど、それも愚問っていう。・・・迷っているともいえるし、迷ってないともいえる。どうでもいいっていう、気持ちが強くなってね。まあほんとうに迷えば地上にでてタクシーを呼べばいいのさ。言い換えはいろいろできるんだろうけどね、これは極端な自己中心主義で、自分が世界の中心である!なんてことかな。でもぎゃくに、これまた極端な博愛主義で、すべてを受け入れてしまっているってことかもしれないね。

そうですね、自分と世界の境界線が曖昧になってきたというか、世界を主人公にすると、世界が内面に浸入してきたってことですかねえ・・・

人格が外部にむかって無限に拡大したというか、ぎゃくにすべて内面に閉じこもってしまったというか、よくわからないんだけどね・・・。外国にいってもそう!最近は緊張感がないんだよね。まったり。でもこれでいいのかねえ?

地図を読めない人っているよね?でもそんな人でも迷わず目的地にいける。だから地図は実用のためにはどうでもいい。だけど認識上の問題なんだな。つまり地図って、俯瞰でしょ?だから道に立って地図のなかに自分の位置をプロットできるひとは、地上1.6メートルの視点と、地上100メートル、1キロでもいいけどさ、ふたつの視点をもっていて、ふたつが一致していると確信できるんだな。人にして鳥、人間にして神、というわけだな。

そういえば午後のPdは「空間システム」だったけど、都市計画の先生が、路上観察学的な視線でもって都市計画をしよう、なんていって、かなり顰蹙をかっていたけど、理論的には俯瞰的視点の都市計画が、人間の目をもつってこと?

彼らは人間の目をもってるつもりさ。でもパネラーはみんな団塊世代で、高度経済成長を生きた人々が空間の激変を体験したということで、生き証人なんていわれていたけど、結局、世代的課題なのか普遍的課題なのかってことでしょ?

でもねえ、西洋ではさ、都市空間と建築空間は同時に展開するのさ。都市の変容と、建築タイポロジーは同時である、いや同一である。だから陣内さんが紹介したムラトーリ学派ってのは、建築ティポロジアで都市の展開を語れるのさ。でも日本は、ある意味、都市と建築が異次元なんだな。だから都市を変えなくとも、建築を変えられる。だから日本の空間システムは構造がユルい。だから都市に内在する論理によらなくとも、マーケットに投げ出すことができるのさ。これは布野さんがいっていたルフェーブル理論だな。

それはそうと「衰退の歴史」はどうだった?君はいってたんでしょ?衰退って概念は西洋的なものだから、どこまで普遍化できるものやら。そもそも「歴史」だって西洋的だからね。歴史の逆が永遠の現在ってわけだ。

衰退の歴史ではなく、建築史の衰退ではないか、ってだれもが思っていたよね。その説明はあったの?

一応ね。まあぼくも全部は聞かなかったけど、日本建築史では衰退の概念は通用しないって意見もあったね。

衰退って、漠然とは理解できるけど、正確には、はっきりした指標がいるよね。技術とか生産なら、数値的指標がありそうだけど、建設量そのものとかね、建物の高さとか。でも様式の場合は違うでしょ。スタイルの場合は発展があって、そして完成がある。ルネサンスにおけるブラマンテとか。この完成がどこかを示すことがすべてであって、その後がなだらかな衰退だろうと一瞬の崩壊であろうと、どうでもいいんじゃない?

でも好意的に解釈すれば衰退をいいたいのは、たとえば「西洋の没落」のような、文明の相対的力関係がすこしずつ逆転してゆくってことをいいたいんじゃないの。そういう意味ではアジアにおける日本の位置を考えるときにさ、衰退ってのは重要でしょ?でもそのまえに西洋の衰退をしめすものとして日本の近代化があったわけでしょ?

いいですけど・・・。そういえば美しく衰退したのはヴェネツィアだよね。日本も第二のヴェネツィアになりますか・・・。「美しい日本」は衰退覚悟で、っていうなら腹が据わってますけどね。・・・でも「空間システム」も「衰退の歴史」も結局、団塊の世代か、全共闘世代の人びとにとっての、世代的問題でしょ?重大問題だけど、どこまで普遍化できますかね。

いやいやある世代にとっての抜き差しならない問題である、このことだけでも大変なことですよ。

それもそうだ。

団塊の世代の問題提起にすぎないとしても、そのつぎの谷間の世代は、団塊ジュニアはちゃんと問題提起できますか。問題提起どころか、むこうのほうからやってきた問題でつぶされるかもしれない。やはり団塊世代は立派です、すくなくとも谷間世代よりは。

でしょうねえ。

・・・などといっているうちに、自分たちがどこにいるのかも無頓着な人びとは、体内GPSをなんとか機能させて懇親会場である百年蔵に到着し、しこたま飲んだとさ。

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