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2007.07.05

藤森照信論(2)「路上観察学会」と「熊本県立農業大学校の学生寮」のぼくなりの解釈と位置づけ

 二元論については準備中であり、後日、ふたたびふれる。

 藤森は生年からして全共闘世代であり、学生運動との関連がどうだったのかは後の世代としては知っておかなければならない。もちろんそれに言及されることに拒否感を示すひとも多いので、ひょっとして非礼なことかもしれないと自覚しつつ、である。

 彼自身が書いていることだが、学生運動やデモには参加する意志はなく、自宅で悶々と読書にふけっていたそうである。もちろんそれに負い目を感じたりする結果となったであろう。同世代人のあいだで、デモに参加したしない、運動にたいしてどうかかわったかは、人間関係か相互意識に深い刻印を残すことになったということはよく指摘されることであり、彼のトラウマのひとつであっても責められない。

 当時、寺山修司がつくった「書を捨てよ、町へ出よう」はそのコンテンツ以上にキャッチコピーとして衝撃があった。それは商業主義的云々ではなく、そのフレーズを読んだだけで、内容を誤解していようが無理解であろうが、だれもがそのメッセージ性を受け入れることができた。いや寺山の真意を知る以上に、そのコピーのなかに自分のあらゆるものを投影できるような気がした。

 藤森は書を捨てず、自宅で耽読をつづけ、同世代人たちが町へくりだすのを傍観していた。当然、そのことについて直接避難するような人がいたって当然な時代である。

 ここまで書けばすでに読者は完全に理解したはずだが、藤森の路上観察学とは、彼なりの「書の捨て」方であり、「町へ出」方なのである。しかも運動家がしばしば「ナンセンス」を否定詞として好んだように、彼が路上で探す対象は、使われなくなった、本来の用途を満たさなくなった、意味を剥奪されたモノたちであった。つまり路上観察学とは藤森にとって裏返しの学生運動であった。

 いっておくが、この場合、藤森本人がそれに意図的であったとか自覚的であったかとは意味がない。どうでもよろしい。だからご本人にはまったく責任のないことである。これは第三者の観察者としての特権で指摘していることである。歴史的解釈とはそういうものである。

 デモや群れることを彼は、思想的というより生理的あるいは体質的に嫌悪していたのではないか。そう思ったのは、彼の書き物を読んだからではなく、彼が設計した熊本県立農業大学校の学生寮を拝見して記事を書いたからであった。その食堂には、当時の現代建築のある潮流を反映して、柱がランダムに乱立していた。記事では、森のメタファーをつかって大衆読者に迎合したのであったが、しかしここには彼のトラウマが反映しているように思えた。つまりこの食堂は、柱とそれがもたらす視角が多く、学生集会にはきわめて不向きである。昔、そんなことをすこし指摘した。下に記事を再録したので、読んでいただきたい。

 柱が乱立するこの食堂は、トップライトもあり、空間としては意識や目線が上昇するような性格をもっている。数人のミーティングならできそうだが、数十人の討論には柱が邪魔である。森のようなという優しさに隠れて、意固地な拒否のポーズが見え隠れするのである。

【再録】

森としての癒し空間----新しいアマチュアリズム(2001年2月:毎日新聞西日本版夕刊文化欄掲載)

 熊本県立農業大学校の学生寮が竣工して一年後、やっと見学に訪れた。設計は藤森照信氏。彼は建築史の学者であるが、建築と植物の共生をテーマにした「たんぽぽハウス」や「ニラハウス」、あるいは福岡市内の「一本松ハウス」などもすでに建設している。

 あいかわらず素朴な土着的な素材を使い、手仕事の痕跡を残すためにわざと仕上げを粗くするなど、いつもの藤森調は健在である。

 この寮では、一〇部屋ほどを一棟にまとめそれを単位とし、それらを四つの中庭の周囲に配置し、廊下で結んでいる。面白いのはそれぞれの棟のかたちである。学生寮だから棟割長屋のような形とするのが自然と思われるが、それぞれの棟は、三角形のいわゆる妻壁を外に向けている。軒先があるいわゆる平(ひら)側ではない。自然だと思われる屋根を、九〇度回転させている。

 おそらく起伏に富んだスカイラインを見せて、阿蘇山という遠景に溶け込ませようという配慮であろう。しかし、これは偶然かもしれないが、大きな両流れの木造でありながら妻入りである戦前の「前川國男邸」を髣髴させる。この住宅では、輪郭は日本的であるが、内部空間の方向を九〇度回転させることで、まったく新しい空間が生まれている。この住宅について論じている藤森氏が、おなじ構図をこの学生寮で繰り返したと考えても不自然ではない。

070705  大食堂もそうである。おなじ家型の断面がリニアに続くのではなく、天井の中央が高くなったこの空間は、崇高な印象すら与える。それを強調しているのが、ランダムに配置された木の柱である。厳密にいえば無秩序ではなく、梁や窓間壁のラインに沿っているし、テーブルが均等に並べられるよう配慮されているが、そこかしこにバラバラに立っているように巧妙に配列されている。それぞれの柱は、木の幹をそのまま移してきたかのようである。完全に製材されているのではなく、断面の丸みや幹のカーブが残されており、照明ランプを垂らすための枝もどきまで付け加えられている。

 メッセージは明快である。「森」のイメージである。修道院に見立ててつくられた学生寮であるというが、教会堂もまたヨーロッパの原風景である森を建築として再現したものである。だからこの大食堂に封印された森のイメージは、さらにその異なる再解釈ということになろう。

 ところで柱をランダムにならべる手法は、じつは最新の流行でもある。民芸派とでも呼べる彼のアプローチのなかに、最先端のデザインとの接点が隠されている。

 それは良い意味でのアマチュアリズムである。たとえば壁の仕上げを何種類か区別している。総延長四〇〇メートルの廊下がすべておなじ仕上げでは迷子になってしまうので、ある部分は貝灰(漆喰)塗りの白い壁、ほかのある部分は阿蘇山の火山灰土による茶色の壁、というふうに。ここで注目すべきは異なる仕上げがつきあわされる箇所である。プロフェッショナルを自認する建築家なら、第三の素材を介在させたり、スリットや隙間を置くであろう。しかしこの学生寮では、塗り残しのまま放置したかのように、刷毛の痕跡をそのままにしてある。漫画の世界でいういわゆるウマヘタ。ある課題に挑むのではなく、最初からわざと敗北を宣言することで、問題を回避しようという戦略。

 こうした態度は、じつは最近の若手建築家のそれに近い。ここ十数年、師匠に従事して芸風を極めるということを最初から目指さない若手が多くなってきている。すなわち書院造、数寄屋造、あるいは巨匠のスタイル、などの真髄をきわめようとする求道的なアプローチは好まれない。プロではあるが、あくまで素人との接点は確保する。名人芸的な造形やディテールは求めないが、設計の意味づけははっきりさせようとする。そんな若手の姿勢と、藤森氏の設計はけっこう近い。

 藤森氏の歴史叙述を読んで感じられるのは、彼は具体名をもった人間を主人公とするという一貫したポリシーを持っているということである。すなわち彼の描く歴史は、きわめて慎重に選ばれた中庸の視点からなっている。

 大巨匠の高邁な理念、時代精神、抽象的な大理論の系譜というのはいわゆる形而上学的なものの歴史となる。反対に、無名で日常的でヴァナキュラーなものの歴史というのも、それを語る主体がいないので、やはり抽象的な枠組みを設定しないと説明できないから、形而上学的なものとなる。つまり上昇しすぎても下降しすぎても歴史叙述というのは、いわゆる超越的なものに支配されたものとなる。そして具体名の人間はいなくなる。

 こうした意味で、藤森氏の歴史叙述と建築設計には共通する価値観があるといえる。超越的なものをあくまで拒否しようとするのである。

 素材に直面する、具体名をもった、生身の人間の痕跡をどうしても残したいと願う藤森氏は、上記の意味では、反建築史的な建築家である。大学紛争時代に学生であった人びとは、なにかというと懺悔から口上を始めるのであるが、どうみても柱がじゃまで学生集会には不適当なこの食堂ホールは、設計者ご本人にとっても、自閉的でありながら優しくもある癒しの空間に思えてならない。

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