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2007.09.21

東方旅行(029)1987年12月28日(月)チュニス/保護領下であり政教分離でありというクロスした状況とはいかなるものであったか?

 チュニスは見所の多い都市であるが、日程の関係でカテドラルとスークしか拝見していない。しかしカテドラルは、コロニアルな状況のなかでキリスト教建築の建設、しかも本国では政教分離といった、単純には整理できない状況での建設であったことを考えると、即断できるしろものではない。(なお建築解説は後半)

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 【航空券】Hotel Internationalにあるエジプト航空オフィスで購入。12月29日は満席だったので、12月31日チュニス→カイロ、227TD(=280ドル、4万円)。ヴィザカードで支払い。【宿】Hotel Central, rue Suisse。ダブル、一泊5TUD。移動疲れがたまっていたので、今日は一日チュニスでゆっくりすごそう。【両替】60ドル=45.800TUD。【新聞】1987年12月27日付のル・モンド紙によると「1ドル=125円という円高ドル安は日本の成長を促進するであろう」。

 【チュニス略史】チュニス小史。古代、フェニキア人が都市チュニスを建設。それは侵略者が交代していった歴史であった。フェニキア人、紀元前18世紀にカルタゴを建設。ローマ人。ビザンツ人。ヴァンダル人。シチリア経由のノルマン人。アラブ人(7世紀、ウマイヤ朝。750年、アッバース朝。800年、アグラブ朝。909年、ファーティマ朝、969年、カイロ遷都。1229年、ハフス朝)。スペイン人。フランス人。オスマン・トルコ(1574年~)。17世紀、レコンキスタでスペインから追い出されたムーア人たちが住み着く。1881年、バルド条約、フランス保護領。1943年、連合軍による解放。1956年、独立。

 【暴言】これだけ遺産に恵まれながら、それを生かそうとする精神がなかったのか?古代、中世、イスラムをもちながら、建築にたいする自我をもてなかった。ここにある近代建築もフランスの2流業者がすきかってにやったという感じである(それをおもえばヨーロッパの古典主義は空前絶後である)。あまりに保守的でダイナミズムに欠ける。発展の可能性をみずから見ようとしなかった?いやむしろ「完成」という概念があったというべきかもしれない。これこそが日本になくてイスラムにあるものか?

 【文献】モロッコ、アルジェリアとは異なり、ここには建築史の学術研究書がちゃんと書店で売られている。

 【テレビ】イタリアの番組が流れていた。地元番組はフランス風。

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 大モスク。732年建設。内部は15廊式で6スパン。186本の円柱は、カルタゴにあったローマ時代の神殿からの転用材。カイルーワンの場合は不明であったが、ここのモスクは転用材の出所がわかっている。柱が、とくに柱頭が、古代と中世を媒介にしている。

 どうじに古代建築からヨーロッパ建築に一本の線をひきその排他性を強調することがいかに現実を無視していることがわかる。イスラム建築もまた古代を継承しているのである。つまり古代はあとのさまざまな文明にとって共通の基盤でありOSであったということができる。

 スーク。とても狭い。はやく歩けない。

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 チュニス大聖堂。フランス式のとくにイル=ド=フランスのゴシック建築にはよくある対の塔。中央大アーチは、中世ではなく、むしろ19世紀的な都市性(都市空間に見合った大要素)のための演出に思える。下大アーチ上のアーケードはロマネスク風。ドームはビザンチン様式がペリゴール地方に伝わった様式に近い。ドーム見上げであるが、スキンチ・アーチであり、これはビザンチンにもフランス中世にも見られる。感覚的にはクリュニーとかあのへん。平面はフランスに一般的な、周歩廊がめぐっている巡礼式のもの。身廊のアーチはブルゴーニュ風。20年後、ウエッブで調べるのだが、20世紀初頭の建設ということしかわからない。ステンドグラスは当時の抽象絵画の影響を受けたものがあり、同時代性がわかる。

 ところが大聖堂身廊の柱と柱頭がおもしろい。すべて違っている。これもまた転用材である。そこから推測できることは、古代建築が(ひょっとして古代神殿が?)解体され、柱と柱頭が、イスラムのモスクに転用され、さらにそれが教会に転用されたとしたら?3宗教を渡り歩く柱たちがいたとしたら?この仮説は歴史家のロマンである。

 また上で述べたように、保護領下で、しかも政教分離下で、キリスト教会堂を建設するということがどういう具体的な状況であったのか、判明を要する。つまり国は財政支援しない、宗教団体が自助努力で建設する。しかし、ここからは可能性の話だが、宗教団体が建設の財源確保のために植民地でさまざまな活動をしたのではないか、それはなにか・・・・ロマンは続く。手前みそだが、こういうことが「長崎の教会」などと比較して検討されるべきなのだ。

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