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2007.09.13

東方旅行(023)1987年12月22日(火)アルジェ4日目

東方旅行(023)1987年12月22日(火)Alger4日目。晴れ。【ヴィザ】シリア大使館にヴィザの申請。40DA。【国際電話】日本に電話。123DA。【乾電池】さまよったあげく、電気屋でもなく時計屋でもなく写真屋でもなく(そもそも電気店も写真店もほとんどない)、しかし電卓も時計もあるので、どこかでは売っているだろうと希望を捨てないでいたら、結局、宝石店で発見。1個40DA(1000円!)、3個で120DAを購入。この国では宝石=時計=電池なのであろうか。手元の残金は80DAしかなく、パスポートはシリア大使館にあずけてあるから両替もできない。あといくら必要か。バス:Alger→Batna→Timgad、Timgad→Batra→Tunisで計200DA。

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クリマ・ド・フランス、200柱広場(Climat de France, Place des 200 colonnes)。建築家プイヨン。列柱と建物の隙間は狭く、そこで生活が展開するほどではなかった。むしろ全体として記念碑性が強調されている。貧しい人びとが住んでいる街区であるから、人びとの尊厳を高めるような建築が求められたのであろうか。しかしその点ではどれほど成功しているのだろうか。近隣にはバラックがひしめいている。

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 建築家フェルナン・プイヨンFernand Pouillonについて。1912年5月14日生。1986年7月24日没。戦後、マルセイユ、エクサンプロヴァンス、パリ、アルジェリア、イランで活躍。場所性の尊重、厳格で調和的な比例をもつボリュームの使用、高貴なる建材、彫刻家、ランドスケープアーキテクトらとの共同。
マルセイユで若い日々をおくり、そこの美術学校をへて、1932-34年にパリで建築を学ぶ。1936年、エクスで集合住宅。1947年、国境衛生局を建設。アルジェリアからの移民を多数受け入れる。1948年、マルセイユ港に面する集合住宅の建設を任された。戦後の建築ラッシュの時期には、エクスで「200ミリオン・フランで、200日で、200戸を建設」するプロジェクトを担当、良質の石材をつかってなしとげる。1953年、同様な手法でアルジェにDiar-el-Mahçoul集合住宅。365日で1600戸を建設、しかも地方様式を尊重し、都市空間の質を尊重しつつ。アルジェではさらにDiar-es-SaadaとClimat de France(200柱広場)を建設。
1961年、パリ郊外で大規模な団地をいくつか建設。ところが彼は名義貸しをすることでCNL(住宅国民金庫)の外郭団体の株主であったことが発覚し、司法の追求を受けた。もちろん近代プロフェッションの概念からして、建築家はデベロッパー、請負業者であることはできない。コストパフォーマンスの高い建物を建設しなければならなかったプイヨンは、団地を大量生産しなければならなかった。プイヨンは建築家資格を剥奪され、アルジェに亡命し、ホテル、観光複合施設、県庁、郵便局、大学都市など大量に建設した。1971年、ポンピドゥ大統領の恩赦をえて、1984年にフランス帰国。著作としては獄中で書かれた『粗い石』(1964、ル・トロネ修道院がテーマ、1965年ドゥ=マゴ賞)と、『ある建築家の覚え書き』(1968)。
 戦争直後の時期に、RCではなく高貴なる建材「石」をつかって住宅を大量生産したプイヨンは、本来ならばその意味において正当派建築家と称せられるべきであった。マルセイユとアルジェが活躍の場であった彼は、ル・コルビュジエとは違う意味で地中海の建築家であった。古典主義的でもありイスラム的でもあるそのスタイルは、ペレ/コルという、論争をしたふたりでさえ、ひとつの別の軸としてフランス建築界を支配していることを示唆している。プイヨンがなくなったとき、フランス国営放送は少し前の番組を流していた。アルジェリア亡命といった、まるで『望郷』のような物語を提供し、悲劇的な建築家像を示している。それでも彼は若い世代にはまったく支持されておらず、思想や、住宅供給への貢献以前に、そのスタイルが建築家としてのリスペクトを得られない状況であった。まったく見る価値のない建築を建てた建築家・・・・しかし最近はモノグラフがいくつか出版されている。

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カスバ。それほど危険ではない。モロッコとは違って自称ガイドはいない。持ち送りの構造が印象的。

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モスク前の広場。広場に面する建物はフランス風。

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Ketchaouaモスク。ディテールはイスラム風だが、ボリューム構成は教会風。2基の塔に、玄関構え。バットレスはゴシック風。後陣のニッチもヨーロッパ風。様式的には19世紀末と推定する。当然建築家はフランス人であるはずで、ヨーロッパ様式建築の素養をもち、しかしイスラムの建築文化にも理解をもった人物であったであろう。異なる文明の建築様式の混交は、コロニアルな状況ではむしろ一般的であり、インドで公共建築をてがけてイギリス人建築家たちも地域文化をまもってゆくという意気込みがあった。

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(左)殉教者広場に面したモスクは真っ白。(中)Lyre市場。鉄の建築。いかにも19世紀のパリ。バルタール以降、鉄骨造の市場は各都市で建設された。想像するに、建材はフランスで鋳造等され船で輸送されたのではないか。(右)アルジェリア国立劇場。バロック様式のいかにも劇場建築。これは19世紀的な都市の理念というもので、劇場ありて立派な文化国家とみなされうるのであった。

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Amar et Kama通りにはドリス式ポーティコが。新古典主義。通常なら銀行建築かそれに類するもののはずであるが、確認していない。

Palais du Gouvernement:A.ペレに似ている。

この国は絵はがきが極端に少ない。しかも印刷の質は劣る。昔は多かったらしい。2、3日前に展覧会であった某氏によれば、昔の絵はがきはほとんどパリに渡ったそうな。
本も大変少ない。パリでもよく見かけた建築書がキオスクでも売られていたのは驚いたが。
ホテルでテレビを見る。白黒。カラーはあるのだろうか。プイヨンの集合住宅の屋上にはアンテナが乱立していたので普及はしているようだ。放送はアラブ語ものが多かった。今日見たのは、教養番組、エジプトの遺跡、ロシアのロケット、エレクトロニクス。エジプト旅行の計画をたてる。

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