【書評】高橋裕史『イエズス会の世界戦略』講談社選書メチエ2006/布教は世界戦略なのだから一国史のなかに位置づけて理解するのはよくない、という指摘は教会堂建設にもあてはまる
![]() |
![]() |
イエズス会の世界戦略 (講談社選書メチエ) 著者:高橋 裕史 |
ぼくの興味にぴったりフィットした一冊である。
研究の目的は著者が明快に述べている。イエズス会の未公開資料が解放されたのでイエズス会の布教活動にかんする研究は飛躍的に深化した。日本人による研究はどうしても一国布教史になりがちで、国内史を飾る付随的エピソード的な扱いであった。しかしイエズス会は世界的布教という明確な戦略をもって活動してきたのだから、その世界戦略のなかで、日本がいかに位置づけられたかといった視点がこれからは不可欠である。とくに東インドにおけるイエズス会の聖俗にわたる活動と関連づけられなければならない。
本書ではさまざまな修道会のなかで比較的若いイエズス会が、急速に活発化した理由として、ポルトガルの世界支配とともに、そのポルトガル王室との協力関係のなかでイエズス会が力をつけていったことを指摘している。1534年にポルトガル王が布教保護者となって、ゴア司教区が設置されたこと、など。
さらにヨーロッパ人のアジア観、会の管区制度、会憲の制定、スペインとポルトガルの地球二分割デマルカシオンが背景にあったことが指摘されている。
本書で魅力的なのは、布教活動のための、後援者づくり、資産経営、組織づくり、布教先の情報収集など、当然直面する具体的な懸案事項に会士たちがいかに取り組んだかが、丹念に具体的にかかれていることである。世界戦略、布教政策というものはひとつろ理念ではなく、まさにさまざまな政策の束として記述されるべきものであるからだ。財政としては、国王やインド総督からの支援のほかに、貿易、不動産経営をおこなって資産運営をおこなっていた。これは必要ではあるが過度になると清貧思想と両立しない。あらゆる教団に共通することで、ふるくは中世のテンプル騎士団も、イエルサレム巡礼者のために為替を発行して利便をはかりながら巨万の富を築き、フランス国王に解散させられた。イエズス会もそうして世俗化しすぎたので、1773年にいちど教皇により解散させられた。フランスではその前に追放されている。
こうした流れを背景として、ポルトガルが支援するイエズス会と、スペインが支援するフランチェスコ会のあいだで日本布教をめぐるヘゲモニー抗争があったこと、日本を長崎、京都、豊後と3地区にわけたこと、日本の習慣を尊重した適応主義政策がとられたこと、マカオから長崎に入港するポルトガルのナウ船が日本イエズス会の生命線であり、それがもたらす南蛮渡来の珍品や武器が布教の道具であったことなどが紹介されている。日本イエズス会は定収入としてポルトガル国王からの給付金、ローマ教皇からの年金、篤信家からの喜捨、インド国内の土地による不動産経営で資金をまかなった。軍事化について嫌疑がかけられたのであった。この軍事化についても日本だけではなく、ローマ、ゴアなどで検討され、まさに世界戦略のなかでの位置づけが問われたのであった。
ぼくにとって興味深いのは、布教にともなう教会建設運動の理解のためによいパースペクティブを与えてくれるからである。日本に布教した宣教師はとうぜんのことながら建築家ではないにしても、教会建築の最低限の知識と、教会の建築政策と、同時代ヨーロッパにおける教会建築の動向などをふまえた上で、教会を建設するのである。だから日本における教会建築を理解するためにも、キリスト教会=教皇の方針、宣教師を送り出した教団の方針、などをふまえる必要がある。また日本における布教活動が展開されているまさにその時に、ヨーロッパでもさまざまな布教活動がなされ教会堂が建設されている。その同時代性を理解しなければならない。
| 固定リンク
「宗教と建築」カテゴリの記事
- 五島の島めぐり(2009.08.01)
- 若桑みどり『聖母像の到来』(青土社)を読んで(2009.05.02)
- フレノ神父と浦上天主堂(長崎)(2009.01.16)
- 日曜日は教会にいこう!・・・というわけで美野島教会となぜかロリアン市のノートル=ダム教会(2008.06.08)
- サント=クロチルド教会(パリ)と様式論争(2007.11.10)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント