東方旅行(043-048)1988年1月11日(月)~16日(土)/カイロでの無為な日々
カイロで無為な日々をすごした。
1988年1月11日(月)(東方旅行043)
夜行列車は正午にカイロ到着。日本大使館を探したが見つからず。旅行案内、郵便局、市役所、市内地図などはまったく役にたたず。宿泊はHotel Beau Site。ツインの部屋を独り占め。朝食付きで7£。
1988年1月12日(火)(東方旅行044)
日本大使館はカイロ・センター・ビルの3階にあることが判明した。住所、電話番号を調べる。旅行代理店Misr Travelに所用。日本航空オフィスはナイル・ヒルトン・ホテルにあった。ヨルダン大使館にでむいて問い合わせる。ヴィザには日本大使館の紹介状と、証明写真2点が必要とのこと。なのでつぎに日本大使館にでむいて、紹介状の申請などをする。支給されるのは13日の9時以降である。
アメックスのオフィスに送ったはずの郵便物をとりにゆくが、到着していなかった。
しかたがないのでエジプト博物館を見学。入場料1.5£、写真撮影許可料5£、ガイド4£。うっとうしくなるほどのコレクションの豊穣さ。ピラミッドの模型。
情報収集。カイロから、シナイ半島陸路で、Ste.Cathrine経由でヨルダンにゆくルートを調べる。カイロからシナイ半島先端のリゾート都市シャルム・エル・シェイクまで8時間。そこから修道院まで片道6時間。ヌエバまで3時間。そこから船でヨルダン領アカバにゆく。また連絡船経由でのカイロ/アンマン往復バスは1日2便あるという。
1988年1月13日(水)(東方旅行045)
朝一でヨルダン大使館。日本大使館に発行してもらった紹介状を添付して、9時30分に申請書を受理してもらう。当日13時に発行してもらう。きわめて順調。
郵便物を投函。
Misr Travelにいってアンマンまでのバスを調べる。ミニバス33番でオペラ広場からアベセ広場へ。そこにSinai Internationalという代理店があって、そこに問い合わせた。しかしアンマン行きのバスは、ヘリオポリスのイスマリア広場に移ったという。そこで新しいオフィスまでの行き方をごていねいに書いてもらった。メトロを乗り継いで、その新しいバスステーションにいくと・・・・「アンマン行きは2月2日まで満席ですよ」。まあアラブ式交渉術を展開してもよかったのだが、このときのぼくは疲れすぎていた。
そこで結局、ナイル・ヒルトン・ホテルに戻って、エジプト航空のチケットを求めた。明日でも出発したかったが、すでに満席。最短の16日(土)15時の便を予約した。片道120£=60US$=8000円ていどであった。
1988年1月14日(木)(東方旅行046)
航空券を確保すると、もう気分はヨルダン。エジプトに用はない。すると疲れがどっとおしよせる。一日中休息。こなした用事はたたひとつ。エクタクローム(ASA200、36枚どり)を10本購入した。115£であった。1本あたり5US$=600円ていどと安い。
1988年1月15日(金)(東方旅行047)
一日中休息。
1988年1月16日(土)(東方旅行048)カイロからアンマンへ
バンク・オブ・アメリカは閉行であった。場所は忘れたが40米$を現地通貨に、ドルのTCを現金に両替した。もういちどエクタクローム(ASA200、36枚どり)を10本購入した。さらにおみやげのエジプトのカラースライドも購入。
観光当局は近代化したカイロを見せたいのであった。
でも崩れかけた建物、現代用語でいえば遺産クラスの建物が崩れているそばでたくましく生きる人びと。偽善より素直な真実のほうがいいねえ。
カイロ空港にて、「ホテルは見つかった?」「これからアンマンにゆくんだけど」「ああ!いってきな!」。荒涼たるシナイ半島を上空から見学。15分ていどですます降下は乱暴で、なんども腰が浮いた。
着陸。空港で両替。60US$=20,190JD。ということは1JD=3$。バスで空港からバスターミナル。そこからさらにタクシーでホテルへ。「ホテル・イラク」。ツインを一人占め。シャワー、暖房完備。すばらしい。一泊2500JD=1000円ていど。部屋はカイロにくらべるととてもきれい。気温はたいへん低い。ホテルのおやじが石油ストーブをもってきてくれる。
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