2018.06.16

啓蒙から野蛮へ---森美術館「建築の日本」展について

https://medium.com/kenchikutouron/%E5%95%93%E8%92%99%E3%81%8B%E3%82%89%E9%87%8E%E8%9B%AE%E3%81%B8-622fb9bb9af1

日本建築学会HPの「建築討論」に拙論がアップされた。

タイトルが古めかしいが内容からすればこんなものである。

下書きにあったが自分でボツにしたもの。「入口にある北川原温《木組インフィニティ》は立体になったり平面になったりというエッシャーの絵のようである。個人的には好きである。東大寺南大門はもっと大きいほうがいいのだが。待庵には躙ってみて瞑想したが、屋根が合板で葺かれているのは笑えた。丹下自邸こそ原寸大にすべき(部分でいいから)。妄想がはじまった。明治村があるのだから、(既存のものではない)昭和村をつくり、近代住宅の名作のレプリカを建設して分譲するとか。とにかく模型がたくさん。この光景はなにかに似ている。そうだ、昔の大衆食堂の蝋模型メニュー。すると九セクションとは、和、洋、中華などの分類ということになる。あるいは90年代以降のマガジンハウス的なもの。新しい戦略があっていい。キャプションを読みすすめてゆくほど、イメージは拡散してゆく。総花的、八方美人的。これははずせないなあ、こっちにもいい顔しておこう、式の(ぼく自身も過去に悩まされた)業界的な構図は隠せない。とはいえ厳選されている。全体として飽きさせない労作である。キュレーターの力量もいかんなく発揮されている。しかしその構図そのものはまさに日本的である。」

模型展示はそれぞれが存在意義があって、そういう疑似体験そのものは文句なしに楽しい。ただ諸外国の例からすれば、模型は常設の建築ミュジアムに系統的に並べておいたほうがいい。テンポラリーなものは、もっと主張がはっきりさせたものがいい。だから今回の建築展は、それぞれ切り取れば楽しめるのだが、全体としてうけとめると、まあどうかな。

それと近未来的には大会場での展示などいらないでしょう。これからはVRゴーグルと創造的コンテンツにより、過去も未来も、実在したものも案だけのものも、フラットなプラットフォームで見れるはず(近づきつつあるものはあったが)。そうしたら自宅で楽しめて、勉強もエンタメも、鑑賞も設計もたがいに浸透しあうようになる。

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2018.06.03

森美術館「建築の日本展」

日本の伝統建築と近現代150年とを相関させ、代表作100点以上を選んで9つの枠組で分類し、多くの模型を展示した充実した展覧会を、先日みてきた。

まずはざっくりの感想。

展覧会を本気で検討してみようと思えば、NY現代美術館における『近代建築』展(1932)と比較してみるのがベストであろう。さらに前後して出版された『インターナショナル・スタイル』も参考にすべきであろう。

とりあえずふたつの論点がある。

まず普遍性の問題。20世紀をとおしてトレンド・リーダーであったMoMAは、1932年の時点で「アメリカ建築」を問うてもよかったのだが、そうはしなかった。むしろ普遍的「建築」を論じ、かつその指標のいくつかを明確に指摘した。ところがわが国における日本建築への問いは、つねに日本性を問うのであり、建築性を本格的に問うことはしない。そのようなひたすらな問いのなかで、じつに率直に、外部が欠如してゆく。日本は虚構であるということは、大前提なのだが、それは言明されない。したがって国際やグローバルとの関係はみごとに捨象される。この展覧会は、日本近代の大問題をあっけないまでに率直に継承している。

つぎに情報発信の主体について。関係者たちのなかには、主催が公立美術館でもアカデミーでもないことの特殊性をことさら指摘するむきもあるが、そうなのだろうか。それこそ伝統的にはアメリカは私立美術館、ヨーロッパは国公立美術館、日本は折衷であったが、近年は全世界的にエージェント型へと移行しつつある趨勢である。ポンピドゥ・センターは1970年代フランスにおける芸術の大衆化であったということを、高階秀爾から聞いたことがある。だとすればMoMAの近代建築展は、1930年代アメリカにおける建築文化の大衆化であったのだ。民間だ、大衆相手だ、ツーリスト向けだなどという指摘は、いったいいつの時代なのかわからない。普遍的な情報発信をめざすとして、その主体は公、民、私、・・・いずれであるべきか、などについてはべつに決まり事もない。

つまり日本性を問うのはよいのだが、わたしたちはなぜ日本性ばかりを問うのかは、ますますわからなくなり「疑惑はさらに深まった」!いずれもうすこしくわしく論考して発表するかもしれない。

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2018.05.16

青木淳『フラジャイル・コンセプト』

青木さんからいただきました。ありがとうございます。

ぼくは、自分についてあまり自慢できるところはないのだけれど、青木さんと同年生まれであることはちょっとしたことである。ちなみに妹島和世とも同い年である。いつも青木論に余念がない花田佳明ともごく近い。

学生のころ、まだ邦訳のなかったデュランの建築書を借りるため、たしか江古田にあった青木さんの下宿までおしかけた。こころよく貸してくれた。だからM論が書けた。

若い頃、ぼくをふくめ周囲の人間は、青木さんの設計能力とともに、その理論構築能力をも認めていた。しかし、どこかに書いているかどうか知らないが、理論構築などという作為的なことは、やめはしないが、おおぎょうにアピールすることもないだろうと、ばかばかしく思えてしまったのであろう。そんなのは若いころの一時期だけやるものだ、といわんばかりに。こうして(?)文才溢れる成熟した建築家ができた(などと妄想する)。

ぼくが感心するのは、彼がときどき使う素敵な比喩である。ふつう理系分野である建築では、対象を正確に記述するために、喩えは使わないものだ。だから建築系のうまい書き手であっても、やはり文系の書き手にはとうていかなわない(たとえばぼく)。しかし青木さんの「いつやって来るか知れぬ火災をじっと待ち続けているスプリンクラー」(p.120)、「世界の一部を、まるで掌にそっと、捕獲したような」写真、複製は「現実の似姿であることを超えて、それ自体で独立した、厚みのない現実」(p.139)・・・などというくだりは、ひょっとしたらなにかからの借用であったとしても、なかなか気が利いている。

比喩とはなにか。それは、脳のなかに蓄積された膨大なアーカイブのなかから、はじめは無関係であったはずの2つの要素を、なんらかの意味をこめて、関係づけることである。だから比喩とは、人間として根源的で、創造的な能力なのである。この比喩力を、建築論のなかで展開させているのが青木さんである。

凡庸な人間(たとえば大学教授)は、カテゴリーに仕分けることが客観的で科学的だと思うにとどまっている。しかしカテゴリーの壁は、想像、体験などにおいて超えられるべきものだ。比喩はそういう超越力である。

彼による動線体、原っぱ、などのいろんな面白い概念や発想は、この「無関係と思われたもののあいだに、新たな関係をつくってみせる」能力にほかならない。

それはぼくを妄想にかりたてる。ぼくは編集者である。そして青木さんに依頼する。

「青木さんは建築家だから、やはり建築家として書きますよね。この本を通読して感じます。すごくよく書けています。でもぼくには、なにかがひっかかる。それは、ご自身も気にしてらっしゃるけれど、自分=設計者が絶対的存在となっているという点です。建築家目線が消えない。それはあたりまえのようで、あたりまえでない。小説でも、一人称で書くか、三人称で書くか、作家の決断しどころですよね。青木さんほどの観察力、連想力があれば、西洋の建築書とはまたちがった、三人称の建築論がかけそうです。そのとき、建築家が建築を語ることそのものを包含しながらも、建築がみずからを語るような文学ができるかもしれません。しなやかで、フレキシブルで、人やものが、概念に縛られるのではなく、あくまで自由である。そんな建築論です。作家はそれに近いことをしたかもしれないが、建築家はまだです。それができるのは青木さんくらいです。たぶん。」

いかがでしょうか、青木さん。

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