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2007.09.20

東方旅行(028)1987年12月27日(日)カイルーワンの大モスク/建築の過渡期性ほど感銘を与えるものはない

東方旅行(028)1987年12月27日(日)仏Kairouen:英Qairouan:現地人の発音は「ケルワン」と聞こえる。

 あまり生産的な一日とはいえなかった。旅行日記によれば、この不満の残る一日は・・・ 。

7h30-9h30:乗合タクシー乗り場をさがすのに2時間もかかった。

9h45-11h45:タクシーの車中(3.400TD)。

12h00:ガイドしてやろうというチュニジア人青年ふたりにつかまる。親切そうではあったが、彼らにぼくの一日は支配された。

12h15:大モスクに到着。しかしキップが必要だという。

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12h30-15h00:くだんのチュニジア人青年の自宅で食事をごちそうになる。クスクス。彼は絨緞製造業者の息子であった。その自宅は裕福な生活ぶりを物語っていた。お母さんがやってきた。若い人はたくさん食べて元気にならないといけないよ、とありふれたことを語っていた。アラブ語でしゃべっていたが、そのときだけは理解できた。チュニジア人青年はアジアや日本にも興味があった。なぜヨーロッパの国ではないのに高度経済成長ができたか、などと質問してきたので、江戸時代すでに高度に発展していたのだよ、識字率も高かったし、などと解説した。

 15h00-16h00:やっと大モスク見学。かのチュニジア人青年はどこまでもついてくる。彼はアジア好きで、空手にも興味があった。組み手のポーズをとらせ、一緒に記念撮影させろというので、そうした。どこまでも友好的で親切であったが、建築のディテールをこまかく観察する余裕などない。

 16h40-17h40:乗合タクシー、カイルーワンまで1.700TD、そこからスースまで2.800TD。

 18h12-20h30:鉄道でスースからチュニスまで移動。車中、50歳くらいのチュニジア人男性と世間話をする。とても親切な人であったが、女性の社会的地位にかんしてはイスラム的理解を示していた。お国自慢をひとしきり。「アフリカといっても地中海側とサハラのむこうは違う。ここはイスラムの国で、地中海をとおしてむしろヨーロッパと交流していた。イスラムはヨーロッパよりも進んでいた時期もあったよ。ぼくたちには地中海アイデンティティといったものがあるんだ。それはヨーロッパに近いものなんだ」云々。

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カイルーアンの大モスクは836年以降建設。アグラブ朝(800-909年に北アフリカを支配した王朝で、首都はカイルーアン)の主要建造物。後述の将軍が南のベルベル人、北のビザンツ人から逃れるために、この地を選び、都市と同時に建設。ひとたび破壊されるが、695、774年に再建。たびたび改築。中庭のポーティコは9世紀、13世紀。ウマイヤ朝やアッバース朝の首都との関係が深かった。塔は礼拝堂の中央軸線上にたつ。9世紀に増築。ミヒラブのこの時期に充実された。その光沢のある化粧材で覆われたミヒラブの様式はイラク起源。

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 壁面装飾はごくわずかで、レンガがむきだしで、ローマ的威厳を感じる。簡素で純粋。イスラム建築はすぐれて表面と装飾の建築である。塔、礼拝堂の中央部の天井が高いこと、ミヒラブの様式・・・などがマグレブ、スペインのイスラム建築にとっての模範となった。

 柱頭、円柱はローマ時代の別の建築からの転用材である。ドームはビザンチン的。塔は閉まっていた。一般的によくメンテされている。このモスクは西イスラム世界では最古のもの。4角の塔はテイパーしてゆく壇状の様式はシリア式。

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  ぼくが感動するのは柱頭である。イスラム建築は、初期において、古代建築やビザンチン建築の転用材をそのまま使っていた。このモスクの柱頭もひとつひとつすべて違う。670年に建設された都市だから、この地に古代建築があったのではなかった。しかし周辺のどこかから運んできたのであろう。様式的には、ローマ、ビザンチン建築の転用というのが通説だが、ビザンチンではなくやはり古代ローマの建築から転用したもののように思える。抽象的な理念やデザインの図式ではなく、この柱頭というなまなましいものを媒介として古代と中世はつながっている。それを「過渡期」とよぶ。しかしこの過渡期的建築こそ、むしろ感銘を与えてくれる。様式として完成されたものは、じつはそれほどでもない。過渡期にはまだ定まっていない、しかし理念として存在していたある理想にむかっての希求が感じられる。それはやはり事後的に感じるものにすぎないとはいえ。

 カイルーワン小史。670年にアラブ人将軍Uqba ibn Nafiが創設。したがってギリシア、ローマなどの前史はもたない。ここはかつては林のなかで、軍事的な要所であったそうである。800-909、アグラブ朝。カイルーアンの最盛期。909年、首都の地位を失う。そののちエジプト、オスマントルコの侵入をうける。1057年、Hilaliensに都市は破壊される。1702年、Hussein Ben Aliは城壁を再建。1881年にフランスが占領。1988年、メディナがユネスコ世界文化遺産に登録。

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