東方旅行(032)1987年12月31日(木)チュニスからカイロへ
【観光】Bardo美術館。先史、フェニキア、ローマ、アラブ。とくにモザイクがきれい。ミュージアムショップにはパリ碑文アカデミー賞を受賞した文献があった。建築関係も少なくなかった。なかでも『カイルーワンの柱頭』。パラパラとめくってみる。やはりこれら柱頭は古代建築からの転用材であったのだ。その起源は注目に値するものであったのだ。歴史は細部に宿っている。ヴェネツィアの石、カイルーワンの柱頭、東京の・・・新建材?
チュニジアはコンパクトな国土と比較的穏健な民族気質が特質である。地理的には地中海の要所であった。そのためフェニキア人、ローマ人、アラブ人、オスマントルコ、フランス人に支配されることとなった。20世紀初頭から独立運動が始まり、1956年に独立するが体制は不安定であった。1991年の湾岸戦争ではフセインを支持し、イスラム原理主義に傾斜する。しかし基本的にはここは「ソフトイスラム」である。外国人には寛容であり、観光も重要な産業である。ぼくもここなら再訪してもいい。
チュニジアにおけるナショナル・アイデンティティとは?基本的には日本などとはまったく異なったものである。民族・宗教的には、イスラム、地中海、アラブ・ベルベル(人口の98%はアラブ/ベルベル)という普遍的枠組みのクロスした形態をとる。建築的にはむつかしいところで、外国人でありスタディしていないぼくとしては、古代建築とイスラム建築はそれぞれ特性がはっきりしており、上位の概念でくくれるものではない。
しかし「カイルーワンの柱頭」に典型的に示されるように、シリアやヨルダンなどと同様に、古代とイスラムは、柱身や柱頭(そしておそらく壁材そのものもそうであろうが、ビジュアルには訴えない・・)を転用するというきわめて即物的な建設行為によって、モノにより媒介されている。そのかならずしも観念的ではない(とはいっても柱頭のデザインはすぐれて芸術的、観念的なのであるが)、即物的な連続性が、上位の建築概念を構築するための手がかりになるのではないか。それは痕跡とか、模倣とかいうよりも強い何かを物語っている。
若干考察すれば、死と再生なのであろう。これは地中海の石造建築ではありきたりのことなのだが、使われなくなり無用となった建物は石切場と化す。建物は解体され、転用材の産出場となる。こうした転用材が、たんなる切石などであれば、新しい形式の壁などの一部となって全体に埋もれてゆく。しかし柱、柱頭はそのアイデンティティをあくまで保つ。本来の文脈から切り離され、石切場に置かれ、一時的な死をむかえる。しかしそれはあらたな建物のしかるべき場所に置かれ、再生する。まったく異なる建物の一部となる。それは時代や場所だけではなく、建物の用途だけではなく、宗教というものまでトランスしつつ、そのアイデンティティを保つ。
【未整理写真】モスク。近代建築(フランス人建築家の奇想であろう)、スークなど。
【移動】チュニス空港にて。「ホテルは決まったかい?案内するよ」「これからカイロへのフライトなんだよ」「ああ、じゃあいいよ!」。エジプト航空でカイロへ。到着は深夜。スムーズなフライト。隣のチュニジア人だかエジプト人だかはグッド・パイロットだと絶賛していたことが理由もなく印象に残っている。入国すると熱心なホテルの客引きに遭遇。彼らから逃れ、市内へ。
【宿泊】Hotel Anglo-Suisse, 10.20EE(約5ドル)。いまとなってはどうやって宿にたどり着いたか覚えていない。部屋(どこもやたら天井が高かった)が見つかったころには新年をむかえようとする時刻になっていた。ホテルのロビーでは宿泊客たちがパーティーをやっていた。カウントダウン。・・・明けましておめでとうございます。1988年になりました。カイロの新年は格別だろうね。
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