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2007年7月の20件の記事

2007.07.26

【書評】『建築をつくることは未来をつくることである』TOTO出版

 『建築をつくることは未来をつくることである』(TOTO出版)をいただいたのでコメントしたい。まずは御礼申し上げます。

070725  今年スタートした横浜国立大学大学院の建築都市スクールの、事実上のマニフェストである。建築をとおして社会や未来にかかわってゆけることが謳われている。巻頭の「非・消費的建築鑑賞エクササイズ」は、プレゼンテーションの形式としても面白く、ピュージンの『対比』を思い出させるが、むしろポジティブなパラレリズムであり、過去のプロジェクトと、山本理顕、北山恒、飯田善彦、西沢立衛の作品とを対比させ、その共通するコンセプトを明らかにしている。たとえばライトのブロードエーカー・シティと西沢の森山邸は、「自分の生活そのもの」に立脚した都市計画であることが協調されている、といったあんばいである。

 四者のディスカッションが大部分を占めるが、当然、校長である山本理顕がリードしているように読めてしまうのは仕方ない。彼はミシェル・フーコーの理論を下敷きにして論を展開しているような印象であり、ディスカッションをつうじて標準化、20世紀的プロジェクトとしての住宅、均質化、60年代の共同体批判と最近の共同体回帰、標準化された主体、脱主体、コミュニケーションなどを論じている。レム・コールハースが建築を問題の解決としてクールかつ機械的なそぶりで設計したこと、つまり外在的要因への諸対応として建築を構想すること、が指摘されている。このことの位置づけはまだ明快ではないように思える。

 こうしたテーマ群から感じられるのは、それらはすべて20世紀のものではないか、ということである。つまり建築におけるコンパクト化、標準化、多様化といった志向、社会における共同体の解体と再構成は、場所によって現れ方を変えながらも共通するものである。PCやネットによるコミュニケーションも、ドラスティックな変革の一段階ではあっても、同様な断絶はどの時代にもあるからそこだけを特別視できない。

 そもそも建築によって社会を構築する、しかも上からの指令ではなく、フラットで民主的ななかで、という発想こそ20世紀的なもののはずである。しかしこの「社会」とはどこのことであろうか。本書で物足りないのは対象としているはずの「世の中」や「社会」が、建築家の抜き差しならぬ経験に立脚しているはずで、個々の記述は生々しいのに、なぜかユートピア的=非場所的に感じられることである。おそらくこの場合「社会」とはじつは施主や他者のように、建築家が選択できない、そこに投げ込まれるだけの状況であるからだろう。だからやはり自由職業としての建築家が前提である。その意味でも20世紀的なのである。

 仮説としていうと、20世紀の可能性は、まさにその20世紀の困難によってじゅうぶんには展開されなかっおた。だから21世紀における可能性は、その20世紀において挫折したか萌芽的であるにとどまったさまざまな発想や試行ではないか。本書において主張されているのは、また横国のスケールで目指されているのは、挫折した20世紀の復活なのかもしれない。別のいいかたをすれば、21世紀はまた別のものになるとしても、結局、20世紀あるいはもうすこし幅をもたせて19世紀以降の近代がひとつの文明インフラとなって、そのうえで21世紀は展開するのかもしれない。古代ローマは滅んでも、道路網だの宗教だの、文明インフラを残した。では近代においてはなにがそれに相当するか、を考えてみることが生産的であろう。

 20世紀は自分のことばかりを考えていたかもしれない。折衷主義の19世紀建築は、別の世紀の建築のことばかりを考えていた。21世紀はむしろ19世紀型なのかもしれない。その時その時は大変だが結局退屈な21世紀であっても、滅亡するよりは結構なことである。

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東方旅行(005-006)マドリッド、トレド

00519871204日(金)、マドリッド

アルジェリア大使館でVISA請求。金曜日14時に頼み、できあがりは月曜日。マドリッドを拠点にして近郊見学の計画をたてる。ホテルはHostal St.Maria del Mar、一泊800pts也。

00619871205日(土)、トレド:●マドリッドからトレド日帰り。鉄道でマドリッド→トレドは91km390pts。●建築見学。ミュージアムのファサード。Alcazarはまったく感動しなかったので写真はとらなかった。大聖堂は、ペヴスナーが『序説』でトラスパランテを詳説していたので期待していたが、そのとおりでありそれ以上ではなかったので、興味わかず。プランはフランスのゴシックをそのまま踏襲したものだが、5廊式ながら身廊は狭い。ほとんど側廊と変わらない。すなわち通常の盛期ゴシックが強い対比によるものとしたら、これは均質をめざしている。そこにイスラムのモスク建築の影響を見ることは強引すぎるであろうか。Aymntamiento, San Juan de Los Reyes, San Il de fonso:いわゆるイエズス会式のファサードだが両端には塔があるので、そうする構造的必然性はない。あくまでデザイン。Calle de Los Alfileritos:旧市街地の最も狭い街路。戦場にいった恋人の安全を聖母マリアに祈る女性の思いが・・・云々の伝承がある。Cristo de la Luz:ファサードではアーチが交差している。「光のキリスト・モスク」の意味で、ムーア時代のものとしては現存する唯一のモスク。室内は、ビザンチンの内接十字形に似た形式で4本のコラムで9ベイに区画されている。その柱頭は西ゴート時代のもの。Puerta del Sol。などなど。総じて生気のないイスラム建築の模倣。見るべきものなし。特徴としては張り出し窓が多い。

Cathedral

トレド大聖堂

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トラスパランテ

Dscn7874

San Juan de Los Reyes

Cathedral_2

San Juan de Los Reyes

Dscn9660

Cristo de la Luz

Puerta_del_sol_2

Puerta del Sol

注:トレドは1986年にユネスコ世界遺産に登録された。その翌年の訪問であった。樺山紘一『異境の発見』等のなかで、中世において閉鎖的な世界観をいだいていたヨーロッパが、1450年を前後として、古代と東方へのイマジネーションが革命的に広がり、開かれた世界観へと変貌するといったことを指摘している。そのなかで重要な役割を演じたのがトレドであって、12世紀からの大翻訳運動のひとつとして、この地でコーランをはじめとするアラビアのテキスト、古代ギリシア哲学など大量の文献がラテン語訳されたのであった。いわゆる13世紀の「トレド翻訳学派」である。紀元前のトレトゥム時代、ローマ時代、そしてイスラム時代、レキンキスタ以降。イスラム時代にあっても、キリスト教、ユダヤ教も存続していた。世界性が内包された都市であった。

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2007.07.22

東方旅行(001-004)パリ、バルセロナ

00119871130日、パリ

大家に挨拶。荷づくり、掃除など最後の準備。フランス軍仕様のバッグ。契約どおり、電気は14時すぎに停止。室温が急速に下がる。シュラフを取り出す。センチメンタルな別れ。タルゴにのってバルセロナへ。

 注:もう古い時代になってしまった。マーストリヒト条約以前。ソ連崩壊以前。フランス2のキャスターが、いまロシア(当時ヨーロッパ人は「ソ連」と「ロシア」をちゃんと使い分けていた)の戦車がやってきたらたいへんなことになる、などと語っていた時代である。

00219871201日、バルセロナ

駅でマドリッド行き電車の情報収集。Banque Nationale de de Parisで2万ペセタ引き落とし。バルセロナでは友人宅で居候。

00319871202日、バルセロナ

建築見学。グエル邸:壁画はオリジナルだが保存状態悪い(後注:どの部分のことだか思い出せない)。有名な屋上のアーチをとおしてサグラダ・ファミリアが望めるということだが、都市がグリッドプランでできているので、偶然といってもせいぜい数分の一ていどの起こりうる確率にすぎない。驚くことではない。サグラダ・ファミリア:都市的文脈から孤立したユートピアン、ドン・キホーテ。材料が建設年代によって異なる。石は一定の寸法で切られている(ということは石造といっても近代技術に依存している)。現代の部分は鉄筋コンクリート。とくに身廊部分の柱はRC。バルセロナ大聖堂:側廊は天井が高い。とはいえドイツの「ハーレンキルヒェ」ほどではない。身廊中央にはcoro(合唱隊席)がある。平面の形式はフランス的なのだが、合唱隊を中央におくのはスペイン独特である。身廊の入口から一直線に内陣へのむかう軸線という空間のダイナミズムを犠牲にして、むしろ分節化しようとしている。空間意識がまったくちがう。超越的なものをむしろ拒んでいるようにも思える。大聖堂付近のパラッツォ:最上階が吹き放ちのギャラリーになっており、フィレンツェのパラッツォのよう。しかし切石のひとつひとつはフィレンツェよりかなり小型。このことは一般的にバルセロナの建築には妥当する。これが地方色というものか。

雑用。駅にて:バルセロナ発マドリッド着の切符購入。2等寝台。5225ペセタ。下調べ:Madrid, El Escolial(Avila), Seville, Granada, Toledoなどでなにを見るか。

00419871203日、バルセロナ

建築見学。S.Maria del Mar(注:14世紀。アラゴン=カタロニア時代の中世後期のナショナルスタイルである「カタラン・ゴシック」の教会堂。バルセロナ大聖堂のプランを踏襲。しかしここで独特なのは、本来ならばいわゆる六分ヴォールトとなるはずだが、四分ヴォールトとし、柱の数を少なくしていることだ。身廊のベイは、長方形であるはずが、広い正方形ベイとなっている。街区のホールとしての教区教会にふさわしい広々とした室内となっている)。Museo Picasso。オリンピック施設。磯崎新の体育館が建設途中であった。屋根はまだ架かっていない。万国博会場(ミースのドイツ館を含む)。ミースのドイツ館はなかなかよい。これほどの抽象はスペインにとって異質ではないかと思った。しかし「水」がキーワードとなる。イスラム時代の建築には中庭に泉水がよく使われた。するとこれはスペイン風パティオのつもりだろうか。アメリカに渡ったミースは資本主義の都市が要求する抽象をよく理解していた。だとしたら意外と柔軟な建築家ということになり、これほどつまらない解釈もなくなる。グエル公園。想像した以上のものではない。

雑用。郵便物を発送する。/コピー

旅行情報。/バス:テヘラン~エルズルム:所要28時間。1255km。直行バスはTahran Turismで週6便。/マドリッドのアルジェリア大使館のアドレス(Zurbano 92, (M)N.de Balboa, lu-ve 9h00-14h00, sum. 10h00-13h00)。/パリへの電話;07-331-4….

注:バルセロナはカタルーニャ自治州の首都である。もともとスペインは、宗教的にはイスラム教、キリスト教、ユダヤ教が共存しえていたし、歴史的に地域の自立性が強く、自治州からなる一種の連合国家であるという人もいる。通説によれば、ハプルブルグ家はそのことをよく理解していたが、ブルボン王朝はあえて中央集権体制をもちこんでスペインを停滞させた。フランコはタブー化しているが政策は悪いことばかりではなかったようだ(だからなおさらタブー化される)。

バルセロナは都市経営の戦略がしっかりしている。1859年、セルダーのグリッドプランにもとづく市域拡大計画。これはパリの近代都市計画が国家主導であり、ナポレオン三世下でオスマンが展開したものであることと対照的に、バルセロナ市が中央政府に市域拡大の許可を申請したものであった。それだけではない。1869年に高等教育としての建築学校が創設されている。ガウディもそのOBである。1888年の第一回万国博、1929年の第二回万国博。第二次世界大戦とフランコ政権の時代は不幸であったが、1975年にそこから脱却すると、1992年のオリンピックと万国博、そして現在の旧港湾地区再開発と、地域がみずから舵取りをする都市経営、地域経営がみごとである。

ブルターニュと比較するとおもしろいが、まず19世紀中に建築学校が設立されていることが共通している。そこで地域の文化を担う人材が育成される。さらにその延長にカタルーニャ・モデルニスモが展開される。通常この運動はアール・ヌーヴォーの一部として見なされるが、そこには地域の自立性という文脈がみえる。ブルターニュも同時期、意図的な地域主義の動きがあったからだ。すなわち伝統/近代、中央/周縁ではなく、その対比ではなくリージョナリズムそのものへの志向。

政治的には19世紀後半は、地方分権への動きがヨーロッパで広範におこっており、首長公選などしだいに実現されている。おそらく、すくなくともフランス革命以降は、中央集権と地方分権はおたがいに綱引きを繰り返してきたのではないか。その文脈で建築も見なければならない。たとえば20世紀初頭の近代建築運動の立役者たちのうちの少なくない人びとは地方自治体の建築家であったことは何かを語っている。

ところで日本人はいつからバルセロナに親しみを感じるようになったか?基本的には、ガウディについては早稲田派が主要なレセプターであった。一般的なツーリズムの対象となったのはやはりフランコ政権以後であったように思える。その崩壊が1975年。松任谷由実の『地中海の感傷』が1978年。なんというマーケティング力。ただしスペインにある上等な茅ヶ崎というイメージのような気もする。

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2007.07.20

ル・コルビュジエ展を見て---この建築家の残した資産の、その運用のあり方はまさに世紀を象徴しているので自覚的でありたいと思う

森美術館でル・コルビュジエ展が開かれているので、出張のついでに覗いてきた。

単純化していうとアーティストとしてのコルの紹介である。絵画、彫刻、家具の比重がおおきい。もちろんモナコのアトリエや、ユニテ・ダビタシオンの原寸大模型など、内部空間が体験できるような工夫もされている。フィルミニのサン=ピエール教会堂というつい最近弟子が完成させた建物の紹介などもあった。

図録『ル・コルビュジエ 建築とアート、その創造の軌跡』は執筆者各人各様というと聞こえはいいが、ひとつの声にならない距離の隔たりが印象的であった。むろん健全なことだ。槇文彦は、コルビュジエ受容は擬洋風のそれに似ている、つまり日本人が勝手に解釈(誤解)し続けているという秀逸な見解である。磯崎新はコル崇拝をもうやめよと提案していたが、さすがに他のキュレーターはこれに言及することを避けている。黒川紀章はル・コルビュジエへの愛を率直に告白し続ける。八束はじめは都市計画家としての側面を強調することで、この分野については力がはいっていない展示のバランスをとっている。

いっぽう解説を書いているのは、むしろ没後かそれに近い時代に生まれた若い研究者たちである。だからル・コルビュジエについての解説として読むことは、ぼく個人にとってはまったく難しく、現時点での若い世代のル・コルビュジエ受容はいかに、という視点からしか読めない。歳をとったものである。

単純化すれば、古い世代は批判的距離をもって語り、若い世代はイデオロギー的思い入れはないものの、客観的だがデータベース操作的である。

ル・コルビュジエは1887年生まれで1965年没。人生は波瀾万丈だったかもしれないが、そののちは予定調和的というか計画的に事態は進展している。

没後20年とすこしして1987年、生誕100周年を祝うために、パリのポンピドゥ・センターでル・コルビュジエ展が開催された。この展覧会において、戦前は異端児にして挑発家、戦後は思想的シンパの多い建築家、となった彼がようやくフランスの代表的建築家として国レベルでの認知がなされた。

2007年はそれから20年後である。生誕120周年である。2008年には主要作品を世界遺産に登録申請するという。つまりこんどは世界的な認知である。

これはル・コルビュジエ財団が中心となって企画されてきたことだ。モードにおいても年ごとの流行色が決められるように、すでに建築文化においても展覧会や出版の企画をとおして、市場、需要と供給、がプログラム化されるようになった。21世紀とはしばらくはそうした時代であろう。文化資産の徹底的な管理運営である。

つまり没後20年に国内的認知、さらに20年のちに国際的認知というわかりやすいプログラム。ではさらに20年後の2027年はまた大イヴェントがあるのだろうか?膨大なアーカイブを資源として、世界一の建築学校とかインスティチュートなどというものを財団は考えているのだろうか?

もし2008年に世界遺産登録が認められれば、それこそル・コルビュジエ神社ではないが、彼を批判することはタブー化するであろう。だからいまのうちに批判しておかねばならない。

【批判1】この展覧会は都市的な視点が弱い。今回、DVD資料はすべて1987年のものであった。ほとんど使い回しであろう。その1987年の展覧会では、ボブールであったこともあって、都市的視点が明確であった。たとえばヴォワザン計画についてももっと大型のマスタープランがあったはずである。ボブールも20世紀初頭に非衛生街区として取り壊され、ポンピドゥセンターが建設されるまで空地であった。その敷地を含めたル・コルビュジエの計画であった。図面は生々しい迫力をもって訴えかけた。東京では、おなじ場所の感覚はもちえないことは自明としても、抽象的ではなく場所を特定したプロジェクトであったことが伝わりにくい。さらにいえば前後する他の都市プロジェクトとの比較でなければ評価できないのであるが、もちろんそんな比較論的な展示ではなかった。

【批判2】ル・コルビュジエの人柄は?ぼくの印象では、コルは張り合うのが好きな人であったようだ。庭付き戸建ての郊外住宅が展開し始めたら、immeuble-villaつまり都市型の中層集合住宅と別荘の組み合わせをしろと挑発する。郊外にいかなくともパリの都心で庭付き生活がエンジョイできる!という挑発である。量産型住宅の研究がはじまったらルシュエール住宅などというものを練り上げる。パリ市が市域拡大のマスタープランを練り始めたら、ヴォワザン計画を打ち立てる・・・・。などといった案配である。つまり他人がなにかプロジェクトを始めると、やはり自分のデザインがいいだろうといわんがばかりに、誇示する。性格が悪い。しかし建築家にとって必要なエネルギー源であったのだろう。

【批判3】これは個別的な批判だが、チャンディガールはそれほど成功しているとは思えない。とはいっても機能主義的な都市計画では無機質な都市になってしまうといったことをいっているのではない。近代建築の普遍化に失敗した、地域性を考慮していない、といったことではない。そうではなくチャンディガール、あるいはインド亜大陸のスケールに、その自然の厳しさに、ル・コルビュジエがとうとう追いつけなかった、という印象をぼくは現地でもっている。失敗ではなく敗北だ、限界の露呈だ、といいたいのである。ああいうものに張り合えるのは、たとえば一神教的な絶対的宗教観にもとづく徹底的に抽象化された建築、あるいは帝国を表象するような建築であろう。ル・コルビュジエはそれにモデュロールによる寸法と「開かれた手」というモニュメントで対抗しようとした。つまり人間化しようとした。失敗の原因ははっきりしていた。人間と宇宙が折り合うには別のものが必要だ。

【批判4】丹下健三は世界遺産にならないか?それでもル・コルビュジエは建築教育の導入にとっては優れたテキストであり、社会のなかで常識化することで、建築学生のほとんどが入学前に知っているような状況になれば喜ばしい。建築好きが増えて結構なことだが、ル・コルビュジエにかける情熱の数分の一を日本人建築家に捧げれば、よいのだが。

【批判5】槇文彦の「ル・コルビュジエ・シンドローム」論に関連して、コーリン・ロウらによるマニエリスム概念によるアプローチは、アメリカ人がいかに巨匠を受容したかという例であって、日本からこれをどう見るかという視点も必要である。ロウのル・コルビュジエ受容は、バーリントン卿によるパラディオ受容のようなものだと思うが、ロウはバーリントンを下敷きにしつつ、自らを建築史に位置づけられるような受容をしている。しかし日本人の視野には、ヨーロッパ、アメリカといった分節化が弱く、すべてル・コルビュジエ一神教的に統合されてしまうので、地政学的な理解が難しい傾向にある。

【批判6】ル・コルビュジエ財団になにを学ぶか?日本の現代建築アーカイブを運用してもらえば?日本人がこれほどル・コルビュジエ好きであるなら、いっそのこと、ル・コルビュジエ財団のブランチとして「日本現代建築財団」をつくり、そこにアーカイブをすべてあずけてしまうという案はいかがであろうか。日本人は資産運用がヘタである。私たちの建築文化資産は日本にあるかぎり毎年目減りしてしまう恐れがある。外国の専門家集団に委託し、研究戦略、文化戦略、PR戦略を練ってもらうのである。つまり浮世絵ストラテジーである。20世紀建築の現物はさほど残らない。すべてデータとして残すという戦略もありだ。利益のどのくらいの割合を日本に還元するか、契約はことこまかに決めなければならない。

■以上です。

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2007.07.15

【速報】ブロワの国立自然ランドスケープ大学は新校舎に移転

 LeMonde.fr(2007年7月14日16:19)によると、1995年ブロワ市に設立された国立自然ランドスケープ大学はしばらく仮校舎にいたが、このほど正式のすみかをみつけたようです。プラン・チョコレート会社の工房建物であり、これは1919年に建設されたもの。1991年に閉鎖されたが、工場は取り壊しがはじまり、中心部分のみとなっていました。

 1992年、当時ブロワ市長であったジャック・ラングにより学校設立の計画がはじめられました。学生数は135人、課程は5年、学位はエンジニア(というころはディプロマ?)。学長の談話によれば「ランドスケープ・エンジニアを育成する・・・このエンジニアは、区域を診断し、課題を定式化し、管理運営を想定して実施できるプログラムを策定してそれにこたえる能力が求められる・・・」。

 (フランス語ではペイザジスト、英語ではランドスケープ・アーキテクトという言葉があるのに、あえて景観のエンジニアといっています。)

 旧工場は第一次世界大戦前、スイス人エンジニア・ロベール・マイヤールによってマッシュルーム工法により建設されていました。彼の名はギーディオン経由で日本人の耳にも親しまれている。たいへん特徴的な工法であり、歴史的建造物追加目録にリストアップされています。

 パトリック・リュバンがこれを学校とするための最小限の補修をおこなったそうです。

 マイヤールのほとんど1世紀前の建物がどうコンバージョンされたか写真を見たいものですが、学長の、区域(territoire)を診断するエンジニア、という表現は歴史的な流れでみるとおもしろいというか、きわめて当然です。つまりテリトワール(テリトリー)とは上のように区域と訳すのが自然ですが、領土とも訳せます。またエンジニアは、シビルとミリタリーがあったことも承知です。つまりぼくがいいたのは、庭園も含めフランス的景観が確立されるのは17世紀ですが、この世紀、ルイ14世が国土を戦争によって獲得し、そのため、あるいはそののちにエンジニアをつかって運河や道路や港湾や橋梁を整備させといったように、景観を整備させています。ルノートルのいわゆるフランス式庭園は新しくできていたこうしたフランス式景観をそのまま庭園に持ち込んだ(大運河!)という位置づけもされているからです。

 つまり近代のランドスケープとは、すぐれて自分の領土をどう眺めるか、からはじまりました。領土をまず整備するのはエンジニアです。・・・しかしこのことは、グローバル化とユネスコ文化遺産的枠組みのなかで曖昧になってきています。

 ちなみにルイ14世は、あらたに国土を地理学者に測量しなおさせました。するとそれまで考えられていたより国土は小さかったことが判明しました。すると王は「地理学者は世から領土を奪った」と嘆いたそうです。

 診断という概念も、ようするにあらたに獲得した領土の、地質、地形、植生、気候などを徹底的にスタディしたことにならっています。都市計画でもランドスケープでも、まず悉皆的、システマティックなスタディが基本です。

 ですので日本でも旧土木が近年ランドスケープにアプローチしているのはまったく当然のことです。しかしそれをきわめて日本的に、実用+美、というようなへんな二分法をもうけるのではなく、下部構造とその上のものの一式、というような本来のやり方に戻るべきと思います。たとえば建築物の美的価値などすでに判断されて終わっているようなものですから。それが大地とどう関係づけられるかにランドスケープ的視線はかかわっているはずです。

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2007.07.13

藤森照信論(5)強引に「生気論」アナロジーを試みる/『ザ・藤森照信』書評をかねて

エクスナレッジムックの『ザ・藤森照信』(2006)です。高過庵など最近作を紹介しつつ(独特のフォーカスの仕方による写真が模型写真のようである)、建築界100名の質問、論文、雑感をちりばめた建築界大政翼賛会的なモノグラフです。編集者は知らない人です。しかしこのような編集は、原広司、磯崎新らのためにも試みられており、建築業界人としてはとても身近なものです。

070707xknowledge_home_072006 磯崎新は利休、織部、遠州・・・という茶の湯の系譜が近代においても反復されているという歴史観をさらに延長して藤森を位置づけようとしています。鈴木博之は、あえてインテリであることを拒否することで権威であろうとする日本的藤森のイメージを描きます。岡崎乾二郎との対談は、むしろ岡崎の一人舞台でまったく対談にはなってはなくいませんが、彼の無意識=インフラ論により藤森が歴史的に位置づけられています。もっとも逆に、岡崎はすぐれて20世紀の人なんだなあとも感じます。

全体として感じるのは、論者たちが藤森をいかに歴史的に位置づけるかということに努力していることです。歴史家ではなく建築家としての藤森をいかに歴史的に位置づけるかということに腐心しています。そういう共通無意識がしぜんに浮上してきます。

さて建築史家としての藤森は、まず日本の近代化を対象とし、その悲惨と栄光を公平に描いているように思えます。つぎに、著作『人類と建築の歴史』では、古代と巨石文化に遡及することで近代を、そしてきわめて近代的な学問である歴史そのものを相対化しようとし、自分自身をも括弧にくくり相対化しようとしているようです。

しかしこれもそんなに突出したことではない。19世紀の西洋では、ラファエル前派のように中世までが本当でルネサンス以降はまがい物という視点は珍しくないからです。藤森は、日本人にはトラウマであったモダニズム・コンプレクスを、それを徹底して生きることで克服し、それを相対化するにいたった。しかしそれとてきわめて西洋的なことだとしたら?歴史を相対化するために、狭義の歴史のさらにそれ以前の、古代に遡及すること、これはときに新古典主義になり、ときにはプリミティヴィズムとなります。歴史を克服しようとすることが、さらに高次の枠組みを構築することになります。

ここで建築史の生気論性を指摘しましょう。強引だと知ってのことです。さまざまな建物ができて、それらをグループ化したりカテゴリー化したり、傾向をわりだして、時代性を描きます。だからいわゆる事後的、編集的ですが、最終的には時代精神とか芸術意欲などを想定します。だから、あたかも歴史には目的がある、あるいはあったかのごとき書き方をします。目論的といえます。もっとも歴史の構造が壊れていわゆるデータベース化すると違ったふうになりかもしれませんが。

これは機械論/生気論という二元論でいえば生気論側にあります。生気論は古代からあった考え方です。生命には霊魂があり、生命を方向づけます。受精卵をいくら分析してもどんな生命になるか構造は読み取れないが、結局しかじかの種の個体となる、だから機械論的ではなくあらかじめ目的が設定されているはずだという考え方です。ダーウィンは突然変異と自然選択という機械論的プロセスで進化はなされると考えました。ハンス・ドリーシュは、全体性という現象が生命にはみられることから、新生気論をとなえました。機械論は、偶然と機械的プロセスがすべてを支配し、生気論はある主体がものごとを導く目的や指向性をしっかりもっているという発想です。

 近代建築史はこの点で両義的で、あたらしいテクノロジーが唯物論的に近代建築を生むという発想は機械論的でありながら、様式が環境との関係で展開するというのは自然選択論的であり機械論的でありながら、それが装飾の否定、幾何学美学を生む、というのはあきらかに目的論的です。それが時代精神だなどといえば、つまり時代が精神をもつなどといえば、まさに生気論的です。

 西洋/日本、あるいは近代/伝統という葛藤(=建築史家としての藤森)をいっきに超越した(=建築家としての藤森)ものの、残念ながら日本にはほんとうの古代はなかったので、新古典主義にはならないのが藤森の現状です。しかしそれでも建築家としての藤森は、目的論的なアプローチを超えたとは思えません。人類、太古、普遍性をめざしているということは、より大きな目標の設定であるからです。彼のその勇気がいま賞賛されているのです。(つづく)

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2007.07.12

Martine Liotard, "Le Havre 1930-2006", Picard, 2007----フランス20世紀の都市計画の古典性

マルティーヌ・リオタール『ル・アーブル1930-2006』2007(Martine Liotard, Le Havre 1930-2006, Picard, 2007)です。フランスのル・アーヴル市は、近代建築のパイオニア建築家のオーギュスト・ペレが復興計画を手がけたことで有名です。2005年7月15日、そのペレがかかわった中心地区133ヘクタールがユネスコ世界遺産に登録されました。

 ウェブなどでは、現代都市の景観が評価されたことは希である、という指摘が多い。

070712le_havre  著者は建築家、都市計画家、整備地理学博士であり、ル・アーブル復興計画でドクター論文を書いています。フランスらしく記述は包括的であり、フランソワ1世時代がイタリア人建築家ジェローム・ベラルマトを呼んで整備させた時代からはじまり、戦前の社会と都市計画、ペレによる計画、そののちの高度経済成長時代の発展、大ル・アーヴルという名の都市共同体形成の最近、また中心地のみならず郊外の住宅地形成まで、網羅しています。

 興味深いのは歴史的連続性です。たとえば市長レオン・メエールが作成させた1933年の全体計画のある部分はペレのものを予期しているとか、あるいは復興計画として地元建築家アンリ・コルボク案やアンリ・デグ案があったことの紹介です。プランを比較検討すれば、これら地元建築家の案をさらに大胆にしたのがペレ案という読みもできないことはありません。厳密にいうとペレ案ではなく、彼はみずからはデザインせず、数名の部下にそれぞれプランを作成させ、競争させています。つまり当然のことながらマスタープランは共同制作であって、さまざまな叩き台の部分が混入していても不思議ではありません。

 著者がとくに強調してるのは、国と自治体の対立というある意味で普遍的な構図です。ペレは復興省から直接派遣された建築家です。地元は地元で再建プランを具体的に練っていました。だから地元議会は、ペレに直接、拒否のメッセージを送ったりしています。だから1章をもうけて、歴代の復興省大臣や市長のリストをあげて、くわしく背景を説明しています。さらには地元建築家と復興省アトリエがどんな関係であったかも書いています。

 ぼくはこうした構図がすくなくとも17世紀以来のものであることを指摘したい。先日レンヌ市の高等法院について書いたが、この17世紀の建物も、地元建築家の案を、宮廷から派遣されたド・ブロスが修正して建てたものです。あるいは18世紀の大火のあとのレンヌ市復興の事業においても、中央から派遣された建築家が、市や地域圏を対立と協調をくりかえしながら整備事業を展開していました。比較をすれば、20世紀のル・アーヴルは中央集権的で、18世紀のレンヌ市はまだ自治体のわがままがとおってるような気がします。しかしそれも程度の問題で、ほとんど同じ構図といえます。制度や技術はとうぜん異なっているにもかかわらず、政治文化は変わっていないということでしょうか。すくなくともぼくは、17世紀から20世紀までは一貫した視点で見るべきだと思います。

 また歴史家的偏見と思われるかもしれませんが、通説では、都市全体がRC構造の合理的スパン6.24メートルで設計されているそうです。この長さは19.26尺ほどであり、中世の建築空間における代表的な基本スケールに近いのです。結局、生活空間を指標として考えると、それほど変えられるものでもありません。

 いずれにせよ世界遺産になったものは戦後の景観なのでしょうか?戦後都市計画そのものではないでしょうか。

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2007.07.11

Magali Vène, "Bibliographia serliana", Picard, 2007----セルリオは建築書の出版をとおしてなにを探求したのか?

 マガリ・ヴェーヌ『セルリオ建築書の書誌学』(Magali Vène, Bibliographia serliana, Picard, 2007)です。著者は古文書学者であり、フランス国立図書館の管理員であり、とくに16世紀の文献が専門です。

 ルネサ070712_serlioンス最初の建築書であるセルリオのそれを対象に、そのそれぞれの巻のそれぞれの版の出版の経緯や、没後の出版、その影響について詳細に書いています。それだけでもセルリオの人生が描けてしまうかと勘違いしてしまいそうです。それが解説文となって前半を構成しています。本書の後半ではカタログとなり、それぞれの版の表紙とデータが示されています。

 セルリオは1537年にヴェネツィアで、計画された全7書(ウィトルウィウスにようになぜ10ではなく「7」かということについても詳述されています)第四書にあたる『建築の一般法則』を出版していらい、ヨーロッパ都市を転々とし、メセナをさがしつづけます。ローマではサン=ピエトロ聖堂担当であったペルッツィの弟子として建築を学び、そののちヴェネツィア、生地ボローニャ、フェラーラ、フォンテーヌブロー、リヨンなどです。しかしメセナに恵まれたかどうか、判断に苦しむところで、ヴェネツィア総督、イポリット・デステ、マルガリト・ド・ナヴァル、イギリスのヘンリー3世、カール5世、ボーランド国王などなど。またヴェネツィア、パリ、リヨンの印刷業者のだれそれとそりがあわなかったなど、本好きにとっては豊かな話題が提供されています。

 さて通説では、セルリオははやばやと建築書出版を天命と感じて、それに一生をささげたとされています。しかしほんとうにそうか、と本書を読みながら感じました。それはグラン=フェラールなどの例外を除き、彼は実際のコミッションには恵まれなかったが、建築書をとおして後世に影響を与えたので、そういうバイアスからそう評価されたのではないか、と考えたくなりました。

 ぼくの仮説は、まずペルッツィのもとで学んだ建築を展開するために、仕事を得ようとおもったが、まず自分の学識と設計能力を示してパトロンを獲得するために建築書の刊行を考えた。彼の建築書が、建築オーダー、建築平面、門、ルスティカなどのタイポロジーを確立した最初の書だとされていますが、それは自身の方法論的な能力を示すために、そうしたのではないでしょうか。富豪にも庶民にもあう住宅を設計できる、どんな仕事でも受注できる、といった能力です。また5オーダーのゲネスを区別するということは、都市門でも宮殿でも公共施設でも設計できるということかもしれません。

 しかし当初はどちらかというと手段であった建築書が、しだいに目的化してゆく。というのは各都市で彼はライバル建築家に負け続けています。ヴェネツィアではサンソヴィーノに、フランスでは実際の建築を担当するのはピエール・レスコーやドロルムになってしまう。イタリアではライバルが多すぎるのであえてフランスを選んだのに、です。

 こうした経由で、手段であった建築書出版が目的そのものとなってしまう。そういうことにしてしまわないと自分が崩壊してしまう、といった事情があったと想像したくなります。だから、これは建築書一般にいえることですが、書物は建築の代用ではなく、補完物でもなく建築の観念そのもの、建築そのものかもしれない。さらにいえば、日本人の研究者は前提がちがうとぼくは思っているのですが、建築書に展開された理論にもとづいて建物が建てられるのではなく、不純でノイズに満ちた建物をいくつもたててその試行錯誤の結果、純粋な理論と書物ができるのです。ですから理論と実践が食い違っているのはあたりまえで、むしろ期待すべきは、理論そのものの純粋さであろうということです。

 ぼくにこうした妄想をいだかせた本書を書いたのが、建築家ではなく古文書学者であったということが面白いですね。

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Nasrine Seraji, "Logement, Matière de nos villes", Picard, 2007---- ヨーロッパのハウジングを読み解くための枠組み

  パリのアルスナル博物館で、ヨーロッパのハウジングに関する展覧会が開催されています。最新のプロジェクト(日本からはアトリエ・バウワウが参加している)が、1世紀にわたるさまざまなプロジェクトの最後を飾るように展示されています。この博物館には、常設展としてパリ市を構成してきたさまざまなプロジェクトが通史的に理解させるようになっていて、パリ固有の歴史軸と、ヨーロッパの普遍的住宅供給史というふたつの文脈がクロスするような展示となっています。対象とする目下のプロジェクトは展示全体のごく一部です。常設展と企画展の関係づけかた、企画展のなかの対象と文脈の関係づけかたのなかに、これを論じようとする企画者がいかに広いパースペクティブをもっているかがわかります。歴史家であるぼくにとってはたいへん評価できるやり方です。日本にいると、現在と過去、同時代と歴史がいつも画然と区別されていて、歴史家は特殊な存在とされがちです。しかし現在をも歴史の一断面として位置づけるこうした方法にはたいへん勇気づけられます。

英仏バイリンガルの図録"Logement, matiere de nos villes"は、20世紀と21世紀の代表的なハウジングの例を収録しています。ハワードの田園都市、ガウディのカサミラからはじまってタウトのブリッツ・ジードルング、ル・コルビュジエのユニテ・ダビタシオンを経由して、21世紀のプロジェクトまで解説されています。

Img_4911_1_5     図録をめくって感じるのは「ヨーロッパ的な枠組み」がやはり実体なのだなあということです。19世紀に市民社会が成立して、最初は労働者にいい生活環境を提供することが社会の課題だった。19世紀末から国家が介入しはじめ、国の政策課題となりました。20世紀後半からこれが解体しはじめ、ソーシャル・ハウジングは民営化され、あるいはリージョンの課題となります。さらにはパリ郊外の問題など、社会的棲み分けの問題としても共有されています。これらはヨーロッパの各国がまさに共有する諸過程であり諸問題であるということです。

 これはEU統合の結果ではなく、こうした共有の構図のうえにEU統合があることを見誤ってはいけません。去年、フランスにおける田園都市研究の第一人者のひとりであるベルヴィル建築大学教授トルニキアンさんのお話しを聞く機会があったのですが、20世紀の田園都市建設の際にも、行政や建築家たちの横の連携は活発であったようです。実際、建築家は同時代の他国のプロジェクトはほぼすべて知ったうえで、自分の仕事をしているといった状況であったそうです。アーカイブなどを調べても、ベネボロの文献にも紹介されていない国際田園都市協会、国際ハウジング協会(会議)といった名前がかなり初期からありました。

 日本人がヨーロッパの研究をする場合、やはり技術的な問題から国ごとに住み分けることになります。なるほど政策、法律、建築スタイルは国ごとにバラバラです。しかしそのことによってヨーロッパという共通のパラダイムをはっきりとは対象にできないことになっています。いろいろ考えさせられる展覧会とその図録です。資料としても有用ですが、ヨーロッパ的なパースペクティブを見るべきでしょう。

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ポルツァンパルクはラ・ヴィレットの国立音楽院をめぐって国に賠償することに

  LeMonde.fr(現地時間2007年7月10日16時33分)によれば、行政裁判所は建築家ポルツァンパルクと関連コンサル会社などに、200万ユーロの賠償を国にするよう判決を下しました。これは1990年にオープンした国立音楽院(ラ・ヴィレットにある)が、ガラスの強度不足、浸水、練習室の床の風化など、かなりの欠陥があったとされることによります。賠償金額は損害の実費に相当するという見解で、双方が納得しているようです。築家は控訴しない考えで「12年にわたる大仰な訴訟」をはやく終えたいようです・・・。

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 日本でも、瑕疵による損害賠償請求は2006年で511件であったそうです。(cf. KEN-Platz)

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2007.07.08

1996年10月7日「箱の家」を訪問する

 ノスタルジー。フランスのFMで同名の局があって、おもに1980年代中心のアメリカやフランスの曲を流しています。ノスタルジーとは20歳前後で聞いた曲を、40歳、50歳になってふたたび聞くことでしょう。だから80年代なのでしょう。最近は日本にいてもWEBラジオでときどき聞いています。人間はこうやって歳をとるのでしょう。

 ところで1996年10月7日、「住宅特集」誌の月評を書いていたころ、編集の大森さんに誘われて難波さんの「箱の家」を見学しました。曖昧な記憶によれば東京都杉並区だったと思います。

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 建築家の渡辺さん、吉松さん、穂積先生などいらっしゃって、貴重な?写真です。この箱の家は1作目か2作目のはずで、そのご長い連作にするとはとりたてて予想はしていませんでした。

 戦争直後に考えられた立体最小限住居の理念は、理念としてはそれなりに筋のとおったものだとはいえ、長い歴史でみれば戦後の一時期はそれとしては特殊な時期であったと思います。それをなぜ40年以上たって普遍化するのか、今でもじゅうぶん整理できるとは思いません。ただ21世紀をむかえた今日、建築や住宅をつくってゆくための思想が融解しているようにも感じられます。その融解したさまをそのまま住宅にしている建築家もいて、それはそれで、ひとつの見識です。しかし空間の図式をとおして思想を曲げないで表現してゆく、たとえそれが表面上は無印住宅として別のバイアスをとるとはいえ、やはり思想であろうとする最後の意志なのでしょうか。

 山本理顕さんのいうように、空間がそもそも制度そのものであるとしたら、難波和彦さんの場合は、空間は思想そのものであるといえるかもしれません。建築が思想であったことの証を示すために住宅、住宅が思想であることの姿勢を、時代や状況がどんなに変わっても貫いてゆく、そのことを脱力しながらも継続してゆく、そんな時代との添い寝のしかたを感じます。したたかに、脱力しつつ、消耗もせず淡々と。

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1988年2月ごろのトルコ奥地

 すでにいい歳になっていたのに、壮大な東方旅行をしていました。イスラエル、ヨルダン、シリア、トルコとまわってイランに行きました。そこからパキスタン、インドという計画でした。たまたま出会ったイラン人のアドバイス等で、いちどアテネに戻ってそこから空路インドということで計画を変更しました。

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 そこですべて夜行長距離バスを利用してイスファハン、テヘラン、国境を通過し、一路イスタンブールをめざしていました。国境地帯にある、ノアの箱舟伝説で有名なアララト山を見てからそんなに時間もたっていない瞬間、パスがスリップしてご覧のような事態です。雪が車内にはいって視界が真っ白になり、一瞬、事態を理解できませんでした。

 たまたまいた日本人旅行者(当時慶応大学の学生で卒業旅行中だった)と励まし合い、ほかの乗客といっしょに雪かきなどをして国際協力しました。カルトかもしれないが、イスラムの独自の一派がいて、彼らはずっとバスのなかにこもっていたので、ほかのトルコ人、イラン人も笑っていました。半日はここですごしました。

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 バスは右にスリップしたからよかったのです。なぜなら左は谷底だったからです。けっこう悪運は強いのかもしれません。

 雪のトルコを長距離バスで旅行していたのですが、東方の奥地になると、道の左右にスリップしたり横転したりしてそのまま廃車となったトラック、バスがゴロゴロと数十台規模で放置されていました。自分たちもそうなろうとは・・・・。

 同様な光景をみたのは、ベナレスからカトマンズにゆくバス・ツアーに参加したときのことです。ガードレールのない舗装もされていない谷間の道をひたすらゆくのですが、窓からふと谷底をみると、ころげおちたバス、トラックがやはりゴロゴロしている。1台2台ではなく、ハンパな数ではありません。乗っていた人は助からないだろうな、と思いつつ。それでも窓から荷台になっている屋根によじのぼり、風を満喫するワイルドなバックパッカーもいた。

 帰国ののちも、日本人旅行者がバス事故で死亡というニュースをなんども聞きました。

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1995年ごろの土居研究室

 このカテゴリー「ノスタルジー」とは10年以上昔ということにします。10年たつと時効成立だから、くだらない洒落も許してください。

 もったいぶるほどのものではないプライバシーは公開しませんが、研究室くらいは許されるでしょう。写真は1995年前後(もう正確に覚えていない)の土居研です。統合されてしまった九州芸術工科大学の思い出でもあります。学生との年齢差はすでに20歳近くあったのに、弟や妹のような気がしていました。写真からは、だれが教師でだれが学生だかよくわかりませんね。若かった。教師も夢をみていたかもしれません。OB諸君、みんな立派になっていると聞きます、連絡下さい。

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2007.07.07

藤森照信論(4)パラドクス:縄文建築団も野蛮ギャルドも手作り的ではなくじつは機械論的だとしたら

銅板で屋根を葺くときに、いちいち手でさまざまなかたちに曲げて伸ばして葺いてゆく。それらのカーブは、異なる人がことなる状況、ことなる時間にこしらえたものであり、同じプロセスはひとつもない。これらで覆われた屋根はえもいわれぬ味わいをもたらす・・・。これは機械による大量生産とは対極のものだ。手の固有性、手がすべてに差異を与えてゆく・・・・。でもそれが機械論的だとしたら?

藤森の学系からすればアーツ・アンド・クラフト、職人技能を支持する立場である。いっぽう、いわゆる近代建築史は、ペブスナーが手作りと機械生産の葛藤を中心軸にすえ、ギーディオンが機械化の進歩として描き、バンハムが『第1機械時代』を賞賛するなど、機械イメージが支配的であった。しかしこの機械イメージと、いわゆる機械論は同じだろうか。ぼくは違うと思っている。この違うということを前提に、論を発展させたい。

いささか講座的だが、機械論をまず辞書的に調べる。すると機械論という言葉そのものが誤解を生みやすいことに気がつく。つまり機械論のモデルはかならずしも時計や内燃機関といった古典的機械そのものではなく、宇宙、自然、身体、有機体だからである。

まずデカルトは力学的法則のみが宇宙全体に適用されると考えたが、その宇宙には天体も石ころも有機体も含まれるはずである。ウイリアム・ハーベーの血液循環論は身体をポンプとチューブと液体からなる機械として理解する。デカルトが動物機械説にとどまったのにたいし、ラ・メトリは人間機械説を唱える。このようにまず出発点から機械論と機械イメージはまったく次元が違う。

ダーウィンは個体差(のちにはド・フリースのいう突然変異)と自然選択によって種が淘汰されるという進化論を展開したが、ランダムな個体差の発生、それと環境との適合/不適合によって種の、目的に向かう進歩ではなく、機械的手続きの総合としての進化を説明した。つまり機械論的である。このことは茂木健一郎と米本昌平が対談(『図書新聞』2819号、2007年4月28日)のなかで指摘している。機械論の支配が、生命や意識の問題を解明することを難しくしていると。

ゼンマイ+歯車からなる時計をモデルとする機械イメージは、まったく同一なものを生産し、かんぜんに法則的であり、結果の同一性、正確さを失わないというイメージである。しかしこれは個体を説明するための限定的なイメージであって、現象の複雑さは説明できない。そこで複雑系などということになるが、ここではそこまで高度なことにふれる余裕はない。

ようするにランダムさ、偶然性、を生むのも機械的ではないか、ということである。すなわち実際の機械もまた現象のなかの一部であり、ランダムさから逃げられない。完璧な機械は理念のなかにしか存在しない。

縄文建築団にように、素人の未熟な手作業がさまざまな痕跡を生む。これは未熟練職人の手技であり、意図的なランダムさである。熟練職人はイデアをもってそれにしがって創作する。未熟練者はそのイデアさえ所有していないのである。だからそれはパチンコ玉をまっすぐ落下させてもけっして同一の地点で止まることはないように、重力の法則に従いつつ、ランダムな挙動を見せる。一種のカオスである。

それは進化論の突然変異のようなものである。これは機械論的なのである。つまり藤森の設定した目的、彼がスケッチした造形という目標にたいし、こうした未熟練職人の技は、洗練、概念、調和といったあらかじめ設定された抽象概念にはおさまらないで、勝手な解釈をし、しかも手はつねにそれを裏切りつつ製作する。

職人の比喩をつづければ、熟練した職には制作物の到達点をあらかじめイメージして、それに到達するよう製作するからこれは生気論的である。これにたいして未熟練職人は、そもそも完成図をイメージできていないから、いくら指示されても、最終的には機械論的なノイズを鳴らしているだけである。しかしこの後者を積極的にかつ戦略的に評価しているのが藤森なのである。

 だから縄文建築団は、アーツ・アンド・クラフトとも民芸ともかんぜんに切れている。

 さらに藤森と縄文建築団のあいだには、共鳴しつつつねに相互に裏切るという、高度な共同関係が成立しているのではないか。つまり縄文建築団には、藤森の意図にしたがうとはいえ、あばれてほしい。あらかじめ予測できない不規則性を提供してほしい。裏切ることで、期待にこたえてほしい、という逆説。そのあばれによって芸術的質が向上する。しかしその向上のしかたは最初からコントロールできない。ランダムだけれど、そのランダムさが蓄積されてゆくと自然に方向性が見えてくる。藤森は、あえてコントロールを外しながら、しかし眼力によってその収束先を見極める。

 こうした意味で、縄文建築団は、全面的にではないにしても、ある一面において、機械論的なのである。ダーウィン的なのかもしれない。この仮説は、建築史の解釈に新しいパースペクティブを与えるであろう。(つづく)

参考文献:

・藤森照信『野蛮ギャルド建築』TOTO出版、1998

・藤森照信『藤森流自然素材の使い方』彰国社

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藤森照信論(3)ラムネ温泉をめぐる考察---料理の三角形!?

 二元論を展開するまえの予備スタディをつづける。

 去年「ラムネ温泉」について書いた記事を再録しつつ進めるが、これはレヴィ=ストロースの「料理の三角形」の概念を応用したものだ。藤森において、「生(なま)」は通常の木材など、「火をとおす」はこの「焼杉」構法(記事のなかでは腐敗に位置づけているがやはり火をとおすに修正する)、「腐らせる」は銅板の腐食など、である。1970年代にはやった文化人類学の構図はそっくり藤森建築にみられる。

 彼は歴史家として二元論を多用してきた。煉瓦のイギリス積/フランス積、留学先のイギリス派/フランス派、などである。自身が建築家になるにおよんで、藤森にレッテルをはろうとする建築史家はいない。赤派/白派だけは、みずから赤派だと認めているようで、これは例外的だが、ようするにモダンではないという意味だから、レッテルには該当しないように思える。

 去年の原稿における論考を発展させるとすれば、三項図式は二元論を脱構築させるかもしれないという期待がある。ただしここでも述べた視覚的/触覚的というこれもまた二元論は、ウィーン学派でさんざん展開されたものだから、もはや可能性があるとも思えない。

 下の原稿では派生的テーマとして触れた、縄文建築団のような素人業の位置づけであろう。これには別稿をもうけなければならない。彼の展開するさまざまな素人技術、素人技は、もちろん意図的であるのだが、縄文/弥生、洗練/素朴、近代/土着、普遍/固有といった二元論から論じることを、藤森自身がそれほどしていないことは注目される。つまり唯我論的な拒絶、あるいは自己正当化のポーズであるように思える。(つづく)

【再録】毎日新聞西日本版夕刊・2006年4月下旬・「景観を読む」シリーズ
発酵する建築  藤森照信「ラムネ温泉」

070707_2  いわゆる「野蛮ギャルド」建築家である藤森照信さんと熊本で活躍されている建築家入江雅昭さんが共同で、大分県竹田市にラムネ温泉を去年建設した。道に面した庭にソバと麦を植えている。外壁面は、黒い焼杉と白い漆喰のコントラストが鮮烈だ。屋根は銅板葺き、その頂上には松が植えられている。背景の山の緑とはぴったりフィットしている。
 藤森さんはもともと日本の近代建築史の専門であり、膨大な業績を築いてきた。そして一〇年ほどまえ神長官守矢資料館で作家デビューしていらい日本を代表する建築家となった。素材そのものの味わい、素人の手作業が生み出す素朴さ、タンポポハウスやニラハウスといったような自然との共生、古代や先史時代へのイマジネーション、といった特徴がある。このラムネ温泉は彼がこれまで試みてきた手法を、手慣れたものとして存分に使っており、安心感を与える。
 素人目にはエコロジー志向の当世風ということになろうが、しかし専門家にとっては解釈するのに困難な建築家でもある。
 まず学祖である村松貞次郎の反近代主義的な思想を受け継ぎ、看板建築や路上建築学会などにみられるように、それまで価値なしとみなされてきたB級建築を意図的にとりあげてきた。
また縄文建築団という素人ボランティア集団の手作業により建設工事をやらせ、専門家による洗練した仕上げをわざと避け、素人の朴訥な仕上げをわざと見せた。
 こうした意味では、研究生活の延長として創作活動があるように思える。
 しかしいっぽうで建築家としては他の建築家を批判的には語らない。学者が創作家になるとき、えてしてある作品を批判して自作を位置づけるというかたちになりがちだ。しかし彼が見た多くの建築を引用するときも、方法論やイデオロギーにそれほど頓着しているようには思えない。だから他の建築史家が彼を批評しようとしても、どこに焦点をあてていいか、とまどっていることが多い。藤森さんはむしろ、しかじかの部分の建材、その材質感、収まりなどに集中している。つまり視覚的でも観念的でもなく、きわめて触覚的なのである。
 素人として建設工事に参加するといっても、職人の手業をそのままなぞるのではない。銅板をわざとおおげさに曲げてみたり、木の幹をチェーンソーで削って仕上げとしたり、意表をついた造作を創案し、それが新鮮な表情をあたえる。その意味でも触覚的で、反近代的なのだが、本人はそれをことさら協調することもない。
 私見によれば、彼が反近代的なのは、そうしたイデオロギー論争的な組み立てそのものを無視してしまうことにある。終戦直後に、洗練された弥生的造形と粗野な縄文的造形の二元論が論じられたことがあり、その延長でいえば、彼は縄文的なのであるが、それをみずからの立脚点にしようとはしない。そうしたスタンスの取り方にこそ、彼の戦略があるような気がする。つまり建築史家であったころは、赤派と白派など、レッテル貼りが得意であった。しかし彼自身が建築家になるにおよび、徹底してレッテルを貼られることを回避している。
 そうした彼のお気に召すかどうかはしらないが、そのラムネ温泉を解釈するために、二〇世紀フランスを代表した人類学者レヴィ=ストロースの理論を借用しよう。つまり料理の三角形という概念だが、あらゆる料理法は生、火をとおす、発酵させるという三種類に分類される。これと同じことが藤森建築にもいえそうだ。生は、草庵や床柱など材木をそのまま使うやりかたである。火をとおすのは、製材した木材だと解釈したい。発酵とは、ラムネ温泉でいえば、焼杉の外壁であり銅板葺きの屋根である。
 焼杉を、火ではなく発酵させた料理に類推させるのは根拠がある。発酵とは、微生物の作用により糖分が有機酸や炭酸ガスとなることである。つまり組成が変わるのである。だから杉を焼いて、通常のセルロースを炭化させるのは、組成を変えるという点では熱ではなく発酵に近いのである。ラムネ温泉の焼杉は商品化されているものに比べて遙かに炭化相が厚く、ざっくりしているのが特徴だ。おなじく屋根の銅板も錆びることで、すなわち酸化することで組成を変えて美しい緑青となる。
 組成が変わるということは近代建築では劣化であり、初期の性能が衰えることであった。しかし藤森さんのラムネ温泉は、発酵する建築であり、組成の変化によって豊かなものとなる。それをエイジングの美学だの、わびさびなどといってイデオロギー化しようとしないのがよいのである。

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2007.07.06

ロレーヌ地域圏メス市の皇帝街が世界遺産に?

 WEB上で文化遺産についての情報提供はどこが充実しているかを探している途中である。今回はフランスのテレビ局「フランス2」のサイトである。過去3カ月分の内容がリストアップされていた。
 そのなかで個人的興味を引いたのが「メス:皇帝街がユネスコの遺産に?」である。メスはフランスだがドイツに隣接したロレーヌ地域圏の首府である。人口12万4000人。もともとは神聖ローマ帝国領であったが、長い歴史のなかでフランス領であったりドイツ領であったりを繰り返している。現在、建築家坂茂らがポンピドゥーセンター分館を建設している。

 記事を抄訳をしてみよう。なお写真はメス駅外観とホール。いずれも2000年に私が撮影した。外観写真では遠景に給水タワーが見える。

070707metz_gare_ex_2  「メス駅街区のユネスコ世界遺産への登録が市長より提案されるであろう。」
 「市長ジャン=マリ・ロシュは、いわゆる「皇帝」街の登録をユネスコに申請するよう、文化相に提案するであろう。この地区は19世紀よりドイツ人を含む世界的な建築家が、160ヘクタールの広がりのなかに、いわゆる「都市計画」概念が成立する以前に、「都市芸術 art urbain」(土居注:この場合artとはいわゆるfine artではなく、技術、ノウハウなど広い意味をもっている)を展開していた。」
 「帝国」地区は都心に隣接したさら地であった。ドイツ人建築家コンラート・ヴァーンは「この新しい都市の要素は美的であり、都市全体と一貫した関係をもつ」よう配慮した。こう説明するのは美術史家クリスチャンヌ・ピニョン=フェレ。その著『メス:1848-1918年』は申請書の添付書籍となる。彼女は「都市の舞台芸術なのですよ。駅がカテドラルのように構成の中心となり、近くの給水タワーは天守閣のようなものです」と説明する。」
070707metxz_gare_in_3   「・・・建築家ルートヴィヒ・ベッチャーの郵便局もこの全体とよく調和している・・・」
 「フォシュ大通りは「カイザー・ヴィルヘルム・リンク」(皇帝ヴィルヘルム大通り、ウィーンのリンク・シュトラセにちなむ)の一部となっている・・・・この大通りが都市計画事業であって、そこに「ユーゲントスティル」(注:ドイツのアールヌーボー)の建物が多くつくられた・・・・」
 「この「皇帝」街はドイツ的とみなされ、第二次世界大戦ののちはメスの人びとはそれを拒否していた。文化次官パトリック・ティェルは「この街区はユニークだ。つまりグローバルな都市計画の時期の代表例だから。住居、娯楽、教育、宗教、交通通信といった生活の要求を満たすすべての施設がある・・・。改築も取り壊しもなく例外的によく保存されている・・・」

 メス市は個人的に興味を引く都市のひとつである。数年前に一度見学したことがあるが、たしかにドイツ的雰囲気とフランス的雰囲気が併存していた。引用からもわかるように、ひとつの都市のなかにフランス的な部分とドイツ的な部分がある。今回、フランス都市としてのメスが、戦争の傷を乗り越えて、ドイツ人が計画した街区を評価しようというものである。

 なおほかのヘッドラインとしては:
・プラハの橋、650周年記念の祭典。
・マルセイユに新石器時代の遺跡
・タージマハールの白大理石が大気汚染により黄ばみはじめている。
・ニーム:古代のモザイク発掘。
・100の歴史的地区が気象変化により危機にさらされている・・・・
・第24回目の「ヨーロッパ遺産の日」は9月15日と16日。修復にかんする職業が紹介される・・・
など多数。

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2007.07.05

ブルターニュ高等法院の政治的位置と、現代建築のそれを比較してみる

 レンヌにある高等法院(Parlement)は、17世紀の建物である。地元の建築家ゴチエが基本設計をし、パリから派遣されたサロモン・ド・ブロス(ルクサンブール宮をマリー・ド・メディシスのために設計した)が推敲して設計した。地域的なマニエリスムの原案を、より力強いバロック様式で飾ったという歴史的評価がなされている。

 堅固な基壇のうえに、ドリス式のカップルド・ピラスター(対になった付柱)がリズミカルに並ぶ構成であり、イタリア的な表現である。ただし外部階段があった中央部分と、張り出している両端部分が強調されているのは、フランス的である。

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 今回強調したいのは、地上階が赤っぽい花崗岩であり、2階部分が白っぽい石灰岩であることだ。この花崗岩は地域の建材であり、ブルターニュの地質と風土の象徴である。いっぽう石灰岩はパリの建築に多用されるのである。すなわちブルターニュは粗いルスティカ仕上げされた地元の花崗岩による基壇、そのうえにあるのが、この地域を支配するパリであり、それが白い花崗岩でできたより知的で文化的で洗練されたドリス式オーダーの柱割りで飾られている。支配/被支配、上位/下位が露骨に表現されている。

 これは絵画において擬人化された正義、悪、虚栄、時間などが描かれ、紋章として家、王室、国などがエンブレムで表現されるのとほとんど同じ構図である。

 ブルターニュ高等法院はこの地域では最高法院であるが、ブルターニュがフランスに統合されたときに、パリ高等法院の下位に位置づけられた。王室のもとで地方圏を代表する都市としてレンヌの重要性が示されるとどうじに、その王国への従属性が決定づけられた。それが建築ファサードに表現されている。

 これを現代建築と比較してみよう。ポルツァンパルクが設計したやはりレンヌ市の最新作シャン・リーブル(図書館、博物館などの複合文化施設)もやはり、ガラス張りの地上階のうえは、赤っぽい石質素材の帯状壁面である。これはやはりブルターニュの花崗岩かそのもどきである。すなわちポルツァンパルクもまた、17世紀の建築家のように、花崗岩をリージョナルな固有の素材として意図的に使用しているのである。

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 しかも時代背景として興味深いのは、まさにブルターニュのリージョンとしての固有性である。それまで独立の公国であったブルターニュが王国に統合されたが、従属的でありつつしかし高等法院を建設してその司法的固有性を主張できたのが16世紀から18世紀であった。ところが19世紀と20世紀は中央集権の時代であり、地域圏は廃止され、より細やかな県単位の行政組織が設置された。しかしEU統合への動きと平行して、すでに1980年代前半に、地方分権法ができ、かつての地域圏あるいは州は、ほぼそのまま復活されて現在のリージョンとなっている。

 こうしてみるとブルターニュがそのはっきりした輪郭をもっていた時代、17世紀はパリから派遣されたド・ブロスが高等法院を花崗岩でかざり、あらたなリージョンの時代である21世紀にはポルツァンパルクがやはり花崗岩をもって文化施設を飾る。そこにもちろんさまざまな差異はありながら、ほぼ同様な構図を感じることはできないだろうか。ぼくはそれくらいのパースペクティブをもって、ヨーロッパの現代建築は語れるものだと思うし、そう語らねばならないと考えている。

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藤森照信論(2)「路上観察学会」と「熊本県立農業大学校の学生寮」のぼくなりの解釈と位置づけ

 二元論については準備中であり、後日、ふたたびふれる。

 藤森は生年からして全共闘世代であり、学生運動との関連がどうだったのかは後の世代としては知っておかなければならない。もちろんそれに言及されることに拒否感を示すひとも多いので、ひょっとして非礼なことかもしれないと自覚しつつ、である。

 彼自身が書いていることだが、学生運動やデモには参加する意志はなく、自宅で悶々と読書にふけっていたそうである。もちろんそれに負い目を感じたりする結果となったであろう。同世代人のあいだで、デモに参加したしない、運動にたいしてどうかかわったかは、人間関係か相互意識に深い刻印を残すことになったということはよく指摘されることであり、彼のトラウマのひとつであっても責められない。

 当時、寺山修司がつくった「書を捨てよ、町へ出よう」はそのコンテンツ以上にキャッチコピーとして衝撃があった。それは商業主義的云々ではなく、そのフレーズを読んだだけで、内容を誤解していようが無理解であろうが、だれもがそのメッセージ性を受け入れることができた。いや寺山の真意を知る以上に、そのコピーのなかに自分のあらゆるものを投影できるような気がした。

 藤森は書を捨てず、自宅で耽読をつづけ、同世代人たちが町へくりだすのを傍観していた。当然、そのことについて直接避難するような人がいたって当然な時代である。

 ここまで書けばすでに読者は完全に理解したはずだが、藤森の路上観察学とは、彼なりの「書の捨て」方であり、「町へ出」方なのである。しかも運動家がしばしば「ナンセンス」を否定詞として好んだように、彼が路上で探す対象は、使われなくなった、本来の用途を満たさなくなった、意味を剥奪されたモノたちであった。つまり路上観察学とは藤森にとって裏返しの学生運動であった。

 いっておくが、この場合、藤森本人がそれに意図的であったとか自覚的であったかとは意味がない。どうでもよろしい。だからご本人にはまったく責任のないことである。これは第三者の観察者としての特権で指摘していることである。歴史的解釈とはそういうものである。

 デモや群れることを彼は、思想的というより生理的あるいは体質的に嫌悪していたのではないか。そう思ったのは、彼の書き物を読んだからではなく、彼が設計した熊本県立農業大学校の学生寮を拝見して記事を書いたからであった。その食堂には、当時の現代建築のある潮流を反映して、柱がランダムに乱立していた。記事では、森のメタファーをつかって大衆読者に迎合したのであったが、しかしここには彼のトラウマが反映しているように思えた。つまりこの食堂は、柱とそれがもたらす視角が多く、学生集会にはきわめて不向きである。昔、そんなことをすこし指摘した。下に記事を再録したので、読んでいただきたい。

 柱が乱立するこの食堂は、トップライトもあり、空間としては意識や目線が上昇するような性格をもっている。数人のミーティングならできそうだが、数十人の討論には柱が邪魔である。森のようなという優しさに隠れて、意固地な拒否のポーズが見え隠れするのである。

【再録】

森としての癒し空間----新しいアマチュアリズム(2001年2月:毎日新聞西日本版夕刊文化欄掲載)

 熊本県立農業大学校の学生寮が竣工して一年後、やっと見学に訪れた。設計は藤森照信氏。彼は建築史の学者であるが、建築と植物の共生をテーマにした「たんぽぽハウス」や「ニラハウス」、あるいは福岡市内の「一本松ハウス」などもすでに建設している。

 あいかわらず素朴な土着的な素材を使い、手仕事の痕跡を残すためにわざと仕上げを粗くするなど、いつもの藤森調は健在である。

 この寮では、一〇部屋ほどを一棟にまとめそれを単位とし、それらを四つの中庭の周囲に配置し、廊下で結んでいる。面白いのはそれぞれの棟のかたちである。学生寮だから棟割長屋のような形とするのが自然と思われるが、それぞれの棟は、三角形のいわゆる妻壁を外に向けている。軒先があるいわゆる平(ひら)側ではない。自然だと思われる屋根を、九〇度回転させている。

 おそらく起伏に富んだスカイラインを見せて、阿蘇山という遠景に溶け込ませようという配慮であろう。しかし、これは偶然かもしれないが、大きな両流れの木造でありながら妻入りである戦前の「前川國男邸」を髣髴させる。この住宅では、輪郭は日本的であるが、内部空間の方向を九〇度回転させることで、まったく新しい空間が生まれている。この住宅について論じている藤森氏が、おなじ構図をこの学生寮で繰り返したと考えても不自然ではない。

070705  大食堂もそうである。おなじ家型の断面がリニアに続くのではなく、天井の中央が高くなったこの空間は、崇高な印象すら与える。それを強調しているのが、ランダムに配置された木の柱である。厳密にいえば無秩序ではなく、梁や窓間壁のラインに沿っているし、テーブルが均等に並べられるよう配慮されているが、そこかしこにバラバラに立っているように巧妙に配列されている。それぞれの柱は、木の幹をそのまま移してきたかのようである。完全に製材されているのではなく、断面の丸みや幹のカーブが残されており、照明ランプを垂らすための枝もどきまで付け加えられている。

 メッセージは明快である。「森」のイメージである。修道院に見立ててつくられた学生寮であるというが、教会堂もまたヨーロッパの原風景である森を建築として再現したものである。だからこの大食堂に封印された森のイメージは、さらにその異なる再解釈ということになろう。

 ところで柱をランダムにならべる手法は、じつは最新の流行でもある。民芸派とでも呼べる彼のアプローチのなかに、最先端のデザインとの接点が隠されている。

 それは良い意味でのアマチュアリズムである。たとえば壁の仕上げを何種類か区別している。総延長四〇〇メートルの廊下がすべておなじ仕上げでは迷子になってしまうので、ある部分は貝灰(漆喰)塗りの白い壁、ほかのある部分は阿蘇山の火山灰土による茶色の壁、というふうに。ここで注目すべきは異なる仕上げがつきあわされる箇所である。プロフェッショナルを自認する建築家なら、第三の素材を介在させたり、スリットや隙間を置くであろう。しかしこの学生寮では、塗り残しのまま放置したかのように、刷毛の痕跡をそのままにしてある。漫画の世界でいういわゆるウマヘタ。ある課題に挑むのではなく、最初からわざと敗北を宣言することで、問題を回避しようという戦略。

 こうした態度は、じつは最近の若手建築家のそれに近い。ここ十数年、師匠に従事して芸風を極めるということを最初から目指さない若手が多くなってきている。すなわち書院造、数寄屋造、あるいは巨匠のスタイル、などの真髄をきわめようとする求道的なアプローチは好まれない。プロではあるが、あくまで素人との接点は確保する。名人芸的な造形やディテールは求めないが、設計の意味づけははっきりさせようとする。そんな若手の姿勢と、藤森氏の設計はけっこう近い。

 藤森氏の歴史叙述を読んで感じられるのは、彼は具体名をもった人間を主人公とするという一貫したポリシーを持っているということである。すなわち彼の描く歴史は、きわめて慎重に選ばれた中庸の視点からなっている。

 大巨匠の高邁な理念、時代精神、抽象的な大理論の系譜というのはいわゆる形而上学的なものの歴史となる。反対に、無名で日常的でヴァナキュラーなものの歴史というのも、それを語る主体がいないので、やはり抽象的な枠組みを設定しないと説明できないから、形而上学的なものとなる。つまり上昇しすぎても下降しすぎても歴史叙述というのは、いわゆる超越的なものに支配されたものとなる。そして具体名の人間はいなくなる。

 こうした意味で、藤森氏の歴史叙述と建築設計には共通する価値観があるといえる。超越的なものをあくまで拒否しようとするのである。

 素材に直面する、具体名をもった、生身の人間の痕跡をどうしても残したいと願う藤森氏は、上記の意味では、反建築史的な建築家である。大学紛争時代に学生であった人びとは、なにかというと懺悔から口上を始めるのであるが、どうみても柱がじゃまで学生集会には不適当なこの食堂ホールは、設計者ご本人にとっても、自閉的でありながら優しくもある癒しの空間に思えてならない。

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2007.07.04

藤森照信論(1)赤派/白派という二元論をいかに発展的かつ好意的にのりこえるか

藤森照信が快走している。ヴェネツィア、発表作品の数々、出版・・・・。でありあがらなかなか総括できないような雰囲気もある。現在進行形の建築家だからあたりまえなのだが、いずれ歴史家はそれを歴史的に位置づけなければならないから、その建築論なり建築をいかに飼い慣らすか、いろいろ試案が出されてもいい。

周知のように、まず建築史家であり、日本の近代建築の通史をまとめながら赤派と白派を区別する。かつ建築家としては徹底的に赤派であり、赤派としての方法論を展開している。赤派の建築家は、石山修武や藤森自身のように実在感や身体性を重視する。白派の人々は伊東豊雄のように抽象性を指向する。

この赤派/白派は、本質的には前近代/近代と言い換えられるし、グレー/ホワイト、明治建築/大正建築、オス派/メス派というそれまでの二元論とそれほど異なるものではない。

グレー/ホワイトとは戦後一時期のアメリカ建築界の構図をあらわすものとして使われた。グレー派とはチャールズ・ムーアのように職人技や土着性を重視し、いわゆるバナキュラー(普遍的合理性ではなくその場所で成立する方法論)でアノニマスな(アーティストではなく職人)ものを追求する。ホワイト派はとくにル・コルビュジエの建築などを知的に解釈し、抽象的な理論を構築するし、その建築は白い幾何学的なものとなる。西海岸/東海岸とも言い換えられる。

明治建築/大正建築、オス派/メス派とは長谷川堯が1970年代に展開した二元論である。社会そのものを構築しようという意欲に燃えた明治建築は、西洋の古典主義にもたとえられ、国家の偉容を示すといった時代の課題に正攻法でいどむ。ゆえにこれはオス派である。これにたいし大正時代の建築家たちは、そうした大建築ではなく、住宅や店舗などむしろ私性の表現としての建築表現に徹底的にこだわり、自分の「実存」(長谷川はこの言葉を多用した)に創作の根拠をおいた。長谷川はこうした一派をメス雌と呼び、歴史的忘却のなかから救出し再評価しようとした。

藤森の二元論はこのようにとくに新奇なものではない。ではなぜいまさらこのような構図が語りのなかでくりかえされるのか。それは建築家としての藤森の創作の根源を説明するかもしれないという期待があるのと同時に、基本的には前近代/近代の対比であった赤派/白派が、近代建築運動はとっくに終わっているのに、ポストモダンすらすでに過去のものとなっているのに、いまさらなぜこんなアナクロニックな二元論なのか、とすくなくともインテリは思っているからである。時代錯誤そのものは悪くないが、それが堂々と成立する場合はなんらかの説明と理解が必要であろう。藤森の周囲にいるインテリたちが直接の批判は避けながら、フラストレーションにさいなまれるのがそこである。

この欲求不満を解消するとしたら、そもそも近代という時代区分を建築的了解から解放しなければならない。つまり建築において近代とは近代建築運動を意味していたが、実際は、後者は前者のごく一部を構成するにすぎない。

ところで「二元論」を辞書やウエッブで検索すれば、まっさきにゾロアスター教がでてくる。これは善悪というきわめて理解しやすい構図であり、しかも善は悪に勝利することはあらかじめ決まっているのであって、いいかえれば、悪は悪であることによって善を善たらしめるような仕組みである。これは絶対的二元論である。

いっぽう言語の根本的構造である、はい/いいえ、イエス/ノーはむしろ相対的であるといえる。つまり肯定するか否定するかはそれぞれの人の自由な意思表示である。イエスという答えと、ノーは論理的には両立しないが、いやよいやよも好きなうちとか、心変わりだとか、この二元論は変化も交換も可能であり、けっこうバイラテラルなのだ。

赤派/白派にもどれば、まず概念規定があまりに曖昧で、なんでも言えるのであって、基本的にはつねに藤森の定義に依存していることが指摘できる。さらに前述の例からいえば、これはイエス/ノーの構造にちかい。つまり白派はモダニズムであり、赤派はモダニズムの否定である。上に前近代と書いたが、アーツ・アンド・クラフト運動における中世はすぐれて近代的理念であったように、この前近代は、反近代、非近代などの総称である。つまりモダンを知った人間が、それにたいしてノーをいうための否定詞である。

さてこのように赤派/白派は、藤森固有の文脈もありながら、きわめて緩くて広い枠組みであることが理解される。それを曖昧だというのは批判者自身の可能性を狭くすることになるのであって、ここはむしろ批判者がその枠組みをより広げるなり、具体的に言い換えるなりして、展開することである。次回からそんなことを書いてみたい。(続く)

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ベルジェのガラスの大屋根(パリ、レアール)についてのメタファー合戦

 LeMonde.fr(030707, 17h15現地時間)は、7月2日に市長に提示されたパトリック・ベルジェらによるレアール新建物について、論じている。「ガラス職人頭が再繁殖させたメドゥーサ」、「波打つエイ」、「見知らぬ空間の大胸郭」などと形容されるいっぽうで、担当するベルジェらはそれを「林冠canopée」(土居注:森林の枝や葉が茂る最上層の広がりという意味だが、建築ではキャノピー、天蓋という意味にもなる)だとしている。

 ベルジェの発言を引用すると「自然は無駄な努力を受け入れない。この幾何学的に単純な建物としたかった。大地から育ったような形態、自足する建物、敷地のそのままの大きさの覆いとし、そこから庭園もサン=トゥスタシュ教会も労働センターも眺められるようにしたかった」ということである。

 マンジャンが提案した庭園がそのままガラス屋根のしたに滑り込むことで、まさに林冠となる。地下へのアクセスは改善されるであろう。

 ル・モンド紙は「レ・アールのためのガラスの傘、パリ Un parapluie de verre pour les Halles, à Paris」という見出しをつけている。つまり建築家の言葉はつかわないで、みずからは「傘」だとしている。

 不安要因としては、2012年オープンという工期の短さ、工事中、地下鉄の運行、利用者、地下街商店の被雇用者をディスターブしないことなどである。しかしとりわけ技術的課題が大きく、都市計画担当の市長の側近ジャン=ピエール・カフェ氏は「プロジェクトが機能するかどうか」を問題とするが、「乳白色、透明、メンテフリー」の素材、構造、交通軸といった実際的な問題が大きく、計画の「ポエジー」は無傷ですむかどうか懸念している。

 LeMonde紙が紹介したこうした懸念は、ペイによるルーヴル美術館のガラスのピラミッドに比べれば、まだ建築家への個人攻撃に至っていないだけましであろう。

 個人的興味からいえば技術的問題はエンジニアに解決してもらえばよいが、メタファーの政治的問題のほうが面白い。つまり、だれも気がついていてしかし誰も明言していないのが、ナポレオン3世が「大きな傘」という表現をつかったことだ。ル・モンド紙は見出しのなかで「ガラスの傘」と書いているが、建築家自身は「キャノペ=林冠」としていることの行間を悪意で読んでみることは興味深い。つまりル・モンド紙は第二帝政のなかで生まれたキーワードを使うことで、19世紀志向の建築家の方向性にそいながら、揶揄される政治家であるナポレオン3世の言葉を当てこすりとしてつかう。建築家は、自分が皇帝の夢を実現するというような位置づけを慎重に避けるために、環境思想に沿うような、庭園にあるさまざまな植生の上限においてひとつの高さをさだめ、そこをガラスのフラット屋根をおくのだ、といっているようだ。ぼくはそう解釈する。

 世界中の重要な都市がそうであるようにパリはさまざまなプロジェクトが追記され上書きされる重層的な場所である。新しいプロジェクトが、過去のどのプロジェクトと、言葉、イメージ、メタファーに関わる位置づけを得るのか、どれと連想されるのか。概念は自由に飛び交いうるものであるだけに、意中のものではない困った政治的あるいは歴史的な立場と連動しないよう、建築家も言葉の闘いをしなければならないようだ。

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