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2007.07.07

藤森照信論(4)パラドクス:縄文建築団も野蛮ギャルドも手作り的ではなくじつは機械論的だとしたら

銅板で屋根を葺くときに、いちいち手でさまざまなかたちに曲げて伸ばして葺いてゆく。それらのカーブは、異なる人がことなる状況、ことなる時間にこしらえたものであり、同じプロセスはひとつもない。これらで覆われた屋根はえもいわれぬ味わいをもたらす・・・。これは機械による大量生産とは対極のものだ。手の固有性、手がすべてに差異を与えてゆく・・・・。でもそれが機械論的だとしたら?

藤森の学系からすればアーツ・アンド・クラフト、職人技能を支持する立場である。いっぽう、いわゆる近代建築史は、ペブスナーが手作りと機械生産の葛藤を中心軸にすえ、ギーディオンが機械化の進歩として描き、バンハムが『第1機械時代』を賞賛するなど、機械イメージが支配的であった。しかしこの機械イメージと、いわゆる機械論は同じだろうか。ぼくは違うと思っている。この違うということを前提に、論を発展させたい。

いささか講座的だが、機械論をまず辞書的に調べる。すると機械論という言葉そのものが誤解を生みやすいことに気がつく。つまり機械論のモデルはかならずしも時計や内燃機関といった古典的機械そのものではなく、宇宙、自然、身体、有機体だからである。

まずデカルトは力学的法則のみが宇宙全体に適用されると考えたが、その宇宙には天体も石ころも有機体も含まれるはずである。ウイリアム・ハーベーの血液循環論は身体をポンプとチューブと液体からなる機械として理解する。デカルトが動物機械説にとどまったのにたいし、ラ・メトリは人間機械説を唱える。このようにまず出発点から機械論と機械イメージはまったく次元が違う。

ダーウィンは個体差(のちにはド・フリースのいう突然変異)と自然選択によって種が淘汰されるという進化論を展開したが、ランダムな個体差の発生、それと環境との適合/不適合によって種の、目的に向かう進歩ではなく、機械的手続きの総合としての進化を説明した。つまり機械論的である。このことは茂木健一郎と米本昌平が対談(『図書新聞』2819号、2007年4月28日)のなかで指摘している。機械論の支配が、生命や意識の問題を解明することを難しくしていると。

ゼンマイ+歯車からなる時計をモデルとする機械イメージは、まったく同一なものを生産し、かんぜんに法則的であり、結果の同一性、正確さを失わないというイメージである。しかしこれは個体を説明するための限定的なイメージであって、現象の複雑さは説明できない。そこで複雑系などということになるが、ここではそこまで高度なことにふれる余裕はない。

ようするにランダムさ、偶然性、を生むのも機械的ではないか、ということである。すなわち実際の機械もまた現象のなかの一部であり、ランダムさから逃げられない。完璧な機械は理念のなかにしか存在しない。

縄文建築団にように、素人の未熟な手作業がさまざまな痕跡を生む。これは未熟練職人の手技であり、意図的なランダムさである。熟練職人はイデアをもってそれにしがって創作する。未熟練者はそのイデアさえ所有していないのである。だからそれはパチンコ玉をまっすぐ落下させてもけっして同一の地点で止まることはないように、重力の法則に従いつつ、ランダムな挙動を見せる。一種のカオスである。

それは進化論の突然変異のようなものである。これは機械論的なのである。つまり藤森の設定した目的、彼がスケッチした造形という目標にたいし、こうした未熟練職人の技は、洗練、概念、調和といったあらかじめ設定された抽象概念にはおさまらないで、勝手な解釈をし、しかも手はつねにそれを裏切りつつ製作する。

職人の比喩をつづければ、熟練した職には制作物の到達点をあらかじめイメージして、それに到達するよう製作するからこれは生気論的である。これにたいして未熟練職人は、そもそも完成図をイメージできていないから、いくら指示されても、最終的には機械論的なノイズを鳴らしているだけである。しかしこの後者を積極的にかつ戦略的に評価しているのが藤森なのである。

 だから縄文建築団は、アーツ・アンド・クラフトとも民芸ともかんぜんに切れている。

 さらに藤森と縄文建築団のあいだには、共鳴しつつつねに相互に裏切るという、高度な共同関係が成立しているのではないか。つまり縄文建築団には、藤森の意図にしたがうとはいえ、あばれてほしい。あらかじめ予測できない不規則性を提供してほしい。裏切ることで、期待にこたえてほしい、という逆説。そのあばれによって芸術的質が向上する。しかしその向上のしかたは最初からコントロールできない。ランダムだけれど、そのランダムさが蓄積されてゆくと自然に方向性が見えてくる。藤森は、あえてコントロールを外しながら、しかし眼力によってその収束先を見極める。

 こうした意味で、縄文建築団は、全面的にではないにしても、ある一面において、機械論的なのである。ダーウィン的なのかもしれない。この仮説は、建築史の解釈に新しいパースペクティブを与えるであろう。(つづく)

参考文献:

・藤森照信『野蛮ギャルド建築』TOTO出版、1998

・藤森照信『藤森流自然素材の使い方』彰国社

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