東方旅行(025)1987年12月24日(木)ティムガドの古代ローマ遺跡
東方旅行(025)1987年12月24日(木)Timgad、曇り。
【移動】バスAlger22h00→Batna4h30(67DA)、バスBatna7h00→Timgad7h40(4DA)
【今日も元気で】車中泊と車中泊のあいだの一日を使っての見学である。曇りであったのは幸いであった。こういうときは急いではいけない。ハイペースになると一挙に消耗する。80%のペースで、淡々と、着実に見てゆく。ゴールを考えてはいけない。着実に進んでいけばやがては達成する。そうすれば何十時間でももつものである。
【遺跡】グリッドプランの典型的な古代ローマ都市計画。カルド・マキシムス、デクマヌス・マキシムスは、列柱街路となっており、中央が車道で、列柱により隔てられて左右が歩道となっている。この狭/広/狭のリズムがそのまま凱旋門=都市門のそれとなっている。劇場の背景は、都市の街路と一体となっているかのようだ。ここでは劇場がヴァーチャルな空間を構成しているというより、都市そのものが仮想現実であって劇場はその特性がもっともはっきりした場所であるにすぎないようにも思える。街路の下は下水渠のように思える。
【移動】バス代調査。Timgad→Batna(4DA)、Batna→Constantine(28DA)、Constantine→Tunis(117DA)
ウィキペディア仏語版によれば、トラヤヌス帝が紀元100年に建設した植民都市であり、ラテン名はThamugadiである。現在はアルジェリアのオレス州にある。当初は12Haであったが50Haまで拡大した。典型的なローマ都市として1982年にユネスコ世界文化遺産に指定された。
100年、トラヤヌスは第三軍団アウグストと属州知事ルキウス・ムナティウス・ガルスに都市建設をさせた。したがってティムガド住民はすべてローマ市民権をもっており、パピリウス(ローマの氏族)の一員となった。この植民都市はマルキアナ・トライアナ・タムガディと呼ばれた。マルキアナはトライアヌスの妹の間であり、タムガディはラテン語的な格変化がないので原住民が呼んでいた名前であるらしい。前身都市があったかどうかは不明であるが、いずれにせよローマ人たちは処女地におけるがごとく、グリッドプランを展開した。とはいえローマ都市ならかならずグリッドであるというわけでもない。だからティムガドは都市となるまえは軍の野営地であって、都市はこの野営地の平面計画のうえに建設されたと推定される。このこともまた証明はできていない。しかしローマ軍の動きを考えると、野営地起源であるという仮説は説得力があるらしい。ティムガドはアフリカ軍にとって戦略的には最良の場所であったということである。
とはいえ軍事都市としての機能は副次的なもので、退役軍人の町であった。ただ志願兵を徴収したり、食物を補給する拠点ではあったので、間接的な軍事都市という位置づけであった。オレス山脈にはローマ軍は侵攻できず、その地帯は謀反の温床となっていたので、それににらみをきかす意味があったという誤説があった。1960年代に航空写真などの分析から、ピエール・モリゾはこの地域がそれほど危険な場所ではなかく、そののち容易にローマ化しキリスト教化されたことを証明した。したがってティムガドの建設は、かならずしも軍事目的ではなく、属州の開拓であったようだ。
都市は、周辺の一体の土地を支配している。ポール=アルベール・フェヴィエによれば1500平方キロの土地を支配していたようである。これらの土地はすべて民間人の所有であったわけではなく、かなりの面積が皇帝が直接所有していた。こうした皇帝の土地は、プロクラトル(皇帝の代官)が管理し運営していた。ティムガドの住人たちはすくなくとも大地主ではなかったようである。
キリスト教は4世紀にはいってきたが、この地はローマ・カソリックから分離して独立教会組織をもとうとする勢力が強く、抗争はながくつづいた。ドナトゥス主義といって4世紀にドナトゥスがおこした分離主義である。そののちヴァンダル人の浸入、ビザンチンの支配、そしてイスラム教徒の支配。イスラム化したときの状況はわかっていないらしく、おそらくこの時期に廃墟化したのであろう。そして人が住まなくなった都市は、風で運ばれてきた土砂にすこしずつ埋ってゆくのであった・・・・
カピトリウム地区があった。2世紀の建設で、4世紀に再建された。これはローマのカピトリウム丘にちなんだもので、都市の起源を象徴する神殿などがおかれていた。ユピテル、ユーノー、ミネルヴァの神殿があったらしい。しかしフォーラムからは遠く、丘の上があてがわれてもいなかった。これは途中で都市計画の方針がかわって、都市が当初よりも大規模となったので、フォーラムに隣接した場所から移動されたと考古学者は分析している。4世紀に再建されたときはすでにキリスト教が広まっていたので、これもまた複数宗教性の反映であるとされている。
フォーラムと劇場。フォーラムにはクリアと市民バシリカが面していた。バシリカは小規模で、勝利の女神に捧げられていた。基壇にのった4柱式のポーティコをもつ。クリアも小規模なもので、バシリカに対峙していた。フォーラムには30基以上の彫刻が飾られていた。広場に面して碑文があって「狩りをし、浴場にいき、遊び、笑うこと、これぞ生きること」とあった。
凱旋門。狭/広/狭のリズムと寸法はそのまま車道と歩道の区別に対応している。列柱街路でもあった。轍のあとが印象的であり、交通量の多さを物語っている。なお轍は古代建築史家の研究テーマのひとつであり、今日ではハイテクを使って目には見えない轍まで観測できるという。
街路はもちろんペイヴされている。丸い石はマンホールであろうか。斜めに石を敷いているのは車への衝撃軽減であろうか。
公衆浴場はいわずとしれた市民の憩いの場であり、ローマ都市には不可欠のものであった。しかし2世紀以降は私邸に浴室がひろまったらしい。社会の階級化、それにともなう社交の差別化が進行していたのだ。
住居。ペリスタイル。中庭式。壁はいわゆる「アフリカ積み」。
公衆トイレ。手すりはイルカの彫刻。
キリスト教建築。都市の周辺か外側。墓地の近く。都心部のものとしては、ルキウス・ユリウス・ジャヌアリウス邸の住居のアトリウムに整備されたらしい。西のバシリカ。教会建築にもドナトゥス派のものとカトリックのものがあって、共存あるいは対立していた。洗礼堂があり、これは司教がいたことを物語っている。
ローマ都市の常として、墓地は都市の外側にあった。とくに街道沿いにあった。博物館には子供の墓碑がたくさん飾ってあった(たんに置いてあった?)。
【発掘】1765年、イギリス人旅行者ジェームズ・ブルースが古代都市の存在を発見した。トラヤヌス凱旋門、カピトリウム、劇場を発見したが、彼の絵はやっと1877年から刊行された。1851年、ルイ・ルニエが探索、碑文を多数発見し、フォーラムを発掘し、また現地民族にたいしてティムガドが軍事的な役割をもっていたと推定した。それいらいティムガドはおもにフランス政府が発掘していった。
本格的な発掘は1880年より、フランス政府の命で開始された。財宝、記念碑を探すのが主目的となり、当時の文明の状況、その日常生活の解明は二の次であったと今日では批判されている。1884年、フォーラムが完全にその姿を現した。1894年、バシリカが完全に発掘され、コンスタンティンの司教がそこでミサをおこなった。マグレブ地方がかつてローマ領でありキリスト教圏であったことを再確認するもので、すなわちフランスの植民地化計画を正当化するものでもあった。1897年、バリュが発掘の成果を文献にして刊行した。ルネ・カニャも参画した報告書が1903年と1911年に刊行された。
1932年、都市のグリッドプランのほぼ全容が発掘された。さらにゴデが都市周辺部の発掘をつづけた。キリスト教、ビザンチンを対象とする発掘であって、1939年にアルジェで開催予定されたビザンチン研究会議に報告するためであった。ゴデの息子が発掘をつづけたが独立戦争のころにヘリコプター事故で死亡している。1982年にユネスコ世界文化遺産に指定されたが、今日では発掘はなされていない。気候条件、人的条件のせいで保存状況は悪化している。
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