東方旅行(018)1987年12月17日(金)モロッコ/アルジェリア国境を渡る。
東方旅行(018)1987年12月17日(木)モロッコ/アルジェリア国境を渡る。ArRadidia→Bouarfa→Oujda→Maghnia
【調査】バス:ArRadidia05h00発、Bouarfa10h30着、40DH。荷物10DH!。Bouarfa発、Oujda14h00着、Figuig15h00着?
【暴論】モロッコには感動を与えてくれたものはなかった。もっとエキゾティックと思っていたが、単に田舎であるにすぎない。ここには植民地建築すら希である。あるとすれば新市街地におけるヨーロッパ的な都市計画のみ。イスラムの装飾モチーフもただ単に再使用されているのみ。その精神をくみ取った新しい造形にするとか、より抽象化するとかいった新しい試みはない。
【移動】ArRadidia5h(6h) → 10h30 Bouarfa 14h00→ 16h30Oujda → Maghnia、30DH+10DH、計30.5DH也。
【国境】BouarfaにてレストランのおやじがOujda経由の国境の越え方を教えてくれた。すなわちOujdaのバス停でタクシーをひろい、郵便局でおろしてもらう(ここまでタクシー10DH)、郵便局で「グランタクシー」を調達し、国境で降りる(グランタクシー40DH)。国境を挟んでモロッコ入官と、アルジェリア入官は隣り合わせであった。出国手続きはごく簡単であった。
国境を歩いてわたる。というかまたぐ。30秒もかからなかった。
入国手続きも簡単であった。しかし旅行経路などくわしく聞かれた。荷物検査もごく簡単。身体検査なし。所持金は自己申告のみで、チェックはなかった。中年ポリスが使い残した100DHとのヤミ両替を要求してきたので、100DH=1000DAで交換した(もう時効です)。税関では500FF=430DAで正規両替。両替のおやじも、Maghniaからアルジェまでの連絡をことこまかに説明してくれた。警官たちもとても親切であった。国境はヒマなようだ。アルジェリアのポリスたちはみんなでフランス語のテレビをみていた。
ふたりのドイツ人がいあわせた。彼らはディーゼルの巨大なキャンピングカーで旅行していた。トラックを改造したようにも見える。ひとり1台。おそらくサハラ砂漠を冒険旅行するのであろう。複数台数なのは当然の保険である。ぼくは、国境からMaghnia(アルジェリアのもよりの町)までは歩いてゆくつもりであった。数キロであり、消耗するほどではない。ただ夜なので真っ暗で、やや不安ではある。ポリスが、さきほどのキャンピングカーのドイツ人たちを指さして、彼らに乗せてもらえ、とぼくに命令した。ドイル人も快諾してくれた。車中、ドイツ人は「今はマルクと円だけだね!」とぼくにいった。ドライブの途中、ガソリンスタンドで給油した。スタンドの少年たちがFFをねだる。使いのこしのコイン、15DHなどを渡した。結局Hotel Tafnaまで14kmをドライブした。
【宿泊】Hotel Tafna、ダブル、シャワー付、105DA。ドアのカギがかからなかった。内側からベッドでロックした。アルジェリアは、モロッコよりも西洋的な第一印象であった。ホテルのテレビはアメリカの番組がおおく、マイケル・ジャクソンを見てしまう。
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