カテゴリー「東方旅行(2)エジプト」の12件の記事

2008.03.30

東方旅行(043-048)1988年1月11日(月)~16日(土)/カイロでの無為な日々

カイロで無為な日々をすごした。

1988年1月11日(月)(東方旅行043)

夜行列車は正午にカイロ到着。日本大使館を探したが見つからず。旅行案内、郵便局、市役所、市内地図などはまったく役にたたず。宿泊はHotel Beau Site。ツインの部屋を独り占め。朝食付きで7£。

1988年1月12日(火)(東方旅行044)

日本大使館はカイロ・センター・ビルの3階にあることが判明した。住所、電話番号を調べる。旅行代理店Misr Travelに所用。日本航空オフィスはナイル・ヒルトン・ホテルにあった。ヨルダン大使館にでむいて問い合わせる。ヴィザには日本大使館の紹介状と、証明写真2点が必要とのこと。なのでつぎに日本大使館にでむいて、紹介状の申請などをする。支給されるのは13日の9時以降である。

アメックスのオフィスに送ったはずの郵便物をとりにゆくが、到着していなかった。

しかたがないのでエジプト博物館を見学。入場料1.5£、写真撮影許可料5£、ガイド4£。うっとうしくなるほどのコレクションの豊穣さ。ピラミッドの模型。

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情報収集。カイロから、シナイ半島陸路で、Ste.Cathrine経由でヨルダンにゆくルートを調べる。カイロからシナイ半島先端のリゾート都市シャルム・エル・シェイクまで8時間。そこから修道院まで片道6時間。ヌエバまで3時間。そこから船でヨルダン領アカバにゆく。また連絡船経由でのカイロ/アンマン往復バスは1日2便あるという。

1988年1月13日(水)(東方旅行045)

朝一でヨルダン大使館。日本大使館に発行してもらった紹介状を添付して、9時30分に申請書を受理してもらう。当日13時に発行してもらう。きわめて順調。

郵便物を投函。

Misr Travelにいってアンマンまでのバスを調べる。ミニバス33番でオペラ広場からアベセ広場へ。そこにSinai Internationalという代理店があって、そこに問い合わせた。しかしアンマン行きのバスは、ヘリオポリスのイスマリア広場に移ったという。そこで新しいオフィスまでの行き方をごていねいに書いてもらった。メトロを乗り継いで、その新しいバスステーションにいくと・・・・「アンマン行きは2月2日まで満席ですよ」。まあアラブ式交渉術を展開してもよかったのだが、このときのぼくは疲れすぎていた。

そこで結局、ナイル・ヒルトン・ホテルに戻って、エジプト航空のチケットを求めた。明日でも出発したかったが、すでに満席。最短の16日(土)15時の便を予約した。片道120£=60US$=8000円ていどであった。

1988年1月14日(木)(東方旅行046)

航空券を確保すると、もう気分はヨルダン。エジプトに用はない。すると疲れがどっとおしよせる。一日中休息。こなした用事はたたひとつ。エクタクローム(ASA200、36枚どり)を10本購入した。115£であった。1本あたり5US$=600円ていどと安い。

1988年1月15日(金)(東方旅行047)

一日中休息。

1988年1月16日(土)(東方旅行048)カイロからアンマンへ

バンク・オブ・アメリカは閉行であった。場所は忘れたが40米$を現地通貨に、ドルのTCを現金に両替した。もういちどエクタクローム(ASA200、36枚どり)を10本購入した。さらにおみやげのエジプトのカラースライドも購入。

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観光当局は近代化したカイロを見せたいのであった。

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でも崩れかけた建物、現代用語でいえば遺産クラスの建物が崩れているそばでたくましく生きる人びと。偽善より素直な真実のほうがいいねえ。

カイロ空港にて、「ホテルは見つかった?」「これからアンマンにゆくんだけど」「ああ!いってきな!」。荒涼たるシナイ半島を上空から見学。15分ていどですます降下は乱暴で、なんども腰が浮いた。

着陸。空港で両替。60US$=20,190JD。ということは1JD=3$。バスで空港からバスターミナル。そこからさらにタクシーでホテルへ。「ホテル・イラク」。ツインを一人占め。シャワー、暖房完備。すばらしい。一泊2500JD=1000円ていど。部屋はカイロにくらべるととてもきれい。気温はたいへん低い。ホテルのおやじが石油ストーブをもってきてくれる。

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2008.03.28

東方旅行(042)1988年1月10日(日)ルクソール

今日は日曜日である。前稿では金曜日と書いたから辻褄があわない。要訂正。

それはともかく20年前の日曜日、ルクソールは快晴であった。いっぽうぼくは疲労困憊していた。じんましんがでて、お腹の調子も悪かった。ナイルは静かに流れ、おおくの観光客を運んでいた。ほとんどが外国人である観光客も、エジプト人たちのように、それぞれの仕事をするのであった。

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ルクソール神殿。起源は中王国時代。ハトシェプストとトトメス3世のころには礼拝堂があった。花崗岩でできていた。パピルス柱で飾られていた。

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ラムセス2世は大中庭を、その北側に建設した。それによって前身礼拝堂はなかば埋もれてしまった。

アメンヘテプ3世はさらに増築し、現在あるような建物とした。

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ナイル川東側にあり、スフィンクス参道にそって北側からアプローチする。北側にあるカルナック神殿から、アモン神がその参道づたいにやってくる。この神にとってそこは南のハーレムであった。この南の神殿では、アモン神は生殖の神であった。「誕生の間」なるものがあって、ファラオが神によって誕生するということが、この間に表現されていた。至聖所の周囲はエロティックなレリーフで満たされていた。

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開花式の円柱がならぶ通路。柱の高さは15mにもなる。ただここは左右に一列あるのみ。そこをぬけると正方形の中庭。パピルス柱に取り囲まれている。中庭の南側にあるのが入口の広間、ここは一種の多柱室である。それから「供物の場」とさらに「聖船の間」。これは回廊で取り囲まれており、入れ子状になった建物内の独立した小さな建物である。さらにいちばん奥の「至聖所」のは三主神がならぶ。

敗因。今回の旅行はガイドブックの限界。ホテル、旅行関係のみで、文化欄が貧弱であった。フレッチャーも観光には役立たない。ひとつひとつの部屋がなんなのか、書いていない。日本にもどってブルーガイドを大量購入するか。

エジプト人は日本人には人なつっこく話しかけてくる。

博物館は、展示は貧弱であったが、場所はよかった。

レストランLimpyはよかった。シェフはフレンドリーで礼儀正しい。

夜9時30分発のカイロ行き列車。2等。4.50£なり。安眠は最初から期待してないけれど。

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2008.02.23

東方旅行(041)1988年1月9日(金)テーベにて(2)王家の谷

 今日もルクソールからテーベにかよう。レンタサイクルを利用、「王家の墓」見学である。犬にもおぼえられてしまい、吠えながら追跡される。

 篠原一男がいっていた、窓のまったくない、黒の空間を思い出す。プラン的にはかなりにている。しかし違うのは、ファラオの墓には柱があるということだ。外部のまったくないこうした自律的な空間にとっては、柱があり、それが背後のわずかな空間を隠し、そのことによって経時的な体験をうながすということが、顕著な特質となっている。

 セティ1世の墓。修復中で入れず。このファラオは紀元前13世紀に統治した。セティとはセト神に捧げられた、という意味。

 セト神は砂漠と異邦の神。力、戦争、嵐、偉大さなどを象徴している。下エジプトの支配者であった。オシリス神の重要性が増してくると、この兄オシリスを殺害する悪役をになうようになる。セトはホルスに復習され殺される。これは上下エジプトの統一を神話としたものである。第19王朝になるとセトは復権し、「セト神によるファラオ」としてのセティ1世が即位する。

 ラムセス9世(BC1156-1136)。第20王朝の8番目のファラオ。王家の谷が盗掘の嵐にあったので、安全対策などを講じた。彼の建設事業はよくのこっている。ヘリオポリスの太陽神殿の建物群。またカルナックのアメン神殿の第7パイロンもこのファラオによる。

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 ラムセス9世のミイラは1881年、デル=エル=バハリえ発見された。しかしその墓は古代にすでに知られていた。壁画にはローマやギリシアのものが残っている。「スポイト状」トンネル形式の墓で、すでに伝統的なものであった。彼の自分の墓を、偉大なるラムセス2世の対面においた。

 ラムセス3世(統治1186 to 1155 BC)。平面図と断面図は、奥に奥にすすんでゆく地下空間を示している。しかしぼくのパースからわかるように、食い違い、階段、などをつかって、奥行きそのものを分節化している。

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  トトメス3世(BC1504-1450)の墓。ファラオの生没年はフレッチャーに準拠しているが、これは情報源によって異なる。トトメス2世と側室イシスの子として生まれるが、ハトシェプストが女王となったので、その没後やっと王になった。この墓は1898年発掘された。トトメスとは「トート神の造ったもの」という意味である。ハトシェプストの陰に隠れていた時期に高度な軍事能力を身につけ、エジプトの領土を広げた。

 これも奥に奥にではあるが、ひとつの軸線上に並べるのではなく、ランダムな角度で異なる部屋が連結されている。前室のは柱が2本ある。右のものが軸線の回転をもたらしている。

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 ぼくの手書き平面図はかなり精度が高い。とくにコンベックスで計ったわけではない。建築修行の成果であった。

 セティ2世(在位BC1203-1197)の墓。19王朝第5代ファラオ。

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 Amenophis2世。軸線が90度、回転している。この運動をもたらしたのが、2柱の間の、右の柱であることは明らかだ。

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 以上です。 

 長い東方旅行のなかでも、今日は一枚も写真をとらなかった数少ない日。移動日だから撮影しなかった日はいくつかあるが、たくさん遺構を拝見しても撮影しなかったのは今日だけではなかっただろうか。

 それにしても赤外線測量器はおろか、ローテクな定規も巻尺もつかわず、ちゃんと平面も断面もとらえている。たいしたものだ。20年もたつと別人ですな。

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2008.02.17

東方旅行(040)1988年1月8日(金)テーベにて(1)

 1988年1月8日はルクソールを拠点にしてテーベ見学。駅のすぐ前のAmonホテルは一泊4£。レンタル自転車は一日2.5£。連絡船でナイル川を渡ったような。

 テーベのランドスケープははっきりしている。地図をみると、植物が育つボーダーが、破線で書いている。だいたいのラインであろうと思っていた。現地にいくと、まさに地図のとおり、植物が生育できる地帯と、不毛の土地は、まさに一線で隔てられている。グレーな中間地帯はない。生か死か。豊饒か不毛か。厳格な二者択一である。下の地図にはその生育ゾーンを緑で示した。そこではサトウキビが育てられていた。そして豊饒/不毛のボーダー上には、葬祭神殿がならんでいた。王家の谷などの、純粋な埋葬空間は不毛の土地の奥深くある。やがて葬祭神殿から墓が分離し、谷にこもってゆくのもわかるランドスケープである。

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(1)メムノンの巨像。これはアメンホテップ3世の葬祭神殿の入り口を示すもの。フツー。

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(2)メディネト・ハブにあるラムセス3世の葬祭神殿。BC1197-116。オシリス柱、開花型の柱頭。天井の彩色。セティ1世、ラムセス2世(ラムセウム)とともに南北に並んでいる(上に地図では赤のグリグリでマークしてある)。神殿を中心とする巨大複合施設であって、倉庫、宮殿、神官と労働者の居住区などからなっていた。多くの捕虜も収容されていた。テーベの広大なネクロポリスを管理する中枢のような機能を果たしていた。神殿としては、多柱室、聖舟室、アモン神至聖所がある。最後の部屋の左右には、ムート神、コンス神の祭室があった。

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(3)デル・エル=メディーナの集落。トトメス1世(BC1505-1493)が建設した職人の町であった。最盛期には人口400人。一戸の敷地は間口5メートル、奥行き15メートル。平屋。墓は、彩色がよく残っている。プトレマイオス朝時代の神殿。入り口は石造。そのほかの部分は土造。とくにおもしろくない。住戸は、断面が特徴的で、中央に柱のある居間は、ほかの部屋より天井が高く、高窓から通風と採光ができた。

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(4)ラムセウム。ファラオのなかでもとくに著名なラムセス2世の葬祭神殿。かなり破損している。しかし4体のオシリス柱が印象的である。居住部分は、土造のヴォールト天井であった。斜めに積んでいる。

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(5)デル=エル・バハリ

 ハトシェプスト女王葬祭殿。BC1490-1466年。右側の神殿の、下の部分のみ入れる。上の中庭には入れなかった。女性の頭をかたどった柱頭。ドリス式のようなコラム。修復状態はよくない。20年前、神殿は修復中であった。女王の父トトメス1世は、墓と葬祭神殿をべつべつに建設することを考え、建築家イネニに墓の採掘を担当させ、まったく秘密裏に墓を掘らせたとされる。ファラオたちは同じ谷につぎつぎと自分の墓を掘った。そこはそののち「王家の谷」と呼ばれるようになった。女王は、葬祭神殿を建築家センムートSenmut(女王の家庭教師であった)とトゥティThutiyに建設させ、墓はアプセネブに掘らせた。神殿は上下3層のテラスからなり、墓も複数の部屋からなる。さまざまな神が祭られているが、中心となるのはアメン=ラーである。・・・墓の機能を分離したこの葬祭神殿は、それまでのものとまったく異なるデザインとなっている。背景の山と一体となっているが、この山こそがその背後にある王家の谷を隠しているのだから、山や谷といった地形全体を神聖なものとして指し示しているかのようである。

 メントゥホテップ神殿は保存状態よくない。違う色の石をつかっており、まったくそぐわない。失望。

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(6)セティ1世(BC1291-1278)の神殿。どの文面をあたってもあまり詳しく紹介されていない。じっさい保存状態は悪い。しかし簡素でミニマリスム的である。

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2008.02.13

東方旅行(039)1988年1月7日(木)アスワンからルクソールへ

 冬休みが長すぎたせいで、とうとう東方旅行の日付を追い抜いてしまいました。ほんとうに時は疲れを知らない子供(古いね!)のようです。さて久しぶりに旅行アルバムの虫干しをしなければ。

 とりあえず20年前にタイムトリップ。1月7日はなにか特別な日だっけ?Remember the time・・・. 一日としては長旅であった。ホテルのおやじに相談して、スペシャル・タクシーを呼んでもらった。アスワンからルクソールという長征である。240キロメートルの行程。60£也。途中でコム・オンボ、エドフ、エスナに止まって、それぞれ50分(正確な数字は忘れた)待機してもらい、ぼくは神殿を見学する、という契約である。約束の時間にはきっちりタクシーに戻るのだが、運ちゃんはせかすせかす。

 古い宗教建築には共通していえるのだが、本来の姿と、遺構とはまったく違う。もともと宗教建築はまったくバーチャル・リアリティの建築であり、色鮮やかな彫刻、レリーフ、壁画、などによって彼岸の世界をもたらす。しかし時がたってこれらの装飾が色あせると、構造体が露出する。それは構造、空間の骨格をはっきり示す、別の価値観をもたらす。それは建築的な価値観ともいえる。しかしそれは本来のものではない。エジプトでもそうなのだが、圧倒的な物質の力のまえに古代人とは別の幻想を見てしまうのである。

 コム・オンボにはセベク(Sebek:頭がワニになった男神、プトレマイオス朝時代にギリシア神話のヘリオスと同一視される)とハロエリス(Haroeris:ハヤブサ頭の男神でホルスの地域名)の神殿。紀元前145年~後14年。二神のために、入口、至聖所が左右に並ぶ。中央にアプローチがないのでなにかうっとうしい。珍しい形式である。しかも周歩廊も二重である。

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 エドフにはホルス神殿(紀元前237年~57年)。至聖所をとりかこむブロックを、さらに周歩廊がとりかこむ。儀式行列がなされるためである。棕櫚などの形をしたさまざまな様式の柱頭が華やか。厳格で死と彼岸を連想させる建築でありながら豪華である。

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 エスナの神殿は遺構といっても、ほとんど残っていないぞ。・・・とはいってもここだけ見ればすごい遺跡だろうが、今日三つ目となるとね。見過ぎに注意しましょう。

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 そしてルクソールに到着。さよなら、運転手のお兄さん!駅にいってルクソールからカイロまでの切符を予約する。4.5£也。ホテルの部屋も確保。Hotek El Asalem。一泊3£。でもひどい部屋。ほこりだらけで、クモの巣も。さすがに夜になって部屋を変えてもらった。今度は5£。トリプルを独り占めである。ここも汚い部屋だが、ともかくも息ができる。でも明日はまた部屋を変えよう。少し高くとも心安らかになれる部屋に。

 今日は盛りだくさんである。宿を確保して荷物をあずけると、残り時間でカルナック見学である。いわずとしれたアメン・ラー神殿とコンス神殿。段階をおって建設されながら、構成原理が一貫しており、統一性をしっかり保った複合的な神殿である。そうした場合では、壁で囲まれた部屋がたくさんならんでも大建築という雰囲気はしない。ここで偉大さを示しているのは、ひたすら柱、柱、柱・・・である。多柱室。歴史上いくつかの印象的な多柱室が建設された。アメン・ラー神殿(1530-323BC)のものは、柱が膨らみ、空間を圧倒している顕著な例である。アメンは太陽神、もともとここテーベ地方の豊饒神。アブシンベルにもアメンは祭られているが、ここが本拠である。

  多柱室は中心軸の上が高くなって、ハイサイド・ライトとなっている。これは教会堂の身廊のようなので、クリアストーリーなどとも呼ばれる。おそらく、暗い室内に光がさまざまなニュアンスをもって導かれる印象的な光景があったはずである。

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 これにたいしてコンス神殿(コンスは月神)は、小規模で、バランスがよい。でも光がはるか上から降りてくるといった感激はないだろうね。

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・・・でも今日は見すぎだね。いや満腹。朝昼晩(それにおやつまで)ステーキいただいてどうするのかね?

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2007.11.30

洞窟について、あるいは『ねじまき鳥クロニクル』

 前の投稿ではアブー・シンベルの神殿における積石造/石窟造の対概念について言及した。すこし補足したい。

 ルクソールについてもあとで触れるが、その石を積み上げた神殿もまた、中庭、多柱室、至聖所という部屋の並びがみられる。これはエジプトの神殿建築では普遍的なものである。しかし至聖所の空間はそれ以上に、他の宗教建築でも類例がみられるという意味で、より普遍的である。つまり明らかにそれは洞窟として建設されている。現実には石を積みあげたものであるにもかかわらず、「洞窟として」建造されている。

 もちろん中庭、多柱室、至聖所という形式は地上に構築される建築の形式である。石窟神殿はその形式を、岸壁に彫り込んだものである。しかし地上の建築の形式が、そもそも石窟に由来しているとしたら?そこに建築の循環論法が成立しているのではないか。

 もちろん実証主義的歴史観にたって客観的にどちらが原型であるという指摘もできよう。専門家でないぼくにはその指摘はできないにしても。しかし最初の神殿建築が、積石造であるにせよ石窟造であるにせよ、もし最初の建築家がそのモデルとして異なるものを選んでいたら?そこまで踏み込めば、「原型」は不可知である。

 そうした原型遡及理論はそれほど興味をいだかせない。古代において建築がすでに成熟し、建築家がそれなりの理論をもって建造した時代になにがおこっていたか。それは積石造と石窟造とがおたがいにメタファーとして意味を付与しあう相互関係である。

 このことが建築の本質ではないか。ある建築は、異なる建築のメタファーでありえるということは、そしてそれらが相互関係にあるということは、建築を規定する初源的なあるいは基定的なものはない、ということだ。だとしたらロジエの原始的な小屋も、ル・コルビュジエのドミノも認識論的な誤りである。そうではなく建築が成立する構図があるとすれば、それは多元的なウロボロスの蛇なのである。

 そうしたなかで、そうはいっても個人としてなにか出発点から始めるしかないとしたら、どういうアプローチが可能であるか。

 ぼくがアブー・シンベルを見学したのが1988年。とりたてて運命の符合などをとやかくいうつもりはないが、その4年後に村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』を出している。

 この小説のなかではなんども井戸が描写されている。最初は旧日本軍兵士が外蒙古兵とロシア兵に井戸になげこまれ九死に一生を得たエピソードとして。二回目はその体験談を聞いた主人公が、思索のために近所の井戸に降りていって、あるトラブルから脱出するのに苦労する話。第三は、プールで泳いでいて突然、井戸のなかにいて啓示を得るという幻想を体験する話として。

 その幻想として逆転する井戸が体験されている。つまり井戸の底に落ちた主人公は、世界の底にいることになる。しかしあるとき「じっと開口部を見上げていると、いつのまにか頭の中で上下の位置が逆転して、まるで高い煙突のてっぺんからまっすぐ底を見下ろしているみたいな感じがした」(第2部予言する鳥編、文庫本版353頁)のである。

 それは神聖なるものの発生であろう。いやそればかりか神聖なるものを根拠にして空間を反転させているともいえる。エジプト神殿は洞窟として設計されている。そしていちばん奥に神が設置される。するとそこで逆転がおこる。世界のいちばんの奥は、いちばんの頂上なのである。まれに太陽光が洞窟の奥まで射し込むとき、末端まで光が届くという現実は反転し、神が太陽を呼んだという構図が発生するのである。

 プラトンによる洞窟に比喩によれば、その奥はイドラの世界であり、仮象が支配する世界である。この比喩は光の直行という仮説上になりたつ。しかし光が逆行することもありとしたら?

 おそらく、客観的には存在意義が薄いと判断されるかもしれない生身の弱い人間が、世界のなかで存在意義をみいだすとすれば、なにかを反転させなければならない。

 

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東方旅行(038)1988年1月6日(水)アスワン周辺

 1988年1月6日(水)はアスワンを拠点にショートトリップを2往復である。20年前の旅行紀は、自分で書いたものなのに、生き生きとした経験は浮上しない。やはり感動が薄かったのであろうか。

 なにはともあれまず、アスワン発アブー・シンベル見学のツアーである。15L。ほかに6人のツーリストがいた。もちろん知らない人びとであった。沙漠のなかを乗り合いタクシーでひたはしる。蜃気楼はじつに劇的である。タクシーで沙漠のなかを進むが、タクシーを中心として半径300メートル以遠はすべて蜃気楼による海である。走っても走っても半径300メートルの砂の島にいる。運転手を信頼しているから気がおかしくならないだけである。

 アブー・シンベルそのものはまあまあ、という評価をさせていただきました。まあまあ、です。ナイルは南から北に流れ、太陽は東から昇り西に沈む。この自然の直交座標がエジプトのランドスケープと宗教を支配している。この神殿は、ナイル川の湾曲点に位置し、川にむかう崖にあった。日の出の方角を向いており、入口上部には太陽神ラー・ハラクテの像がある。

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 砂岩の岸壁からほりだしたもので、内部はテーベの神殿の平面に対応している。というか積石造であれ石窟造であれ平面形式は普遍的である。広間(=中庭)、正方形の多柱室、広間、至聖所、という順に、奥へ奥へと進んでゆく。至聖所にはテーベのアモン・ラー、へリオポリスのラー・ハラクテ、メンフィスのプタハ、そしてこの神殿の建設者ラムセス2世のそれぞれの座像がある。

 アスワン・ハイダムの建設で水没しそうになったのを、ユネスコが救済し、それが今日の世界文化遺産という制度となっていることはあまりにも有名である。その移築の話をするのも冗長というものだ。

 ここで思索を巡らすとしたら、こうだ。建築には積石/石窟というカテゴリーがある。後者はさほど多くないが、ペトラやアジャンターなど感動的な遺跡がある。この対概念でこの移築を解釈することは面白い。石窟神殿だが、それは積石建築の写しである。石を積んでつくったのではなく、穴を穿ったのである。しかし移築のために、クレーンでつり上げられるよう最大20トンのピースに裁断され、高い位置の敷地に積み上げられる。すると積石造となって再生された。・・・・といったいきさつはもちろん知っていたので、現地にゆくと、洞窟にはいってゆくスリリングな感覚はまったくなかった。悪知恵もこまったものだ。それでもここは、朝日が神殿内に差し込むのを体験しようと、1年のある日をめざして観光客はやってくる。

 つぎにアスワン発フィラエ。これはタクシーを呼んだ。島にゆくのに舟、これはけっこう値がはった。しかしベリー・グッドという評価をさせていただいた。ここにはプトレマイオス朝時代とローマ時代の神殿がある。

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 エジプトの聖地となったのは比較的遅いようだ。前4世紀ごろである。通説によると、フィラエはエジプトとヌビアの境界地帯にあるので、ここに聖地を建設することは、プトレマイオス朝やローマ帝国にとって政治的にも宗教的にも(ということはとりわけ戦略的に)重要であったようだ。 エレファンティン島には古い宗教があったが、フィラエはそれにかわってイシスとオシリスへの信仰が見られた。この島の洞窟にはオシリスの聖遺物が納められており、この洞窟が毎年の洪水をもたらす源であり、つまりエジプトの豊かさの根源なのであった。またイシスと子ホルスも、ヌビアでも崇拝されたいたという。このイシス神殿がこの島の主役である。長いアプローチ柱廊が印象的だ。

 この神殿はキリスト教の時代となっても信仰のよりどころとなっていたという。最初のダムができるまでランドスケープと一体となった聖地であったという。

 エレファンティン島には紀元前1408年建立の神殿がある。しかし現実にはなにもない。ヌビア人の村落があった。神殿の遺跡のすぐとなりには、ワラまじりの日干しレンガでできた住居の遺跡がある。石と日干しレンガ。神と人の差、階級の差、ほとんど文明の差である。

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 しかしこのように濃い一日をすごしながら、なにゆえ無感動なのであろうか。 

 宿泊はRosewanホテル。

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2007.11.24

東方旅行(037)1988年1月5日(火)カイロからアスワンへ

 1988年1月5日は火曜日であった。移動日でもあった。

 アスワン行きの列車はなかなか清潔であった。2等自由席はみんな紳士的に席を譲り合っていた。ぼくは予約をとっていたので、本当によかった。

 沿線の民家は、藁と土でできた素朴なものであった。たまにRCの軸組にレンガを充填したものが見られた。豊かである。

 ・・・などと反語的表現はやめよう。率直にいえば、どういうわけか異国にありて安心していられた。旅慣れたせでもあるが、やはりエジプト人の気質であろう。これはもちろん偏見であるのだが、栄光の過去がある民族は、態度も立派である、と感じた。道を尋ねても、必要なことを指摘してすぐこちらを解放してくれる。

 アスワンには4時15分着。宿はRosewan Hotelであった。このホテルではツアーを提供している。たとえばアスワン→コム・オンボ→エドフ→エスナ→ルクソールで60£である。

 ・・・エジプトというのはぼくにとって鬼門であって、どうしても関心のボルテージがあがらないのである。ルネサンス以来の古代人の英知というイメージ、たとえばヘルメス・トリスメギストゥス、新プラトン主義におけるヘルメス哲学の重要性、新古典主義における崇高の体現、影の建築、埋没する建築、死の建築としてヨーロッパの対局として位置づけられたこと、モーツァルトの魔笛にもフリーメイソンの着想があること、パリにもエジプト風モニュメントがたくさんあること・・・・などと、西洋建築を研究対象として選んだ者としては避けて通れないものなのだが、古代エジプト建築をまえにしてなかなか体温が上昇しない。

 ピラミッドと迷宮という対比があるように、エジプト建築は、建築のいっぽうの極である。極であるいじょう、それには達しないほうがよい漸近線なのであろうか。いずれにせよそれになじめないことこそが自己分析の出発点であろう。というわけで苦行がこれから続くのである。

 

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2007.10.14

東方旅行(036)1988年1月4日(月)カイロのイスラム地区(2)ファーティマ朝のアル・カーヒル

   1988年1月4日(月)の東方旅行(036)はカイロ市内の見学である。雨。イスラム地区の北半分である。べつにテーマ毎に見学しているわけではなく、便宜的に地理的まとまりで見学しているだけだ。しかし空間的まとまりにも歴史的な背景があるのはもちろんだ。前日のイスラム地区南部は、最初期9世紀のモスクであるイブン・トゥーゥーンと、19世紀の近代モスクを同じ日にみて、振幅の大きさに感銘をうけた。

 今日は北半分である。ここはファーティマ朝時代(969-1171)の遺構が多い。この王朝が「カイロ」の語源となる「ミスル・アル=カーヒラ」を建設したのだから、こここそが元祖カイロというわけであろう。カイルーワンを拠点とし、モロッコまでの北アフリカを征服したファーティマ朝は、エジプト征服という野望を実現しようとする。そのためにカーヒラの敷地として、軍事的にも政治的にも重要な場所が選ばれていた。

 ところでファーティマ朝の起源であるが、8世紀後半、シーア派の多数派イマーム派の第六代イマームこと、ジャアファル・サーディックが亡くなったが、その長子イスマーイールにイマーム位継承権があるとするイスマーイール派がそれである。すでに書いたとおり、チュニジアが発祥である。アッバース朝、後ウマイヤ朝(スペイン)にたいし強い対抗意識をもっていた。いわゆる3カリフ時代である。チュニジア・ファーティマ朝は戦略的な見地からカイロ(カーヒラ)を築いて、他のカリフに対抗したのであった。

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 さて都市カイロの設立である。第四代カリフ、アル・ムイッズ(在位952-975)の宰相ゴーハル・アル・シッキリ(シチリア生まれのギリシア人であって白人奴隷としてチュニジアに送られた)は、チュニジアのカイルーワンからアレクサンドリアまでの2000キロの道路を整備した。969年、大軍をひきいてカイルーワンを出発し、アレクサンドリアを無条件降伏させ、さらにナイルを渡ってフスタートを降伏させた。ゴーハルはフスタートの東北に場所をさだめ、そこをアル・カーヒラの敷地とした。都市建設の開始は神事であって、1キロ×1.5キロの矩形の輪郭にそって棒をたてて綱をはり、鈴をつるす。ゴーハルがクワ入れの儀式をおこない、同時に鈴を鳴らすと、綱を経由して順繰りに鈴はなり、それを合図に兵士たちが作業を開始するてはずであった。ところがカラスが綱に舞い降りてきて鈴を鳴らしてしまったので、兵士たちは合図を思いこんで仕事を始めてしまった。占星術師たちは困惑したが、ちょうど火星(アル=カーヒル)が上昇する時刻であったので、戦争、不幸という含意はいやだが、勝利者のといった意味もあるので、「アル=カーヒル」を都市の名前とした。以上が都市成立の逸話である。そしてカリフことムイッズの遷都は972-73年であった。

 当初、宗教的には寛容であった。ムイッズ、ゴーハルには人種や宗教の偏見はなかった。改宗ユダヤ人の宰相イブン・キッリスのもとで財政も順調になった。ファーティマ朝第5代カリフであるアル・アジーズ(在位975-96)のころは、キリスト教徒もユダヤ教徒もまだ優遇されていた。またファーティマ朝そのものはシーア派であったが、大多数のエジプト人はスンニー派のままであった。

イスラム芸術博物館(Musee islamique)
イスラム博物館。白、緑、赤の大理石モザイク。18世紀オスマン時代のエジプト。

ズワイラ門(Bab Zuwaya)とフトゥーフ門(Bab al-Futuh)

 やはりファーティマ朝時代の市壁とその門。バドル・アル・ガマーリーは1087年から1092年にカイロ市の防衛施設を強化した。バーブ・アル・フトゥーフとは「繁栄の門」と呼ばれていたという。バーブ・ズワイラ(ズワイラ門)は1092年建設。もうひとつ、写真はとっていないがバーブ・アル・ナスルがある。工事を担当したのはウルファから来た3人のキリスト教徒でるといわれている。ウルファは1086年にスンニー派の支配するところとなった。キリスト教徒にとってはシーア派であったファーティマ朝のほうが寛大であったらしい。3つの市門はシリアあるいはアルメニアの構造形式、つまり半円アーチやペンデンティブ・ドームの形式がもたらされた。

門からの眺め。崩壊しつつ建設されてゆく都市。

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アル・ムアイヤッド・モスク

多彩色大理石のモザイクが美しい。ピサ大聖堂を思い出させる。

アル・アズハル・モスク(Al-Azhar Mosque
 これはムイッズとゴーハルが設立したもの。カリフのモスクである。アズハルとはファーティマの称号である「ザフラー(花)」の派生語。

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 970年、ジャウハルはこのモスク建設に着手した。972年、最初のフトバ(金曜礼拝の説話)、988年最初の大学。柱身や柱頭は転用材である。アーチはレンガで、四心尖頭形である。装飾などにはイブン・トゥールーン・モスクからの影響が指摘されている。

 ムイッズの息子アル・アジーズ(第五代カリフ)の地代にはマドラサ(学院)が増築された。978年である。このアズハル学院はイスマーイール派最高教育機関である。ここで学んだイスラム教徒は全世界に布教し、その活動は中国にまで及んでいる。現在はアル・アズハル大学であり、イスラム神学の総本山である。ムスリムの学問の中心地であり、世界でも最古の大学のひとつ。多柱式の礼拝堂。横断方向のアーケード。中央の柱間の奥はミヒラブとなっている。キブラ壁の手前の天井はドームとなっている。中庭の両側は教室の昨日である。屋根、それを支えるアーケード、アーチは2心式であり、コリント式の柱が支えるという、コプト教会の伝統を汲むもの。竜骨アーチはこの時期には確立され「ファーティマ式アーチ」と呼ばれることもある。イラク、コプト的エジプト、ファーティマ朝の首都カウルーワン、の諸要素が混在している。

スルタン・カラーウーン(Al Nasir Mohammade Iban Qalaum)のモスク(写真=上2段)とマドラサ(写真=下1段)

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スルタン・バルクーク・モスク(S. Barquque Mosque)
スルタン・ハッサンモスクを小さくしたもの。

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アル・ハーキム・モスク(El Hakim Mosque

 アル・ハーキムはファーティマ朝6代目カリフである。狂気のカリフとも呼ばれた。一般的にファーティマ朝の指導者は神秘主義的な傾向がつよく、戦や占領行為の開始を星占いで決めていたりしたらしい。とくに彼はその傾向が強かった。宗教的には、ユダヤ教徒とキリスト教徒を弾圧した。5年かけて全国の教会堂を破壊した。そのなかにはイエルサレムの聖墳墓教会もあって、のちに十字軍が派遣される遠因となった。家臣や召使いを容赦なく殺し、エジプト人の大好物モロヘイヤを食することを禁じ、ビールとワインの飲料を禁じたばかりか、ぶどうの木はすべて切り倒された。

 しかし学芸の保護者でもあった。彼は「ダール・アル・ヒクマ(知恵の学舎)」を創設し、バグダート学派を継承するカイロ学派を興隆させた。天文学、光学、に顕著な成果があった。とくにイブン・アル・ハイサムの『視覚論』はダ・ヴィンチやケプラーにも影響を与えたようだ。

 Mosque of al-Hakim(1013年竣工) はアル・アズハル・モスクの系統。礼拝堂は陸屋根。イブン・トゥールーン・モスクの流れを汲む、マッシブな角柱がならぶ。中庭4面はすべてアーケードで囲まれている。中庭は壁と床が真っ白。外はカオス、内はすばらしい宇宙的秩序。内部の中央部は天井が高い。

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 カリフ・ハーキムの在位は996年から1021年までと長い。もともと前任のカリフ・アジーズ(在位975-96年)が990年ごろ、イブン・トゥールーン・モスクを模範として建設したモスクであった。ピアはレンガ造だがもっと星。高窓のある中央のミフラーブ廊、キブラ壁にそう廊にかかる3ドームはアズハル・モスクに由来すると指摘されている。

 ハーキムは入口側ファサードの建設を命じた。2本のミナレット、中央の入口。1002年ごろ完成。これは石造で、装飾は50年前に建設されたメディナ・アッ・ザフラーに由来するとされる。またソロモンの刻印である五星飾りがあちこちにあり、ハーキムが黒魔術に関心をいだいていた証拠とされている。

アル・アクマル・モスク(Al-Aqmar Mosque

 修復中であった。後期ファーティマ朝のもの。12世紀のファーティマ朝カリフは軍司令官の傀儡であって、シーア派統一国家の夢をほそぼそとエジプトでみつづけていただけであった。1125年、カリフ・アミールとそう宰相はこの小規模なモスクを建設した。それは街路に面して主要ファサードが連続するという、都市的な文脈を考慮した最初のイスラム建築であった。すなわち中庭のみ開放的で、外に対しては閉鎖的な小宇宙を形成するそれまでのモスクではなく、町なみの一部を形成するように配慮されたのであった。入口はニッチつきで、ハーキム・モスクの影響。竜骨状アーチは後期ファーティマ朝の特徴。

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2007.10.13

東方旅行(035)1988年1月3日(日)カイロのイスラム地区(1)

 東方旅行(035)1988年1月3日(日)は雨。予想外の気候。きょうはカイロのいわゆる「イスラム地区」の南半分を歩いた。カイロはかつて文化、政治、経済の中心であったことを感じさせる。あるいはイスラム世界の中心であり、ということは世界の半分の首都でもあった。それゆえコスモポリタンであり、異邦人をやさしく包み込むようなメンタリティはまだ強く残っているように感じられた。下世話な話だが、チップを要求する人がいるが、しつこくはなく、不快感を与えるようなことはない。マグレブに比べるとはるかに都会的で洗練されている。

 携帯していたフランス語の旅行案内では「イスラム・カイロの黄金時代は640年から1516年まで」とある。つまりオスマン・トルコの支配下では不遇であった。大都市とはいえ地方都市になりさがったのであった。この直裁で厳しい目がフランス的か。

 この時代のモスクの多くは今でも残っており、当時の盛りを思い出させる。現代では半分崩れかけた建物のなかで人びとが生活している。過去の栄光と現代の悲惨のコントラスト。文明は栄え滅び、しかし人びとは生き続ける。1979年にはユネスコ世界文化遺産の登録された。

リファイ・モスク(Rifai Mosque)
天井はたいへん高い。建築家フサイン・パシャ。1869年受注。1911年竣工。

ムハンマド・アリ・モスク(M.Ali  Mosque, 1824-27) オスマン・トルコ様式のモスク。19世紀には古典形態への回帰がみられる。20世紀はすでにオスマントルコの領土は縮小し、もはや帝国の威厳はなくなっていた。そのときにこそ栄光の時代の空間が求められたのであろうか。これは建築家の意識にもよるが、そのままのサバイバルではなく、きわめて近代的なリバイバル建築とみなすべきであろう。ヨーロッパにおけるゴシック・リバイバルに相当するものである。ちなみにこの時代はまさにムハンマド・アリが近代化をめざしていた。西洋との関係も深かった。アスワンのオベリスクをフランスに贈ったりした。ちなみにそのオベリスクはいまでもコンコルド広場を飾っている。そうしたなかで歴史的なものの見方、そのなかには過去の建築様式を意図して復活させるというようなことがあっても不思議ではない。たとえば歴史的様式としてのビザンチン=オスマン建築のドーム建築などを一種の歴史的遺産として使ったのではないか・・・歴史家のロマンに果てはない。

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ナセル・ムハンマド・モスク(Nasser Mhammad Mosque)
二色の石のアーチ。コプト式柱頭。

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スルタン・ハッサン・モスク(Sultan Hassan Mosque、1356-63)マドラサ、霊廟もある。白と緑の石。ポーチ。マムルーク朝時代の傑作とされている。スルタン・ハッサンは、1347年、11歳で王位を継承。1361年まで在位。カラーウーン家出身の最後のスルタンであった。彼は1356にそのモスクを着工。シリア人建築家を呼んだ。1357年には実質的に竣工。ところが1361年に塔が倒壊し、結局、塔建設は挫折したようだ。1661年、こんどは墓室ドームが崩壊している。マドラサは、4つの法学派がそれぞれイーワーンを使っていたという。入口ポーチは、対のミナレットは完成しなかった。鍾乳型のアーチがイスラム的。このポーチは世界にむけたミフラーブだとされている。ムカルナス・ポータル。碑文と建築が一致している。大ポータルにはコーランからの引用。ミフラーブにも引用。

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●Rifai Mosqueの近くにあったモスク
シナイから持ってきた柱だという(写真なし)。

イブン・トゥールーン・モスク(Mosque of Ibn Tulun, 867-9):イラクから呼ばれた職人が担当した。何度も改築されたがもとの雰囲気は保っている。レンガ造でスタッコ化粧。石造ではない。サーマッラーのモスクをモデルにして建設された。ゆえにアーケードの柱は角柱である。また角柱の4隅は円柱が付け柱状になっている。装飾様式もサーマッラーに由来するが、異なる種類のものが混在している。このモスクはイラク型であるとはいえ、職人はアッバース朝の首都から、すこし前にカイロにやってきたものと考えられる。このモスクはエジプトにおける、アッバース朝建築という位置づけである。

 シリアや北アフリカの初期のイスラム教建築とはちがって、ここでは古代ローマの痕跡が皆無である。イラクの影響ということもあって、強いていえば古代オリエントを遠くに感じる。

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 ブハーラーはカリフ、マームーンにトルコ人奴隷を貢ぎ物として献上した。この奴隷には835年、息子ができた。イブン・トゥールーンである。よい教育を受け、カリフ雇用兵のなかでも優秀で、エジプト総督の代理人に任命された。サーマッラーに住み、エジプトから収入を得ていた。868年、軍隊をひきつれてエジプトに旅立ち、エジプトとシリアの知事職を継承した。その治世は905まで続いた。870年、新市街地カタイを創設した。

 中庭はサフンと呼ばれ、一辺が92メートル。均質な柱割りのアーケードがぐるりとならぶ。この均質さがサーマッラー的である。塔は一般的にミナレットと呼ばれる。最初のものは、やなりサーマッラーのものをまねて、螺旋状であった。バベルの塔、ジグラットの伝統である。のみならず中央軸線上にあり、シンメトリを強調していた。現在のものは1296年にラージンが再建したものであるが、彼は軸船上からはずしてしまった。内部ではミフラーブ。ビザンチン風透かし彫りの柱頭。ミフラーブまわりはさまざまなサーマッラー様式の混交であり、建築と碑文の有機的一体がイスラム建築としての完成度を照明している(らしい。ぼくは碑文は読めない)。

イブン・トゥールーン・モスクの塔からの街の眺め: 特徴的なのは、壊れかけなのか、建設途中なのか、屋上を建材置き場にしているのか、壊れかけたような建物だらけである。地上をあるいても19世紀後半から20世紀初頭の様式建築の外壁がこれまた半壊状態で放置されている。1988年での景観だから、現在ではどうなっているか知らない。しかしこの半壊状態の都市が、じっさいは活気があってにぎやかである、というのが新鮮な体験であった。それは最初はショッキングであるが、10分もすれば慣れてしまい、むしろこのほうが自然に感じられてくるのである。

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プチ学習:長いエジプト(とくにカイロ)の歴史
2700-2350:古王朝
2060-1780:中王朝
1580-1160:新王朝
666-524:saiteの時代
525:ペルシア人の侵入
342:ペルシア人の占領
333:アレクサンダー大王による解放。ギリシア時代はエジプトの宗教は尊重された。
30:オクタウィアヌスの侵入。エジプトはローマ帝国支配下に。
395:東ローマ帝国の一部。
451-582:コプト教会の成立。
640:アラブ人の到来。イスラム軍将軍アムル・イブン・アル=アースはローマ軍駐屯都市「バビュロン」のちかくにアラブ人の軍事都市「フスタート」を築く。これは現在、カイロ市内。
661-750:ウマイヤ朝。ダマスカスのカリフの勢力下。706年、公式行事はすべてアラブ語でなされることとなった。
750-870:アッバース朝。この時代、バクダッドはイスラム帝国の首都。
969-1171:ファーティマ朝。フスタートのやや北に「勝利の町」を意味する新都「ミスル・アル=カーヒラ」を建設。これが「カイロ」の語源。そこに宮殿、アズハル・モスクなどを建設。以降2000年間、ファーティマ朝の首都。
1174:サラディン(十字軍に勝利した)がエジプトを支配。カイロにシタデルを建設、城壁と町を拡大してみなみのフスタートをも含むかたちで、都市を建設した。
1250-1516:マムルーク朝。サラディンが始めた都市拡大の完成。
1258:バグダードがモンゴルに占領される。イスラムの宗教・文化の中心はカイロに移動した。
1517:エジプト独立の終焉。オスマントルコの属州となる。カイロはスルタンもカリフもいなくなり、政治的重要性は失った。
1798:ナポレオン上陸
1801:フランス支配の終わり。
1811-1849:ムハンマド・アリの諸改革。
1869:スエズ運河完成。
1883:イギリスがエジプトを支配。
19世紀末~20世紀初頭:民族運動。ヨーロッパ風の都市計画(新市街地、へリオポリスなど)
1914-1918:イギリスの保護国。
1922:イギリス政府、エジプトの独立を承認。
1952~1970:ナセル大統領
1953:共和国宣言。
1956:スエズ運河国有化。
1970-1981:サダト大統領。
1978:キャンプデーヴィッド。サダトにノーベル平和賞。
1981:ムバラク大統領

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