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2007年8月の15件の記事

2007.08.20

【書評】福岡伸一『生物と無生物のあいだ』講談社現代新書2007

 とくに生物学など興味はないのだが、この手の本は建築に引き寄せて解釈できるのではないかと考えて、読む。伝統的に、有機体は建築のモデルのひとつだからだ。

 DNAの自己複製機能と、しかし生命が機械ではないゆえんである「動的平衡」(ゆえに時間が重要なファクターになる)というのが2大テーマである。それだけだと乾いた説明になりがちだが、野口英世に代表される研究者の野心といった人生双六的記述をからめながら書いている。

 でも建築にどうやって引き寄せるのか?シェーンハイマーのいう「身体構成成分の動的な状態」すなわち人体を構成している分子は数ヶ月でそっくりいれかわってしまうことなどは、都市の恒常性と変動を説明するためのモデルとなりうるであろう。「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならい」という弁証法。ジグゾーパズルの「かたちの相補性」は都市という文脈のなかの建築を考えるうえでよいモデルとなろう。内部の内部は外部、というテーゼもそうであろう。建築は入れ子状の空間構成をとることがある。設計図の破壊、しかし動的平衡系の許容性、そこに介入する時間というファクター、そしてぼくにとっては援護射撃とでもいうべき「機械には時間がない、しかし生物には時間がある」というテーゼ。どれも美しい。魅力的だ。

 でももどかしい。ただちに建築に引き寄せることはできない。著者にとって建築はまだメタファーにとどまっているからだろう。彼の取り組んでいる生物学は、トポロジー的なもので、ほとんど生物学者=建築家などという見識も示される。しかし彼がまだ気づいていないのは、建築もまたメタファーを必要としており、建築と生命が互いに鏡像関係であろうとするその、一見安定しているようで、じつは不安定な関係にある、ということであろう。

 しかしそれでもソーク研究所や、ニューヨークの振動についての記述は、著者の才能が多方面に展開されるであろう可能性を示している。

                      ↓

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891) Book 生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)

著者:福岡 伸一
販売元:講談社
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2007.08.19

【書評】西野嘉章『二十一世紀博物館』東大出版会2000/現在を歴史にいかにつなげるかというぼくのテーマにヒントを与えてくれた。

 いささか昔の文献であるが、建築に置き換えてみて納得のいくことが多かった。分散型、ローン型、ネットワーク型の新しい運営方式を積極的に評価しつつ、官/民の役割分担の問題、21世紀にむけて、モノを貯蔵してゆくことを基礎にしてこそ領域横断的な知の探求ができるという主張である。日本は博物館と美術館を区別する珍しい国であるが、それぞれのビルディングタイプの国内法的定義はほとんどトートロジー的になっており、国際化の時代にそぐわないという根本的な指摘があった。建築ではそういうことはないのであろうか。

ル・マレ地区を歴史的街区に指定するのに功績のあったアンドレ・マルローの20世紀美術館の構想がポンピドゥー・センターとして実現された(ついでにいうとオルセは19世紀美術館、ルーヴルは18世紀まで、と棲み分けによるネットワーク化が大きな構想となっていた)ことが論のひとつの軸となっている。マルローの発想は「いま、ここ」で要約されているように、現在進行形のものをいかに歴史のなかに位置づけるかということであった。つまりまだ価値の定まっていないものを「発見し、価値付け、体系化する」(p.96)のである。ぼくが賛成するのは、ここに現在と歴史とを切断させまいとする強い意志がある、とする点である。同様なことはアルスナル美術館(パリ)の展示でも感じた。常設展としてパリの過去のプロジェクトが年代ごとに展示され、都市史的な理解ができるようになっており、企画展として紹介されている現在進行形のプロジェクトがそれとの関連で理解されるのである。

http://patamax.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_a820.html

 日本における決定的な欠陥は、まさにこの現在を歴史に繋げていこうという意志の完全な欠落である。つまり古い建物や集落が、歴史的価値があると指摘されるとき、その意味内容を建築史家であるぼくはほとんど理解できない。なぜ理解できないかというと、共通する歴史観や文化観がないからである。なぜ共有していないかというと、普通のひとびとは歴史的とされるものも、建設された時は現在のプロジェクトであった、というイマジネーションを持たないからである。現代建築もそのうち歴史的遺産となるであろうというイマジネーションを持たないからである。現在と歴史をつなごうという意志があれば、同じ視点、同じ言葉、同じ価値観で現在のものも過去のものも語れるはずである。しかし歴史的な価値というとき、それは現在から切断された歴史なのである。そこにあるのは失われたものの回復、という指向である。

 日本の保存は、近代化トラウマ、開発トラウマの裏返しである。経緯からそれは理解できるが、そこには展望はないであろう。たとえば日本の貧しい自治体は、なぜ最近できた現代建築の優れたものを、将来の文化財として育てていこうという視点がないのであろか。なぜ祖先が残してくれた遺産のことばかりをかんがえて、これから子孫への遺産を作ることを考えないのか。こんなことを考えたのは昨年、国交省主催のシンポジウムの司会を務めたことによる。地方の公共建築は、けっこう質が高い。50年メンテすればりっぱに遺産になる。じつは種子をしっかりまいているのに、その自覚がないように思える。これも建設行政=現在と、文化財行政=歴史が、タテワリ的に切れているし、市民においてもそうなのである。保存の専門家も同じようなものである。

歴史的に、文化を略奪の対象としてとらえてきたヨーロッパこそ、良くも悪くも、遺産や文化を語れるのであろう。略奪とはエルギンズ・マーブルのいような他国からのそれだけではなく、国家が王室や貴族から美術品を取り上げ、公共財にするという行為をも含む。ぼく自身は、「遺産」の概念において重要なのは「所有」の概念であり、この所有者が変わるから「遺産」なのであって、遺産相続の概念に近づけたほうがわかりやすいと考えている。たとえばフランスではすくなくとも17世紀以来、死後財産目録を記録して遺産相続に役立てる習慣があったが、文化財目録をつけるのもその延長と考えると、まったく自然に理解できる。

日本人の欠陥を裏返しにすれば、正しい道が開ける。歴史的価値は与えられるもの、とはもう考えないこと。現代建築の価値をつねに積極的に評価し、まさにそれが歴史にたえず付加されてゆくことで、自分たちの脳によって歴史的価値をつねに上書きし、豊かにしてゆこうと考えること。現代建築の価値を評価できなければ、自分たちのポートフォリオに追加される新たな遺産はない。このしごく当たり前の理論を、当たり前と思える常識をもつこと。すぐれた現代建築ができれば、いい遺産ができたと率直に喜べること。云々。

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2007.08.18

【書評】江副浩正『不動産は値下がりする!』中公新書ラクレ2007、朽木ゆり子『フェルメール全点踏破の旅』集英社新書ヴィジュアル版2006

 成城のメガネ屋までけっこう時間がかかる。車中で2冊斜め読みした。まず江副浩正『不動産は値下がりする!』(中公新書ラクレ2007)である。マイホーム購入指南書として書かれているが、首都圏の再開発、都心への一極集中、いわゆる「空間(=床面積)」のたえざる生産、フラット35だのJ-REITなど金融、などまじめに説明している、ある意味で教養主義的な文献にもなっている。空間、土地、床面積が生産されているとは、容積率の緩和、文化財の空中権(地上権の一形態)の移転、埋め立て、大学など大不動産所有者の資産運用、などにより、まさに空間が技術的というより制度的に増えることを意味する。こうした「空間」は市場原理により経済・金融に直結しているので、そこを理解しろ、という本である。具体的には低金利政策はそろそろ終焉を迎えつつあり、金利が上昇すれば、J-REITも利益を生まなくなる(もっともJ-REIT自体が、低金利時代のなかで比較的利率のよい金融商品であったわけで・・・)。だから金利が上がりますよ、不動産買うなら今ですよ、というならとくに目新しい指摘ではない。しかしむしろ逸話が著者の本音を語る。森ビルの森社長と学生時代からの知己であり、地域密着型のデヴェロッパーとして評価している。ある意味で正しい。さらにますます魅力をますニューヨーク、東京を評価する。これも正しい予測ではある。

 朽木ゆり子『フェルメール全点踏破の旅』(集英社新書ヴィジュアル版2006)は、数週間をかけて世界中の美術館を駆けめぐり、フェルメールの絵画を鑑賞するという企画にもとづいて書かれたものである。バブルの頃にあってもよかった企画であり、カサブルータスが建築特集をするのに雰囲気が似ている。芸術や建築が商売になる時代である。世界遺産現象とパラレルなのであろう。ただ著者がみずからジャーナリストとしての取材であると自覚しているので、良心は担保されている。絵画もまた政治やマーケットに支配されているので、ヒトラーや、アメリカのフリック財団のようなコレクターの意志により左右されたり、また宗教的な理由でイギリスのコレクターが集めやすかったなど、来歴の話がひとつの軸になっている。それとともに寓意と内面表現の関係など、わかりやすい指標で語られている。しかし絵画に「内面」が描かれているなどという仮説はいかにも白樺派的ではないのだろうか。問題はなにの内面か、という点である。そここが曖昧にされているので、いわゆる20世紀的な近代人が無自覚に前提にされているとしか思えない。

 二書に共通しているのは地球人としての著者たちのダイナミズムである。1970年代からくりかえし求められてきた地方の時代など永久にこないような気がする。

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東方旅行(014)ラバト

Dscn5792014)1987年12月13日(日)Rabat【移動】フェス→ラバト:鉄道だったような・・・【下調べ】ラバトからマラケシュは8:45発、所要1時間、76,50DH。【市内にて】強引なガイドもいなく快適。カスバ/メディナ/(フランス時代の)新市街地がはっきり分かれている。メディナの道もまっすぐ。ヨーロッパの道のようにキュービックな石で舗装されている。フランス人が関わった新市街地はそのメディナの自然な延長としてよくインテグレートされているDscn5796 印象である。/La Kasba des Oudaia:ウダイア族はアラブの1部族の末裔だが、スルタンにしばしば反抗したので追放された。その一部がラバトのカスバに住み着いた。・・・はいいのだが、住民全員が自称ガイドのように襲ってくる。とても耐えられない・・・

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【建築見学】Tour Hassanはとてもよい。この遺跡の経緯はあまりわかっていないらしい。Almohade朝Yacoub El Mansourが1196年に起工したモスクであったことは確かなようだ。世界最大のモスクとなるはずであった。彼はラバトを首都にしようとしたが1199年に亡くなった。工事も中断された。後継者たちはこの建物を荒れるがままに、あるいは建材を奪われるままにまかせた。さらに1755年の地震で大きなダメージをうけた。塔の高さは現在40メートルだが、計画では80メートル以上であったらしい。円柱は312本を数える。敷地の一角は現 在ムハンマド5世(独立直後に即位した国王)の霊廟となっている。現在アッサン2世の遺骸が安置されている。しかしこの円柱群は、なによりも場をつくっている。塔の求心力よりも、柱が形成する水平な広がりが支配的である。パリのパレ=ロワイヤルにあるダニエル・ビュレンのコラムを思い出す。大西洋、波高し。

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 Dscn5795 そのほかの建築、ガイドになく現地で発見したもの。モロッコ銀行。地上階はアーケードで、中央のアーチが印象的。両側のルスティカ積みの壁体が折衷的。ファサードはどうみてもパターン化したフランス新古典主義の枠組みのなかに、馬蹄形アーチだの細密な幾何学パターンなどを配置した、典型的なコロニアル建築である。古典主義的なコーニスが全体を支配している。

Dscn5799 それから町中の教会建築。双塔型のファサードで、パリのノートル=ダム大聖堂と同じ。強いていえばラバト都市門のペアの塔のようにも見えるが、このあたりは調べないとわからない。入り口ポーチは転用材の可能性がある。ドームは矩形平面。いずれも歴史的様式の建築を下敷きにして、それをRC造で近代化したものであることは明らかである。これは新市街地にあったと記憶している。

【宿泊】Hotel Saada:シングル、30DH。メハメド5よりメディナにはいってすぐ。

モロッコについて勉強(注:当時持参したフランス語の文献より。信憑性は疑問)【部族】モロッコにはさまざまな人が住んでいる。(1)ベルベル人:人口の2/3をしめる(注:当時持参していたフランス語版ガイドによる。実際は1/3らしい)。生活水準は高いとは言えない。(2)アラブ人:ラバト、カサブランカに多い。(3)les Fassis(フェスの):モロッコを支配している。(4)Les Rifains:(タンジェからMekuesあたりに多い)。(5)les Sousis.。

【モロッコ小史】仏語版ガイドによるモロッコ小史:(1)まずベルベル人がいた。彼らの起源はよく知られていない。(2)海岸地帯にフェニキア人がやってきた。(3)起源前5世紀、フェニキア人を追い出してカルタゴ人たちがやってくる。(4)ベルベル人によるモレタニMauretanie王国。(5)ローマ人の支配。紀元前2世紀から紀元4世紀。(6)そののちVandale人の来襲。(7)さらにビザンチンの支配。(8)705年頃、アラブ人による征服。ベルベル人はしばしば反乱を起こす。彼らの首都はマラケシュ。(9)アラブ起源のイドリース教徒の帝国。その後ファーティマ朝、ムラービト朝、ムワッヒド朝、マリーン朝、サアドが興亡。ベルベル人は反抗を試みるがおおむね安定。この安定はフランス人がアルジェを占領するまでつづく。(10)1844:フランスとの条約締結。アルジェリアとの分離。(11)フランスの植民地。(12)1956年独立。

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2007.08.17

【書評】小倉孝誠『近代フランスの誘惑』慶応大学出版会2006/「東方旅行」カテゴリーとも関連があるので・・・

 論文集である。著者は文学畑の研究者であり、文学作品をとおして時代を語るというスタイルである。第一章「欲望と放蕩の物語---バルザック『あら皮』を読む」。『あら皮』は拙訳したラヴダンも比喩的に引用していたので夏目漱石的作品のようである。欲望がかなうほど寿命が縮むという逆説がいかにも19世紀的である。葛藤が好きなのである。第二章「風刺の美学---フローベールの『紋切型辞典』の射程」だが、蓮実重彦がしばしば引用していたこの作品は、ぼくとしては普遍的メンタリティとしてのほうが面白いのだが。「建築家 みんな愚か者。かならず家に階段を付けるのを忘れる」のだそうな。日本ならさしずめ「かならず雨漏りさせる」だろうね。そのほかは個別テーマの猟捕といったところである。

参考になったのは第三章「オリエントの誘惑」と第八章「写真と東方紀行」である。フローベールとマキシム・デュ・カンのふたりは1949年に一緒にオリエントに旅立つ。エジプト、パレスティナ、トルコ、ギリシア、イタリアを2年かけて旅行した。フローベールは古典的な文学者/旅行者であり、デュ・カンは写真家(画家もどきとして)/旅行者であり、彼らが一緒だったということが面白い。小倉氏は、当時のオリエント紀行が一種の他者遭遇を経由する自分探し、文明からの逃避、歴史的変化をへたヨーロッパとはちがって無変化ゆえに古層を残したオリエントへの憧憬、といった位置づけをしている。

 ところでぼくは、ここに論じられているオリエンタリズムはやはり文学作品というフィルターをとおした限定的なものであるのは、やむをえないと思う。建築では18世紀後半からかなりスタディ旅行がなされているし、とくにナポレオンのエジプト遠征が軍事的より学問的成果をあげたことで、パリ市内はコンコルド広場のオベリスクはいうまでもなくエジプト風の噴水やさまざまな装飾で飾られた。パリはネオ・エジプトであったのだ。さらにいえばインドはどうなっているのだろう?東インド会社はもっとまえからあったし、イギリス人たちは18世紀後半からアジア協会などを設立して組織的にスタディをしている。オリエントを経由して建築の起源を探求する試みは18世紀後半からあり、いわゆる新古典主義の一部をなす。

フローベールたちの行き先がエジプト、パレスティナ、トルコ、ギリシア、イタリアであったという点がカギになるのではないか、とぼくは勝手に解釈する。イタリアは最終的な帰還場所であると思われるが、そのイタリアでさえシチリア、ヴェネツィアなどを考えてみれば、フランス的視線のもとでは、かなりオリエント的なのである。そう、地政学的にいってこれらは本質的にオスマン・トルコであった。19世紀までの東洋は帝国の時代であった。すなわち清、ムガール朝(1526-1858)、サファヴィー朝+ガージャール、オスマン朝(1299-1922)などと並べてみると、近代国家となったヨーロッパ諸国が対決していたのはオリエントの帝国であった。しかしすでにエジプトもギリシアもオスマン朝から独立していた。トルコ自身も1853年のクリミア戦争を契機に近代化、西洋化を余儀なくされた

 つまりオリエントの解体という事態がはげしく進行していた時代に、オスマン帝国のすでに失われた領域をなぞるように旅行し写真をとるひとびとは、たんに近代から前近代を見ていただけでなく、進歩から伝統の機械的繰り返しを見ていただけでなく、西洋文明の起源を見ていただけでなく、インド亜大陸のイギリス人たちがムガール朝の後継者を自認していたとパラレルなことはほんとうになかったのであろうか、という疑問は残る。あるいはすくなくとも「オリエント」という概念が分節化されていたのではないか、という仮説である。

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東方旅行(013)タンジェ、フェス

Dscn5785013)1987年12月12日(土)晴:Tanger→Fes:【移動】タンジェ→フェス。鉄道、315km、74DH。昨夜は寝付きが悪く、眠い。晴れときどき曇り。鉄道から見える田園風景はすばらしい。緑がきれいである。土、コンクリート+レンガの貧しい集落。農家。ゆるやかな起伏をくりかえす畑。この風景からは豊かさが連想されるが、あるのは貧困。土の家。中庭式。土の家は、ほとんどがベルベル人のものだとDscn5788か。【車中にて】モロッコ人には2種類いる。ガイドと称する貪欲な 人間。善良で親切な人びと。タンジェからのSSの列車ではモロッコ人家族と同席であった。父親はエンジニア。日本人も知っているようで友好的であった。【駅にて】Fesの駅で下調べ。Rabatへの列車。7:22発。236km。54DH。到着は11時ころ。【町にて】パリで事前調査したとおり自称ガイドがうるさくつきまとう。追い返しても結局、絨毯屋、賭博屋に連れて行かれる。絨毯屋ももちろんタフネゴシエーターだが、こちらもお金がないので、なんとか買わない。あの手この手の勧誘Dscn5789のらりくらりと答える。「お前は返答がうまい」とほめられる。勝手ガイドは、最初、報酬はボールペン1本でいいといっていたが、最終的にはマルボロと5DHとなっていた。これも経験である。・・・しかし昼間から堂々と「ミスター!グッド・ハシシ!」と大声で呼びかけてくるのは困る。それも子供である。【宿泊】Hotel Saboy:3人部屋。35DH。これはフランス版バックパッカーガイドGuide de Routardの推薦ホテル。【フェズ小史】808年にベルベル人の王朝の首都となる。13世紀、14世Dscn5781紀に発達。1981年に世界文化遺産登録。現在ストラスブールと姉妹都市である。私見によればストラスブールもゴシック時代に発展した都市であるので、同じ頃に黄金時代を迎えていたという共通性がある。ちなみにここも世界遺産に登録されている。【建築見学】Medersa el Attarine(英語だとMadrasa al-Attrin):1323年スルタンAbou Saidが命令、学生の寄宿舎として建設され、1325年に完成。Marinid朝のスルタンたちはスーフィーとのバランスをとるべくスンニ Dscn5777ー派の教義を推奨した。壁、柱、透かし窓などは、もともと宮殿的な造形だが、それを学校建築に適用したもの。中心部のスパイス市場の近くにある。今日でもフェスの大学のひとつ。中庭(豪華)、説教室、学生の修行部屋(質素)からなる。・・・マドラサは学校である以外に、地区のモスク、公的行事のためのホール、旅行者のためのゲストハウスなど多機能であった。これはよい。メディナはカオスであり、モスクとメデルサはコスモスである。コスモスを内包しているカオス、これがイス ラム都市である【感想】キリスト教の空間がつねに超越を目指すのとは違って、イスラムは細密画的空間を目指す?空間と装飾という二分法をつかうと、マドラサの壁面、スクリーン、柱頭などは装飾なのであろう。それは空間をとおして身体を規定しない。しかしイスラム的な世界観がそのまま反映されているとすれば、精神を規定する空間性が表現されているといえなくもない。平面がこまかくこまかく分節化されていくことこそ、イスラム的空間なのであろう。キリスト教的空間においてつねに「より高く」の声が聞こえるように、イスラムではひたすら分節化を目指す。しかしそれは小宇宙であるというより、見る者の精神の感受性をより高め、そこに大宇宙さえかいま見させようという指向が見られる。

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2007.08.16

【書評】大野芳材『フランス近世の美術』財務省印刷局2003

 大野芳材『フランス近世の美術』財務省印刷局(2003)である。4年前の出版だが、専門家による背伸びしていない解説であり、読んでいて安心感がある。

 美術を支えたメセナ、社会基盤、すなわち王、貴族、教会、ブルジョワジーから論じており、アカデミー、サロン制度、美術批評というジャンルの成立などから論じている。

 個人的に興味があるのが、17世紀中葉の教会である。すなわち1622年にパリがサンス司教区から独立すると、イエズス会、カルメル会などの教会堂建設が盛んになり、宗教画の発注が多くなったこと。この宗教画熱は1660年ごろいちど終わる。しかしナント勅令廃止ののちにふたたび建築熱+宗教画熱がおこる(57頁)。とくにカルトジオ会についてが詳述されている。マリ・ド・メディシスのリュクサンブール宮建設のために敷地を南下させた同会はウスタシュ・ル・シュウールに多くの宗教画を発注する(59頁)。なるほどこの世紀、おおくの教会堂が建設され、古典主義建築のなかに確固たる位置を占める。

 王室関係では、王の入城式(ぼくは「入市式」のようがいいと思うのだが)、宮殿での祝祭などが美術をリードしたというくだり、古典主義が作品をひとつの時に支配させようとしたこと、ブーシェ、フラゴナールらのロココ絵画が、動き、瞬間を絵にしようとしたことは、おもしろいのでもっとくわしく読みたかった。

 個人的な感想としては、新古典主義がだんだんつまらなく思えてきたことである。絵画もそうだし、建築もそうである。ブレもルドゥもアンビルトとして評価できるのであって、実現したらかえって興ざめであったかもしれない。

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【ノスタルジー】多摩ナンバーのビートル

Dscn5260_4  10歳のころから憧れの車であった。「ボーイズライフ」誌を読んで、というところがいかにもである。ビートルズの『アビイ・ロード』LPジャケットにも写っていたのが拍車をかける。購入したのは鷹番にあったフラット4(といってもサッカーのことではなく水平4気筒のこと)専門の店で。76年式。生産中止になる直前である。真のエンスーなら50年代ものを狙うのだろう。しかし身のほどを考えた。

Dscn5144_4 出自はドイツだが、リストアしてカスタマイズするのはカリフォルニア式だ。日本のビートル文化はアメリカ経由であった。だからサーファーが似合う。またロサンジェルスのガレージのなかからIT産業が成長したことを考えると、ビートルとPCは似た環境で育った(成熟した?)ともいえる。今ならパーツ選びを楽しみながら自作PCを組み立てるように、あーだこーだいいながら世界で唯一のマイビートルとするのであった。

Dscn5267 当初はサンデードライバーだった。奥多摩にも出かけたが坂道はつらかった。最長ドライブが立川/本郷。新宿でタクシーに接触したようなきがするが、むこうは気がつかなかった。もう時効である。こんなブレーキで首都高など走るものではない。日曜、丸の内を優雅に走る。転勤になったので、横浜港からフェリーにのり、関門橋をくぐって北九州に到着し、そこから福岡までドライブ。しばらくは通勤の足となった。軽が後ろからぶつかったが、傷ひとつ見つからなかったので、なかったことにしてあげた。

Dscn5257_3 福岡にもフラット4専門店があったのでリストアしてもらう。ブレーキ(まったく効かなかったので)、板金、インパネ、シート(グレーの色などわれながらセンスがいい)など、一新した。ドアに雨水がたまる欠陥も直した。タイア内側の白い塗装もデザインである。ちゃんと空調もつけた。

 結局エンジンがどうにもならない。大分自動車道の峠でエンジン不調となり、それからアクセルを床まで踏み込んで大分に着き、なんとか福岡にも戻ってきた。ギアは2速に固定。高速でこんな運転は命がけである。結局ゴルフに乗り換えた。

Dscn5264_2 かくも惚れこんだのに、けっこうあっさり手放した。今となっては純愛とでもいっておこう。それが純粋なうちに、汚れてしまわないうちに、美しい思い出としようという、自爆テロ的な愛の昇華なのであった~。

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2007.08.15

東方旅行(011-012)グラナダ、アルヘシラス、タンジェ

011)1987年12月10日(木)雨:セヴィリア→グラナダ:【移動】鉄道、セヴィリャ発7:45、グラナDscn9604_2 ダ着12:30。1695ペセタ。【宿泊】Hotel Don Juan。ドンファンだけあって?シャワー・トイレ付き。1400ペセタ。【建築見学】グラナダ大聖堂(1523~)は、交差部の脇にオルガンがある。断面はセヴィリャの大聖堂に似ている。身廊と側廊の高さは差がない。もともと起工はトレド大聖堂の建築家エンリケ・エガス(Enrique Egas)による。彼は後期ゴシックの展開を考えており、内陣をとりまく周歩廊は正方形のベイと三角形のベイが交互Blog001_3 にならぶ形式とした。それからここでも交差廊は突出していない。しかしセヴィリアはゴシックであったのに対し、ここでは細部は古典主義的。それもそのはず、シロエ(Diego de Siloe)による16世紀宗教建築の頂点とされたが、彼はブラマンテを尊敬し「ローマ風で」建設したかったのだ。しかしシロエは、1528年にここの建築家に指名されるや、周歩廊の5角形プランを10角形にかえ、巨大なピアをたて、そのうえにドームを架けた。すなわち教会内陣を、ローマ風のロトンダに変換しようとしたのであった。身廊は、柱は古典主義的なコリント式Dscn9600_2であるが、天井は網状のリブ・ヴォールトというハイブリッドなものである。さらに17世紀になると建築家アロンソ・カーノは新サラマンカ大聖堂をまねて、庇のようにせり出したアーチで正面をかざった。つまりツュエッカ(153頁)によればこれは「前方祭室」であり、建物本体の前面におかれたもうひとつの奥行きのない建物であって、アラブの水平で人間的なスケールにかわって、垂直で巨大なスケールをもたらすものであった。

012)1987年12月11日(金)雨:グラナダ→アルヘシラス→タンジェ:【雑用】手紙、スライド、絵はがきを日本に送る。【宿泊】宿泊費、食費をホテルに払う。2500ペセタ也。400フランを換金、7530ペセタ。グラナダからアフヘシラスまで鉄道で300km、1255ペセタ、12:45発。【雑感】スペインの印象。建築的に面白いとは思えなかった。ヨーロッパとイスラムの辺境でもあり、歴史的に、16世紀をのぞけば、冨の蓄積はそれほどなかった?大メセナもいたはずなのに、それを感じない。大理石や良質の石材はそれほど見られない。レンガは地中海的なもの。壁面も、レンガは薄っぺらく、モルタル層は厚い。ローマ時代の遺産というべきか。教会とモスクの対比。セヴィリャのようにキリスト教教会はたいへん大スケールで、人間的なスケールを超えている。それは神のスケールである。それに対しイスラムの建築スケールはたいへん人間的である。力の表現のようなものは見られない。モスクは人びとが集う広場のようなものである。しかし神は他の場所にいるかのようである。【移動】ジブラルタル海峡を渡る。船、アルヘシラス→タンジェ、20:00発。Bクラスで2550ペセタ。両替1000ペセタと300フランを415DH(ディラーム)。船中に人はまばら。季節ではないのだろうか。【宿泊】Tangerの宿。Pension Tan-Tan、「タンタン」である!17号室。二人部屋。水、オレンジ、甘味を買う。17号室は屋上テラスに面するペントハウス。テラスからは海が見える。

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2007.08.12

東方旅行(009-010)コルドバ、セヴィリア

009)1987年12月08日(火)マドリッド→コルドバ:【宿泊】Hostel ALHAKEN。一泊850ペセタ。シャワーなし。温水は出る。【状況】ここ一週間雨が続いている。列車に乗っているとき、空に晴れ間がみえた。しかしコルドバに着くとまた雨。

010)1987年12月09日(水)コルドバ、セヴィリア:【建築見学】メスキータ。大モスクは8世紀Dscn6284_3 以降。ウマイヤ朝時代のスペインの最も大規模な建物。ミヒラブのドームは、コンスタンティノポリスからや ってきた建築家がつくったそうである。塔はシリア出身の棟梁。モスク全体は、カイルーワンのモスクのように南面しており、メッカの方角を向いていない。一説によると、これは建築家がシリア出身である証拠であるそうな。つまりシリアからすればメッカは南である。レンガと石を交互に使うのもシリア風である。あれもこれもシリア風というところにウマイヤ朝の底力を感じる。内部は、柱とアーチからなる薄暗い海であった。この空間を縁取っているはずの壁面はほとんど意識されない。チュエッカはそれを「量子空間」と呼ぶ(『スペイン建築』SD選書、p.79~)。これは西洋的なパースペクティヴとは異なるものだ。そこには焦Dscn6279_2 点はない。つまり西洋的な極限、透視画法の構図は成立しない。再征服したキリスト教徒は、この薄暗い海の輪郭を破壊しようとはしなかった。そのただなかに教会堂を建設し、光をもちこんだ。水平なイスラムの空間のなかに、垂直なキリスト教の空間が交差する。そのコントラストを光がさらに演出する。ところで塔からの景色もよい。【その他】La Corredera squareでは下町、安バザール。

【移動】午後、セヴィリァに。鉄道で131km、565ペセタ。【宿泊】Pension-Cames。シャワー付。窓 Dscn9693_6 なし。1000ペセタ。【建築見学】セヴィリャ大聖堂(1402-1519)。もともとそこはアルモハド・モスクがあった敷地で、それをすべて覆わなければならなかった。教会でありながら、平面の輪郭はモスクをなぞっている。1401年に計画が決定され、140メートル×90メートルという平面を覆うこととなった。それで内陣へ一直線に空間が集中するフランスのゴシックとちがって、空間に軸性は弱い。内陣は主役ではない。交差部が空間の中心である。さらに身廊と側廊の高さがそんなに違わない。バットレスを外に出さず、その間のスペースを礼拝堂としているのはカタロニア風。もともとの聖歌隊席はデヴィリャのサン・フランシスコに似せた。ボリュームの扱いはトレド大聖堂風。ここでおもしろいのは塔から見下ろしたときの外観である。すなわち屋根がなく、ヴォールト天井の上面がそのまま見える。

 

Dscn9685_7 【考察】キリスト教建築とイスラム教建築はその出自において同根であり、混交しているが、あるていど別個に発展したのちにおいても接合可能であった。メスキータの場合は、同心円状、入れ子、などと形容できるであろう。垂直と水平の対比は鮮明である。しかし両者はむしろ無関係の関係であって、それほど交渉しているようには思えない。セヴィリャ大聖堂のほうが、平面はイスラム的、断面(架構)はキリスト教的であり、両者は混交している。

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2007.08.11

藤森照信論(6)迂回:カント、ダーウィン、ヴィオレ=ル=デュク、堀口捨己

 日本が猛暑であるなか、ぼくの議論はあまりに迂回しすぎるのかもしれない。しかし始めたものはそれなりに終わらせなければならない。なので、ぼくとしては藤森照信の赤派/白派という二元論を20世紀的枠組みに限定するのではなく、近代文明の根源に遡及させるために生気論/機械論という二元論と重ね合わせてみたいのであった。さらなる迂回として様式概念の検討をする。

たとえば19世紀折衷主義は、理想の時代を、中世なり古代ギリシアに定めた。目的をはっきりさせた。ゴシック様式、ルネサンス様式のなんたるかは研究によってはっきりした。その様式を目標として、現代の建築を設計する。これは目的論的であり生気論的である。しかし20世紀の近代建築運動は機械論的であった。アルゴリズム、プロセスが正しければ、それに身をゆだねればいいという考え方である。ただ必要のみを導きとして、機能的に設計するのがモダニズムというものであった。

しかしこの様式という概念もダブルスタンダードで解釈されるようになる。まずヴィオレ=ル=デュクは「定冠詞複数の様式」と「定冠詞単数の様式」を区別した。前者は歴史上のギリシア、ビザンチン、ロマネスクといった、相互に弁別的な様式であり、建築家はそれらのなかからあるものを選択することができる。これにたいし後者は、さまざまな要素からなる建築がひとつの統一された有機的全体としてなりたっているか、ということであって、それが成り立ち様式を有している建築と、それが性質していない様式が確立されていない建築が区別されるのであった。

ヴィオレ=ル=デュクの議論をぼくなりに延長すると、「定冠詞複数の様式」とは事前にカタログのように準備されたものであるから、目的論的であるといえる。いっぽう「定冠詞単数の様式」とは、建築ができあがってから、そうした統一性があるかどうか判断しなければならない。だとしたらこれは事後的に成立する様式である。

ダーウィンは、突然変異と適者生存、きままにおこる誤記、変異が、そののち環境に合致するかどうかで生き残るかそうでないかが決まり、こうした生き残った変異の総体が、進化である。すなわち数十万年のちの進化した種を設計図に書いてそれを忠実に遂行しよう意志はどこにもない。だからこれは機械論的である。しかしその結果、目的がさもあったかのような現象が生じる。それが進化である。

この理論は建築にも応用された。建築は、無名の職人が、代々、諸条件と機能にしたがいながらすこしずつ改良を加えた結果、事後的に、結果として様式を生むのである。このとき、建築に応用されたこの進化論は、その無名の職人たちが事前に様式のイメージを所有していたという前提はとらない。これはある意味で当たり前である。なぜなら建築のさまざまな様式は、19世紀の建築史研究の結果として確立されたものであって、その建築を製作したひとびとは19世紀の人びとの歴史観を先取りして所有していたのではない。

堀口捨己は「建築は事物的な要求があって工学技術が高められた感情の裏付けをもって解決し充たすところに生ずると思うのであるから、建築設計の前には様式はないのである。しかし建築の後にその形は何らかの様式をもつのであろう。それゆえにそれは『様式なき様式』である。」(『家と庭の空間構成』「様式なき様式」11ページ)と書いている。様式はあくまで事後的に発生する。それは人為ではない。いや人為の結果が、人為を超えるという奇跡なのである。イデアとその模倣、ではない。もういちどいいかえると、まず建築の設計は、合理的な機械論的なプロセスである。そこに「高められた感情の裏付け」とあり、堀口がどういう意味を込めたとぼくが解釈するかは今のところ保留としたい(まわりくどい言い方である。ようするにわからない。既存の説明に納得できない)。しかしひとたび建築が立ち上がると、様式をもつのである。つまり様式は目的ではなく、結果である。しかしもし様式とは、さまざまな物質と形態とデザインの総合であり、その有機的統一であるとするならば、結果としてのみ統一が確保される、ということになる。だからこれは奇跡である。

 こうしてみるとヴィオレ=ル=デュク、ダーウィン理論の建築版、堀口捨己の緒論はカントの「目的なき合目的性」にきわめて隣接しているといえよう。つまり目的論(生気論)と機械論は、厳密には、どちらも単独では成立しないのである。

 ここで仮説をいえば、近代建築とは生気論そのものでもなく、機械論そのものでもなく、まさに生気論/機械論の矛盾の統一なのではないか?機能主義イデオロギーによれば、いっさいの恣意性(作為!)を排して、ただひたすらに必要性を追求すると、建築の美が生まれる。しかし実際は、建築のプログラムとして、国家的偉容、万人のためのハウジング、衛生健康、文化の普及といった政策的目標はつねに明確であった。しかし建築家たちはその手続きにおいて、発展したテクノロジーに身をゆだね、あえて恣意性を排除することで、時代精神という背景が憑依することを期待する。すなわち主体が機械的であれば、それだけ超越的な目的がとりつきやすい。むしろ憑依の基体であろうとするための恣意性の排除なのである。だからこれを別の言葉でいえば、二元論の克服なのである。その克服こそが近代のプロジェクトであったとしたら・・・(つづく)

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2007.08.09

東方旅行(007-008)エル・エスコリアル、マドリッド

00719871206日(日)エル・エスコリアル:【移動】マドリッド・アトーチャ駅からエル・エスコリアルまで鉄道、60km265ペセタ。入場料300ペセタ。建築見学エル・エスコリアル。16世紀後半、フェリペ2世のため、ホアン・バウティスタ・トレドとエレーラが設計・建設したもの。教会は、ギリシア十字平面で、中央にドーム、石は安っぽい。パンテオンは王の墓。図書館にはアラブの文献、地球儀、天Dscn9699_2 井画(文学、音楽、数学、幾何学、天文学のエンブレム)。正面ファサードはドリス式、イオニア式の二層構成。誤ってイエズス会式と呼ばれているファサードである。比例はよいが、メリハリがない。花崗岩は古典主義にはあわないのだろうか。---『ウィトカウワへの献呈論文集』のなかでルネ・テイラー(Rene Taylor「建築と魔術:エル・エスコリアルの構想にかんする考察」を寄稿し、フランシツ・イエイツの助力も借りつつ、この宮殿が神秘主義、ヘルメス主義的な発想で満ちていることを述べている。フェリペ2世の庇護をうけた建築家エレーラは、ルルス(13世紀から14世紀にかけて活躍したカタルーニャの神秘主義者)の影響をうけてヘルメス主義を信奉するようになった。膨大な蔵書のなかには、ヘルメス・トリスメギストゥス、プロティヌス、ピタゴラス偽書などの古代の著作、ピコ、フィツィーノ、ジョン・ディーらのルネサンスの文献があった。これらはイエイツらもしばしば解説している。そしてエレーラは、ウィトルウィウス建築書といった芸術を魔術的に解釈するようになる。ヴィラウパンドゥスのソロモン神殿復元図、ウィトルウィウス的人体、やはりウィトルウィウス描く劇場など、の図式が含まれているという。なぜかくまで意味が込められるかと いうと、このエスリアル宮殿は第二のソロモン神殿であり、なぜならフェリペ2世は現世におけるイエルサレム王ソロモンであるからであった。その意図を強化するために、宮殿の平面にはフェリペ2世が誕生したときの星の配置が反映されている。----コテコテの新プラトン主義的視線からのDscn9697_2 解釈であった。70年代、たしかにそれは建築解釈の思潮であった。こうしたことの余韻が残っていた時代に建築を勉強したので、それなりに興味があった。だからわざわざ訪れた。しかし現地にたたずむと、空間的にも装飾的にも感激がない。その時点ですでにノスタルジーとなっていたということか。あるいはその流行にかぶれていたぼく自身の記録ということになるのだろうか。【感想】スペインはまったく面白くない。まずローマ的偉大さがない。ヨーロッパの辺境、かつイスラムの辺境。レストランは安くはなく、おいしくもない。酒は安くておいしい。【移動】鉄道でマドリッド・アトーチャに戻り、王宮と博物館を見学。とくに面白くもなく。

00819871207日(月)マドリッド:【ヴィザカード】で2万ペセタ引き落とし。アルジェリア大使館にパスポートを預け、ヴィザを支給してもらう。【建築見学】王宮。18世紀のもので、ベルニーニのルーヴル旧案を踏襲したもの。階段室、チャペル、中国風装飾の間。いくつかの教会堂、とくに面白くもない。コルドバまでの切符2500ペセタ也。

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2007.08.06

1976年5月:学園祭

070806_2  

これは1976年の学園祭でつくったものである。ようするになにかというと、建築学科の校舎のために、いつもとは違うアプローチを準備しよう、というただそれだけのことであった。当時、建築では動き、軽さ、浮遊へのイメージがつよく学生や建築家を支配していた。建築でいえばアーキグラムなどの前衛を、反体制ではなく、むしろ現実への無頓着という文脈から受け入れようとした心性をあらわしている。サブカルでいえば庄野真代の《飛んでイスタンブール》とか久保田早紀の《異邦人》(1979)とか、柳沢きみおの《翔んだカップル》とか、類似現象は多い。いわゆる「命がけの跳躍」ではない、ましてや異議申し立てではない、柔らかくかろやかな飛翔なのである。地面から遊離したデッキはそういう意味である。さらに建築はプランでも機能でもない、アプローチなのだ、などと高踏的なことを語り合った。校舎前の大樹を半周するデッキをもうけ、そこから一直線に校舎2階の窓から入館してもらう。窓は小さく、しゃがまないと入れないので、茶室の躙口のつもりなどとほざいていた。それもこれも、浮遊、アプローチ至上主義である。

だれが発案者であったか忘れたが、ぼくも中心人物のひとりであって、コーディネートなどに尽力した。とくに土木の学生はかなりこれに反対し、交渉も大変であった。このころから土木(今の社会工学)=風流を理解できない人びと、という偏見はここにはじまった。ただ粘り強く説得したので、友人たちからはあとで喜ばれた。

建築は機能でもプログラムでもない、たんに社会に貢献するなどといった単純なことでもない、ましてや国策に荷担するのでもない、しかしとりたてて反体制を叫ぶのでもない、建築は建築であってそれ以上でもそれ以下でもない、などという今となっては例外的としか思えない70年代の空気をよく反映している。昨今の動向、つまり世界遺産、文化遺産、景観、文化財保存などはネオ・リアリズムとでも呼べるのだろう。正義にむかって一直線であるが、その基盤を問いなおす時期はもっと先であろう。それとはちがって70年代はたしかに夢を見ていた。現実に根付かないことを自覚した、確信犯的な心情になりたった、もろい、はかない夢ではあったが。・・・それにしてもよくこんな写真をもっていたものだ。ただしネガを探す気にはもうなれない。

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2007.08.04

ジョルジョーネ《ラ・テンペスタ》に描かれた円柱

ケネス・クラーク『風景画論』でこの絵画に触れているが、いわばおそらくポリフェロの奇想詩に着想をえた無主題の風景画であって、賢明な批評家ならなにも言わないことだと警告している。だからアカデミア美術館で本物を見るためにはとくに予習はしなかった(2006年7月)。

しかし人物も建物も意味があって存在し描かれているようだ。漠然と、「不安」がテーマであることは知っていた。周知のように、遠くに稲妻が空を切り裂いている状況で、左の男性も、右の女性も、おなじ一枚の絵画のなかにありながら、おたがいに無関係、無交渉のような位置づけられ方をしている。あたかも「不安」は共有されえない感情であるかのように。そして女性の眼差しは訴えるように鑑賞者に向けられる。これは語りかける言葉があるうえでの訴えかけではなく、「不安」が鑑賞者とも共有できないような、自分一人が絵画のなかに閉じこめられていることそのものを訴えているような眼差しのように感じられる。

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セティス『絵画の発明』(原著1978、翻訳2002晶文社)のなかで「図像定型」すなわち類似した図像の系譜のなかに位置づけることでその主題を明らかにしようとしている。G.A.アマーデオの浮彫《神によるアダムとエヴァの懲罰》では、左にアダム、右に子を抱くエヴァ、そして中央に彼らに警告を与える神が描かれているが、この擬人化された神を稲妻におきかえれば、ほぼ《ラ・テンペスタ》の構図になる。そして稲妻は、古代においてはユピテルの、ルネサンス以降においてはキリスト教の神、あるいはその神の声を意味する。これらから彼の結論は、《ラ・テンペスタ》は原罪を背負ってしまったアダムとエヴァの、死に向かう未来、その運命の自覚と不安を描いているというものである。エヴァに抱かされ子供カインでさえ、本人は無自覚であるとはいえ、やがて兄弟殺しの罪を背負う運命にある。

ここで建築として興味深いのは、折れた円柱という廃墟のエンブレムである。ここでもセティスは図像定型の豊かな系譜を披露して読者を納得させるの。まずソロモン神殿のなかに折れた円柱にまつわる物語が紹介される。カール・ルートヴィヒの『キリスト教の象徴』で、尊大なものが、精神的な強さが、たとえば稲妻に直撃され、挫け、挫折する、それが円柱に託される。雷に打たれてまっぷたつに折れる円柱は、挫折、死をあらわす。そして彼はさまざまな類例を引用しつつ、「死によって絶たれた生命」、ポリフィロの愛のために死を選んだ者たちが眠る墓地、異教徒の死、個人の死、「原罪」にたいする懲罰、などと円柱のさまざまな意味をつむいでゆく。ここでも結論は「二人に挟まれた二基の折れた円柱は、人間の生の筋書きのなか----労働の苦労と出産の苦痛を伴って----入り込んでしまった「死」を表すエンブレム」なのである。

 柱が二本なのはアダムとエヴァのふたりという意味なのか、二本の高さがすこし異なっているのは男女を区別したのか、というところまでは論述していない。白い色であることが、エヴァが肩にかけている白い布と、アダムのシャツの白を結びつけている。構図としては、近景にはふたり、中景には柱=死、遠景には無人のイエルサレムとしてのエデンである。ここは廃墟ではない。ただ無人である。そしてエデンと彼らの間にあるのが、廃墟、折れた円柱、原罪による死、なのである。

  ここで気づくのは、この円柱は古典主義のオーダーとしてはスタイルのないもので、このような簡素な柱基は建築とはいえない。しかしセルリオが舞台の書割として区別した3種類のどれかをつよく意識しているとも思えない。つまりジョルジョーネの建築的教養は、建築家たちのそれとはまったく次元が違うようだ。

 ジュリオ・ロマーノが建設した《パラッツォ・デル・テ》にも、崩壊する円柱の下敷きになろうとする巨人族の壁画(1530年代)があり、中庭には切断されたアーキトレーブと、それにより下のずれたトライグリフがみられる。それらは建築オーダーの意味を知っているがゆえに可能な、意味の転倒がある。同様な転倒は、庭園の四阿にもしばしば見られる。しかしそれらは例外だから歴史に残ったのであって、転倒された意味というより、意味の転倒の行為そのものにまさに意味があるようなものだ。

《ラ・テンペスタ》の壊れた円柱にはそうした転倒の意識はないように思える。挫折、原罪、死をきわめてストレートに意味している。

 070804_2 それにたいしてティツィアーノ《カール5世》(1548の背後に描かれている円柱は、オナイアンズ『建築オーダーの意味』によれば、「力強さ」「光沢」「高さ」を表している。安定をもたらす堅固な基壇を背景としている。私見によれば、下部しか描かれていないとはいえ当然折れていない力強いコラムであり、その柱基はきわめてオーソドックスなアッティカ式である。フルーティングがないのでトスカナ式ということなるが、実際にある柱の描写はないので、決められない。しかしすくなくともティツィアーノは意図して、認識して、アッティカ式を選択したと思いたい。

 ジョルジョーネにもどると、彼の建築理解はまだ専門家的レベルではなかった。《ラ・テンペスタ》の年代も専門家は決めかねているようだが、155-07年頃とするのが一般的である。おなじヴェネツィアを活躍の拠点としてセルリオが建築書を出版しはじめたのが1537年であるから、すくなくともセルリオをとおして知識を得ることはできなかった(ティツィアーノの《カール5世》は1548だから可能であった)。しかし建築の知は、当時にあってはきわめてフィレンツェ的、ローマ的でもあった。だとすれば円柱の擬人化についての理解は、図像的、絵画的、象徴主義的なレベルがまずあって、それとは別にウィトルウィウス的、アルベルティ的、ブラマンテ的なレベルがあったと考えるべきであろうか。

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2007.08.03

ティツィアーノの《聖母マリアの神殿奉献》:パノフスキー『ティツィアーノの諸問題』とジョン・オナイアンズ『建築オーダーの意味』を比べて読んでみる。絵画としての建築、建築としての絵画。

 2006年7月ヴェネツィア。ぼくは大学のミッションで出張していた。ついでにアカデミア美術館にも立ち寄った。気になる絵画があったからだ。いわずとしれたジョルジョーネの《嵐》とティツィアーノの《聖母マリアの神殿奉献》(1534-38)である。とはいえ当時の持病がずっと悪化傾向にあったが、ヴェネツィアというカンフル剤のおかげでなんとかもっていた。破局は帰国してからということとなるのだが。

 絵画を専門的にも体系的にも勉強したことがないので、美術館では絵画との格闘でくたくたになる。稲妻=ゼウス、鏡=虚栄、時計=時間、鍵=聖ペトロ、などとたまたま脳に残っている断片的な知識をもとにイコノロジー的解釈を試みていると、結局だれか権威に依拠せざるをえないのではないかと弱気になる。これが建築だと、通説とは異なる解釈をあえてするぞ、などと意気込むのではあるが。アカデミアでは展示の最後がティツィアーノの《聖母マリアの神殿奉献》になっており、階段に腰掛けて、ほとんど放心状態でしばらく眺めることになる。既存の部屋に描かれた壁画なので、絵のなかにドアが食い込んでいるかっこうである。このドアの両側には卵売りの老婆と古代トルソが描かれている。この両者に挟まれたドアから出ることの意味を解説した文章はまだ読んだことがない。

070803_3

 ところでジョン・オナイアンズ『建築オーダーの意味』(中央公論美術出版)のなかでこの《聖母マリアの神殿奉献》をくわしく説明している。オナイアンズはつぎのように説明する。建築家セルリオが、ティツィアーノにかなり影響を与えており、その絵画の建築的要素にはその反響が見られる。これはマリアを描くための枠組みに背景としての建築を使っている、その使い方にある。まずマリアが上っている階段は人生の象徴なのであるが、『黄金伝説』によれば彼女は13歳まで神殿のなかにとどまっていたように、階段は13段からなる。つまり1段が1年である。マリアは8段を上りきり、踊り場におり、9段目に足をかけている。ここで背景の円柱もまた、おなじことを象徴している。すなわち彼女は背景にある7本の円柱の前をすでに通り過ぎていて、8本目からまさにぬけだそうとしている。マリアはまさに9本目の円柱である。背景の8本目の円柱もまた、ある意味でマリアそのものであり、なぜなら両者のシルエットは曖昧に解け合っている。列柱は柱のつらなりであることに意義があるように。

 オナイアンズはさらに絵画右下の粗石積みとトルソにも言及している。ルスティカ積みすなわち粗々しい石積みは、力と権威の象徴であり、またすでに廃墟のエンブレムであるが、雑草が生えていることが念をおしている。さらにこのトルソは衣装からすればローマ皇帝か将軍なのであることは自明である。これもまたセルリオが古代ローマ建築をあつかった第3書からの影響である。すなわち権威に満ちた力強いローマ時代はすでには廃墟として過去のものとなっている。時代はすでにキリスト教のものとなりはじめている・・・・という解釈である。

ここで思い出すべきはパノフスキー『ティツィアーノの諸問題』(原著1969;翻訳・言叢社2005)における同絵画の解説である。彼もまた、絵画全体の構図についてはセルリオの舞台デザインからの影響を指摘しているのだが、図像学的分析としてはむしろ別のものに力点をおいている。まずトルソはギリシア、ローマ時代の象徴であり、律法以前を示している。オナイアンズが対象としなかったのは卵売りの老婆である。パノフスキーによれば、風貌と衣装からすれば老婆はあきらかにユダヤ人であり、しかもこの商人が祭儀には必要とされない卵を売っていることは、ユダヤ教は生きてはいるがもはや主要な存在ではないことを意味している。そしてトルソも老婆も、神殿奉献という主たるできごとが発生している場所の外側に置かれているにすぎない。すなわち古代の異教は過去のものとなり、ユダヤ教も傍系となった、キリスト教の勝利である。

パノフスキーの図像学的な分析を前提として、オナイアンズは論を進めていることは明らかである。パノフスキーが扱わなかった、階段や円柱の図像学的解釈はさらに展開するが、しかし老婆への言及は注意深く回避している。パノフスキーは、絵画構成のなかでマージナルな扱いをうけているもの(トルソ、老婆)の意味を際だたせることで、むしろ主要テーマを浮き彫りにしようとしている。いっぽうオナイアンズはその主要テーマそのものを、建築的なイコノロジーにより、解釈しようとしている。

『諸問題』においてパノフスキー自身が図像学的アプローチと様式的それとのバランスを説いているように、訳者あとがきでも、図像と様式の相互関係があるいはそれらの葛藤が描かれる。パノフスキーはティツィアーノにおける「純粋色彩」の発見をことのほか強調する。絵画を図像のシステムとして解釈してゆくとき、絵画は哲学、思想、慣習、などのさまざまな系の網の目に浮かぶものとなるだろう。そして他律的に解釈される。しかしこのヴェネツィアの画家が到達した「純粋色彩」が、ほんとうに近代に成立した「純粋絵画」の先駆けであるとしたら?訳者は、このイコンの深淵と、純粋絵画への希求が、このヴェネツィアの画家のなかで交接しているとするのであるが・・・

いっぽうでオナイアンズの『意味』はまさにこのイコンの深淵を建築のなかに見ようとしている。その意味の積層と厚みや深みを描くことに成功している。いっぽうで、彼はとりあえず純粋建築などというものはまったく念頭においていないようである。むしろイコンの変遷であり、それを古代からルネサンスまで追体験することで、歴史的一体性をもった建築という宇宙を構築しようとしている。

ここで二つのことが指摘できる。まずイコンの体系としても、絵画と建築は異なるのではないかということ。建築オーダーにもウィトルウィウス以来の図像学的意味があったが、そうした建築書の伝統の中で確立された意味の体系と、絵画に描かれた建築の意味体系はそれほど整合していない。画家がインテリであり建築書も読み得たということは部分的にしか発生しないのであろう。さらにオナイアンズは建築をイコノロジー的に解釈することを目的としながら、まさにティツィアーノの絵画のような作品を、一種の建築として、ヴァーチャルな建築として分析している。建築書の宇宙と、建築のそれは、もちろん重なっているとはいえ、まったく別物だということである。さらには建築としての《神殿奉献》はまだ絵画史のなかに位置づけられていない。

もうひとつはイコン的底流/純粋可視性(ヴェントゥーリ)という相克が近代にもみられるという訳者の指摘はそうなのだろうと、建築畑からの同意はできるのだが、しかし建築にはそのままでは適用できないというあたりまえのことでもある。上にパノフスキー解釈とオナイアンズ解釈を比較したが、両者はそもそも前提が異なっている。パノフスキーはティツィアーノにおけるイコン/純粋色彩の諸問題の総体を論じているのにたいして、オナイアンズはイコンの重層としての建築である。いいかえればそもそもパノフスキーはかれなりの絵画のイデアを、オナイアンズは建築のイデアを論じている。両者は交差しない。

建築が外部依存的であり文脈依存的であることは当たり前である。しかし建築家の探求は、そうした他律的な実務の積み上げのなかに、まさにそのなかから、自立的な建築のイデアが発生せざるをえないというパラドクスのなかにある。そうした点では画家とそれほど異なってはいないはずだが、しかし、その純粋建築の立ち上げメカニズムはかなり異なっているような気がする(継続テーマとする)。

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