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2007年6月の9件の記事

2007.06.30

パリの新プロジェクト-----パトリック・ベルジェとジャック・アンズィティが「キャロ・デ・アール」の建築家に

昨日パトリック・ベルジェが設計したブルターニュ建築大学校舎の話をしたばかりであるが、本日WEBを眺めていると、LeMonde.fr, 290607, 19h32によれば・・・・・

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「パリ市長が主宰するジュリイは、629日、パトリック・ベルジェとジャック・アンズィティを「キャロ・デ・アール」の担当建築家に選定した。この建物は1970年にクロード・ヴィスコンティが首都のただなかに建設した地下ショッピングセンターであるフォルム・デ・アールにとってかわるものである。・・・・この新プロジェクトを実現するにあたって当選者たちは建築家ダヴィド・マンジャンが定義した工事義務明細書を遵守しなければならない。マンジャンがこの「キャロ」アイディアの創案者である。キャロとは、地上9メートルに、一辺145メートルのガラス屋根を架けるというもの。着工は、庭園が2008年、フォルムは2009年の予定。新しい建物は2012年に竣工の予定。・・・・パトリック・ベルジェはパリですでに、アート高架橋、アンドレ=シトロエン公園の温室、ジャック・アンズィティはレンヌ都市共同体の行政本部を手がけている。」

http://www.lemonde.fr/web/article/0,1-0@2-3246,36-929898@51-929899,0.html

現状のレ・アールは、傘状デザインの地上建物も古くなった、駅へのアクセスもわかりにくい(エスカレーターはよく故障する)、高速地下鉄の乗り換えがわかりにくい、空間が断片化しバラバラ、周囲の都市と融合していない、など改修は必至である。現地をみればわかるが、地下街は死角がおおく、迷いやすく、犯罪も多い。

レ・アール再整備計画のコンペは、コールハースやヌーヴェルらも参加して、結局マンジャンが当選した。その計画は、ショッピングセンターにはガラスの大屋根を架け、既存の庭園部分はバルセロナ風並木道(rambla)に改めようというものであった。ほかの案とくらべると控えめであった。

 2007年1月にマンジャン案に決まったとき、パリ市長は社会党であったこともあり、もっとも建設費が安くてすむのと、既存商店経営者たちのロビー活動に逆らえなかったという評判であった。当選時にはガラスの大屋根については、マンジャン自身も今回は都市計画の主体を決めるコンペであったと優等生的コメントをし、庭園下の地下街を手がけたポール・シュメトフも建築やイメージを決めるのではなく、定義づけを協議したということ、という理解であった。市長はこのプロジェクトをZAC(協議都市計画区域)としてさまざまな意見をとりいれて検討する意向であった。

今回ベルジェらが建物担当となったことで、ガラスの大屋根建設に弾みがつくことが期待される。

 ところで中世におけるフィリップ・オーギュストのレ・アール再整備まで遡らなくとも、1848年のコンペでバルタール案が当選し、ナポレオン三世の「大きな傘、それだけあれば・・・」の一声で鉄とガラスの軽快な建物ができたことくらいは押さえておこう。市場は1970年代にランジスに移転するが、その間、ジスカール・デスタンは国際商業センター構想をあきらめて、フランス式大庭園とする決定をし、高速地下鉄RERの地下駅ができ、1978年、当時市長であったジャック・シラクはボフィールを呼ぶも果たせず。1980年代、ポール・シュメトフがサン=トゥスタシ教会横の庭園下に地下街を建設した。PC構法によるもので、ヴィオレ=ル=デュク以来の正統的な合理主義を貫いたと自画自賛していた。

 マンジャン(案)が保守的と指摘するのは容易である。しかしどの意味において保守的なのかという中身を指摘しないことには批判になっていない。また「歩行者優先でヘテロジーニアスであるのが都市空間」というマンジャンの理念もとくに矛先を向けるようなことではない。ド・ボドーがゴシックを、ペレが18世紀古典主義を、ル・コルビュジエが人文主義的伝統を、シュメトフがヴィオレ=ル=デュク的合理主義を、D.ペローが古典主義のスケールを回復したように、マンジャンもナポレオン三世の理念を違うかたちで実現し、そのことによって19世紀の首都であったパリのそのまさに19世紀性、それがパリにおいて実現されるべき都市性であることを主張しているのではないか。つまり19世紀パリは、都市のありかたにおけるひとつの古典なのだ、という理念が根底にあるというように解釈できる。

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ブルターニュ建築大学の新校舎----パトリック・ベルジェ設計

L’Ecole Nationale Supérieure d’Architecture de Bretagne, Patrick Berger

この建築学校は2005年で創立100周年だった。ということは地方大学としては相当初期に属する。フランスではパリに一極集中していたが、分校制になったのが1968年だから建築教育の地方分権化はそれより早いことになる。ブルターニュではすくなくとも20世紀初頭から、地域主義的な建築の運動があったから、そのなかでこの建築学校が果たした役割を創造することは建設的であろう。

ちなみに私の勤務する九州では、戦後になってはじめて建築学科が設立された。建築が文化として都市的社会的介入として理解されるためには、やはり地域のなかで建築教育がなされ造形や空間の理念を継承していかなければならないことは、個人的な体験からも明らかである。いくつかの出版物が示しているように、レンヌ市あるいはブルターニュの建築史が書かれているし、また建築遺産集成が構築されている。そうした文化インフラがつよく存在して、はじめて地域主義の主張も意味があるのであろう。

入口の校名がブルトン語で書かれているのが印象的である。

古い建物の裏に、川に面してゆるやかにカーブする校舎と、新旧建物をつなぐ部分が吹き抜けの学生ホールとしてカフェやラウンジとなっている。

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新校舎はいわゆるシトロエン住宅断面の吹き抜けアトリエを横に連ねたもので、設計教育にふさわしい空間の型についてはフランス人の信念は揺るがないようだ。

新築部分は、木の外装による簡素なもので、川の水と、緑とによく調和している。アトリエは内部のアクティビティが主役であるべきで、あとは包容力のある外皮であるだけでいい。そういうことが率直に語られている。ベルジェの作品としては、集合住宅よりも、パリのアンドレ=シトロエン公園にある対になった巨大な温室が格段に優れている。意図してミニマリズムを目指すべき建築家ではないか。

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敷地の場所は建築家の責任ではない。この建築大学は、レンヌ市内のオシュ広場ちかくのキャンパスからも、郊外のキャンパスからも離れて孤立している。600人の学生からなる小規模大学だが、雰囲気はよい。よい意味でのセクト的連帯も必要なのであろう。

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2007.06.29

ボルドーが世界遺産に・・・・いわゆる歴史的地区を越える、遺産としての都市という概念

LeMonde.frを漫然と見ていたら(現地時間2007年6月2911時)、ボルドーの歴史的街区が、628日付で、ユネスコの世界遺産に認められたそうである。認定されたのは、いわゆる歴史的街区のみならず60年代の人工地盤により開発されたメリアデック地区(そのアパート式ホテルに去年しばらくいたので思い出深い)までふくめ、1810ヘクタール、市域の半分にあたるという。

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 1967年にマルロー法によってパリのル・マレ地区などとともに歴史的街区に指定されたとき150haだったというから、その十倍以上の面積が今回認められた。比喩的にいえば、これは伝建地区が世界遺産に単純に昇格したなどというものではない。パリのシャイヨ宮では定期的に文化遺産のシンポジウムが開催されており、たしか1999年は遺産としての都市といったテーマで、ヨーロッパの都市全体が遺産であるといった議論をしていた。それが現実的に認定されたという印象である。さらにいえばいわゆる歴史的街区というより、その空間を含む、歴史的連続性にたった都市計画の取り組みそのものが遺産の背景として認められたというような印象である。つまり歴史的街区を生かす現代の都市計画であれば、その遺産の延長としてみなしうるのである。

 こうした場合は、当事者の公式HPをみるのがベストである。ボルドー市公式HPをのぞいての大あわての抄訳である。

「ニュージーランドのクライストチャーチで開催されていたユネスコ世界遺産委員会は6月28日、ボルドーの世界遺産リストへの登録を告げた・・・・。

・・・ボルドーでは、都市と建築、古典主義と新古典主義による文化財は一体のものとして2世紀のあいだ断絶なく継続してきた。市長アラン・ジュペ(土居注:この前の選挙では苦杯をなめたが)が1996年以降、プロジェクトを継続してきた。ファサード清掃、ガロンヌ川岸整備、トラム、歴史的建造物の保護。歴史的建造物として指定されているのは350物件・・・・。そのうち3件は、サンティアゴへの巡礼路が世界遺産となったことと連動してすでに指定されている。

・・・・・・これはながい協調の果実である。公共諸団体、国。市長アラン・ジュペのもとさまざまな専門家が協調してきた・・・・・

Unesco_carte_v3 ボルドー方式の独特なところは、指定区域がきわめて広いことである。・・・・1810ヘクタール、すなわち市の(行政域)の半分におよぶ。さらにボルドー市域全体、そして8の周辺市町村もまた遺産らしき区域(zone de sensibilité patrimoniale)としてそれに準じる。

・・・・・・・世界遺産の登録によりツーリズムはこれから良い効果がもたらされるであろう・・・この都市と地域の文化的、経済的活動にとっての助けとなるであろう。・・・」 http://www.bordeaux.fr/ebx/portals/ebx.portal?_nfpb=true&_pageLabel=pgPresStand8&classofcontent=presentationStandard&id=14257

ボルドーは気になる都市のひとつでありご同慶のいたりである。また都市そのものが文化遺産である、ということが理念ではなく、現実の力となって実現してしまうことに、我彼の差を感じもする。

しかしボルドーでしばらく滞在した外国人としてやや辛口の批評をするとすれば、歴史的街区にはかなり空き家もおおく、アクティヴィティが埋まらない状況である。これは50年代60年代の成長型都市計画によって都市機能がかなり外に移転してしまったせいではないかと思われる。そうした議論はいまさらしてもしょうがないかもしれないが・・・・。逆にいえば、都心部ののびしろは大きく、保存と両立するどのような投資を招くかという方向で都市経営を考えるべきかもしれない。

 

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建築と地域主義----レンヌで見えた断片

070629 建築における地域主義を考えるには、まず良い実例をあたることだろう。地域の人びとが、中長期的にかつ持続的に、そのことに自覚的であり、蓄積のあるような例。レンヌはそれを考えるになかなかいい対象ではないかと思われる。

 2007年6月某日、調査旅行のさなか、どこでそのポスターを見たか忘れたが、地元建築家の建築についての講演があるというのでおもむいた。その名はイアサント・ペラン、19世紀末から20世紀中葉にかけて活躍した人である。別の建築家のアトリエで所員として勤務したが、のちにその事務所の権利を買って所長職を引き継ぎ、住宅、教会、ハウジング、学校などを手がけた。地元の名士のための住宅もこなせば、低位家賃住宅も建設する。政治的な党派性は外部からは見えない。地域主義的とはいっても、基本的にはそれほどイデオロギー的にデザインを展開するようでもなく、アールヌーボー、アールデコ、禁欲的モダンといった大きな流れはそのまま受け入れている。それにブルターニュらしさを付加するといった地域主義である。それよりも経済恐慌のころからデザインがきわめてプアになっていくのが印象的であった。これは地域、パトロン、社会すべてが経済的に困窮していたのである。息子も建築家を継いだそうだ。つまり地域に根ざした建築家の家系の誕生というわけである。

 会場は市庁舎2階のホール。18世紀に建設された古典主義だが、パリの古典主義に比べると緊張感に欠ける。しかしスケール感はよい。講師は大学教授ではなく地元の文化財研究家ということであった。自信なさげな表情が印象的。聴衆はもちろん年配者が多く、そのなかにはペラン家の人びともなん人かいた。つまりお互いに顔を知っている濃厚な人間関係のなかで、設計の仕事、デザインの価値の評価、遺産としての継承がなされている。外国人としては難しい人間関係とは無縁で気楽だが、当人たちはそうでもないであろう。地方において、文化遺産を継承してゆくということは、そういうことであろう。

 レンヌの場合、アーカイヴの管理と蓄積、大学の出版会による情報発信など、文化インフラはとてもしっかりしている。であるから人口20万人ていどの小都市でありながら、日本の100万人都市以上の文化発信ができている。

 さて写真はそのペランが建設した20世紀初頭の住宅。地質学的にブルターニュ地方は花崗岩に恵まれており、それを使うことが地域性の主張となる。また屋根や窓のピクチャレスクな配置も同様である。このようにデザインによって地域性を表現するとは、批判性云々とは正反対のとてもベタなものとなる。このことが批評性を求める(とくに日本の)建築史研究者を遠ざけることになるのであるが、そこは料理の仕方であり、なんとかいいアプローチを考えたいものである。さらにいえば花崗岩云々は、近代人が再解釈した地域性である。なぜならレンヌの都市的伝統を考えるならハーフチンバーの都市住居こそが伝統なのであって、花崗岩をぜいたくにふんだんに使うということは、近代ブルジョワか中産階級の豊かな部分の人びとの、まさに近代的意識によって遡及的に再構築された地域性であり伝統性であることは容易に想像できる。

 敷地の場所は、歴史的中心街からはすこし外周にあたり、20世紀初頭に形成された戸建て住宅地である。現在は集合住宅のほうが多い。しかし郊外と呼ぶには都心に近く、小都市ならではの距離感である。戦後はさらに都市域は拡大し、周辺市町村と都市共同体を形成し、現在のレンヌ=メトロポリスの形成にいたっている。

 既存の都市からつかず離れず若干の距離を保った敷地に、地域の素材であることは確かだがではどれほど伝統を担ってきたか検証しなければならない花崗岩の住宅、という2重の意味の、微妙な距離。それはコンパクトな伝統的都市が、20世紀になってすこしずつ融解してゆくプロセスのなかで、逆説的に、ひとつの都市であることを再構成しようとする試みであるように思える。

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近代建築におけるスイミングプールの位置づけ

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まず写真はレンヌ市にある公営スイミングプールのひとつである。ちなみに英語でスイミングプール、フランス語ではピシーン(piscine)。マニュエル・レという名の地元建築家が1925年に建設したものである。浴場、サウナもあり、いまでも営業している。アールデコの時代を反映して、多彩色タイルにより、水の精、流れ出る水を直截にあらわしている。内部は白いタイルである。構造はもちろんRCであり、時代の最先端の構法によりできている。

 1920年代に確立されたと思われる近代的な水泳プールの概念と制度の背景として、いくつか遠因が考えられる。まず普仏戦争における敗北、1870年代における世俗の初等教育の確立、さらには19世紀後半に鉄道が開設されてブルターニュ、ノルマンディ、ギエンヌ、地中海沿岸などで臨海型リゾートが広まったことなどであろう。より直接的には、近代オリンピックの種目として水泳が採用されたことも忘れてはならない。また第一次世界大戦の戦死者は、兵器によるもののほか、病死が多かったことから、衛生思想の徹底が求められたこともある。

 私見ではこの衛生思想の発展が大きかったと思われるが、これだけを単独でとりだすことはできず、20世紀全体のライフスタイルの変更という流れのなかで見なければならない。たとえばソーシャル・ハウジングでも、各戸にシャワーなり浴室があるのがミニマム、という考え方ができたのがこの頃であった。だからプールもそこで泳ぐだけでなく、まずシャワーを浴びること、入浴すること、サウナにより北欧風の衛生観を知ること、など衛生思想の教育機関でもあって、この点で同時代の住宅概念と根底のレベルで共通している。全体として、それまで健康だの衛生だのには無頓着であったフランス国民に、それらの重要性を認識させ、生活のなかで実践させる大がかりな啓蒙プロジェクトであった。

 アンリ・ソヴァージュのパリ6区の集合住宅にもプールがあったではないか。いっぽうアドルフ・ロースによるジョゼフィーヌ・べーカー邸はこの衛生思想という建前をエロティシズムによって軽妙に裏切ろうとするプロジェクトであった。ちなみにパリ13区には彼女の名前が冠された公営プールが実在する!・・・だからレム・コールハースが『デリリアス・ニューヨーク』のなかで水泳に耽るメトロポリス住民を描き、自身も時差解消のために泳ぐのは、堂々たるモダニティの継承である。

 そういえば私自身も戦後における水泳熱の最後の洗礼をうけており、大学時代は武蔵大学のプールを借り、留学時代はポール・シュメトフ設計のパリ・レアール地下街の公営プールで泳いでいたし、最近ではふたたび健康と時差解消のためプールがよいをはじめた。

 前述のレンヌ市公営プールは、20076月の調査旅行のさいに利用した。プールの長さが33メートルほどなのが興味深く、当初は25あるいは50メートルという規格、あるいは競泳用プールという概念はオールマイティではなかったのであろうし、確認していないが100尺ということなのかもしれない。ここは計5回ほど利用した。パリ市内では、前述のレアール地下プール。あるいはイタリア広場の南あたりにある、やはり20世紀初頭のRCアーチ+レンガ化粧の遺産もののプール。15区ブロメ通りにある50メートルプール。公営プールはきわめてきめ細かく配置されている。しかし公共サービスの充実、などと喜んでもいられない。20年前留学生であったころ、貸部屋にはシャワーがなかったのでフィットネスとプールに通わざるをえなかったように、パリ市内には衛生設備が欠如した住宅はかなりの割合にのぼる。そうした住民がプールを利用することは、今では相対的に少なくなったはずだが、かつては多かったはずである。最近は、衛生というよりレジャーという由緒正しき使用法に重点が移っている。「アクア・ブールバール」はプールを中心にすえた都心型総合レジャーセンターである。個人的に気に入っているのは、旧市場を改装した地下プールである。スノッブな町中なので、(すくなくとも朝は)おとなしい中高年しかこない。ただし中年の水着姿を見せてもしかたないので、場所は教えられない。最後に、パリ市内の公営プールは朝7時からの営業であり、仕事前にも楽に泳げる。こうしたきめ細やかな公共サービスはこちらならではである(パリにて書いている)。

 

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『レンヌの歴史』クザヴィエ・フェリユ、2001

Img_4738 Xavier Ferrieu, Histoire de Rennes, Editions Jean-Paul Gisserot, 2001(127p)

学生向けの新書版といったところだが、120数頁しかなくすぐ読み終わるところが外国人にはうれしい。著者はレンヌで1952年生まれ、イル=エ=ヴィレーヌ考古学歴史協会の会長を勤めたのち、レンヌ市図書館勤務である。ということはポルツァンパルク設計の文化施設勤務なのだろうか。

コンダーテと呼ばれていた古代から、市政体が確立した中世初期、15世紀末から16世紀のフランス王国への統合、18世紀の大火復興、などバランスよくミニマムな必要は満たしつつ淡々と読ませる。

歴代の公爵、市長、州長官の系譜を略記しながら、つまり上からの歴史のようなスタイルを踏襲しながら、それでもいわゆる政治史はなっていない。しいていえばプロジェクト史とでもいおうか。著者はとくに建築や都市計画の専門家ではないが、基本的に、都市がプロジェクトの集積として成立していることを、おそらく自覚的ではなく当たり前に、前提としているのであろう。

 すなわちヴィレーヌ川は、運河として整備され、今日では一部は暗渠となっている。しかしすくなくとも17世紀以降、自然のヴィレーヌ川が河川運行には不十分であってそれを運河としてインフラ化すること、またこの川を挟んで都市の北半分と南半分では経済的に格差が大きく、階層による棲み分けが問題とされていたこと、などの懸案があったこと、そして18世紀にロブランやガブリエルがその方向で整備を提案し、第二帝政でそれらの懸案を解決したこと、などが淡々と描かれる。都市はプロジェクトがつぎつぎと追記され積層されてゆく場なのである。

 戦後についても1957設立のブルターニュ整備設備混合経済公社の代表される近代化の時期、都心部の35ヘクタールにわたる保全地区の指定、1970年の市町村連合の成立による広域都市計画の策定、1977年以降の歴史的地区の保存方針、1999年にはレンヌ=メトロポリスへの概念拡大と、都市計画そのものの歴史が簡素に描かれる。

 日本の都市計画家の言説を読んでいつも不満に感じるには、現時点での最終の制度なり法規しか重要でないと考えているふしがあり、すくなくとも、そのように語っていることである。都市は、さまざまな時代の、目的のことなる計画の集積である。それぞれの時代の都市計画の意図が明確に認識され、歴史のなかに位置づけられるべきであろう。建築はそのなかで豊かに位置づけされなおされるであろう。

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Champs Libres, Rennes レンヌの多機能文化施設(建築家はポルツァンパルク)

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 ポルツァンパルク設計の「自由の野」と名付けられた、図書館、書店、博物館、科学館など多機能文化施設である。もともとこの地域は練兵場(Champs de Marsシャン・ド・マルス)であったが、その敷地が「シャン・リーブル」と名付けられたのであった。現在、レンヌ市では駅前の再開発が進行中であり、この建物もその目玉のひとつ。ほかには青少年センター的なものとか、とにかく若者向けの事業である。なんでもレンヌは「フランスで最も若い都市」とフランス人が指摘しているように、人口20万人のうちの6万人が学生である。レンヌはとくに産業はなく、16世紀以来、地域あるいは州の首都としての政治的重要性によって生き延びてきた。だから若者を集めることはこの都市の生命線のひとつである。だからこのような施設なのである。

 すぐ裏には、赤い石でできた邸宅がである。ブルターニュの地方性とは「花崗岩」と赤い「砂岩」である。この住宅は典型的なブルターニュの19世紀といえる。ポルツァンパルクは、このような赤い砂岩を利用することで、地域の景観をなじませ、地域の伝統を継承してみせたのである。地域主義とはある特定の時代にあるのではなく、このように、プロジェクトがおかれた政治的あるいは文化的あるいは社会的状況のなかでいつでも発生するのである。とくにレンヌは伝統的に地域主義について自覚的であり、こうした背景があって建築家はこの伝統の素材を採用したのであろう。

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 多機能だが内部空間は読解が容易である。この地上階ですべての目的地が明示されるようになっている。ここは建物の内部でありながら、都市空間であるといえる。図書館部分からは外が眺められる。机はすべてカンチレバーで張り出した窓際にあり、レンヌ市の都市景観を眺めながら読書することになる。なお6階は「文化遺産patrimoine」の階であり、ブルターニュに関連した、歴史、地理、地方誌、建築、ツーリズム関係の書籍が並べられている。

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2007.06.28

イル=エ=ヴィレーヌ県公文書館

Img_2576_2Archives départementales d'Ille-et-Vilaine, architecte: Jean-Marc Ibosである。 この公文書館へは建築見学ではなく調べごとでいった。2007年6月中旬である。旧施設は市内にあって、市公文書館のすぐ隣であったので効率よく調べられるとおもっていたら、引っ越しの直後であった。レンヌ都市共同体をかこむ環状道路のすぐ外側にあって、周囲も集合住宅などぽつりぽつりと建っているが、まだまだ街にはなっていない。地下鉄とバスを乗り継ぐことになったが、便数は多く、ホテルから30分ほどであった。

 正式には7月開館であるが、6月でも利用させてくれた。スタッフも好意的で、図版などは原則としてPC上でしか見せられないが、オリジナルをみたいというと責任者が特別許可をくれた。WEBはまだ準備段階で、館内の常設PCでは検索閲覧可能であるが、外部あるいはインターネットにつながるのは7月からだという。

 建物である。アプローチには庇はなく、朱色の斑点が舗装から外壁やドアにまたがって描かれており、それとなく入口を示唆している。この色はパーキングのマークにもつかわれている。アクセスの色ということか。 

Img_2567_1  個人ロッカーはハンドルを回して操作する可動式集密書架とおなじもので、ウィットに富んでいる。人が挟まれないよう、身長よりは低くしてある。内装はダークなので、ロッカーと椅子などは多彩色である。閲覧室は、屋根はすべてガラスで、日光をセンサーが判断して自動的にブラインドを開け閉めしてくれるが、その音がうるさい。テーブルは両側で20人ほどが使える巨大なもので、ステンレス一枚板である。公文書を扱うには摩擦がなくよい。また天井からの自然光を反射して気持ちがいい。カゲのない内部空間である。

Img_4087_1   素材、光の使い方など、ジャン・ヌーヴェル的であることは否めない。郊外のあっけらかんとして空疎であるこの公共施設に、こうした意図的な緊張感は必要なのかどうか。たとえば閲覧室は、どうみてもパラッツォの中庭をアトリウムとしたような例を思い出してしまうのであり、強いていえば都市建築の空間である。ということはコンパクトであった中規模都市が、ペリユルバニザシオンとよばれる動向のなかで、きわめて疎な外周をもつようになったここ30年のフランス都市のなかで、ほんとうに郊外にふさわしいというような公共建築の良質の例はまだ少ないのではないか。日本とは逆で、建築とはすぐれて都市建築であったフランスで、宮殿ではない、疎な建築というものが空白域となっているのであろうか。

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metroを読んで

パリのメトロで配布されているmetro紙(07年6月28日)を読んだ。Vélo'vなる、共同使用の自転車である。リヨンではすでに2年前からはじまっている。大リヨン(リヨンを中心とするコミューンのコミュニティ、自治体連合)が主体となっている。国は道交法を改定するなど対応すべき、対応しているが、積極的に自転車促進ということでもない。あくまで自治体が主体。リヨンでは7万人が登録ずみである。盗難、修理はそれに比例して増える。2006年は盗難が400台、修理が350台。利用形態は、男性が朝通勤に使うのが大部分で、まだまだ「メンタリティが変わらねばならない」。自動車信仰はまだ根強い。オランダ、ドイツ、北イタリアなど自転車先進地域ほどは進んでいなく、しかしイギリスほと自動車一辺倒ではなく、フランスの諸都市はそこそこ、という自己評価である。そういえば6月中、レンヌでもパリでも駐輪施設が整備中であった。パリでは2007年7月15日からパリでも利用可能になる。とりあえず1万台準備する。特別仕様である。重量22キロ。頑丈。ワイヤなし。照明完備。カゴ付き。3段変速。・・・など。パリでは10年以上前から自転車の日というのかしらないが、道路を自転車に完全解放する日があったが、今日では自転車専用レーンも増えて、より便利になるのだろう。しかし自転車のデザインがタウンスケープの重要なエレメントとなるはずだが、色、形ともいいデザインとは思えない。

metro紙のもう一件。大学改革。フィヨン内閣はバレリー・ペクレス高等教育研究担当大臣のもと、大学改革案を提出したが、それをすこしゆるめる方向。学士から修士に進学するときに、学生を選抜するという方針が撤回された。大学の財政的独立性というものがより選択的となった。運営会議のメンバーは60人から20人に減らすつもりだったのが、30人となった。教員組合もこれは許す見込み。もっともこの改革で、エリート校と特定職業に結びついたプロ養成校との分化がよりはっきりするという論調もあった。フランスでは教育改革は年中行事なのであるのでとくに驚かないのだが・・・・

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