2017.09.01

豊川斎赫『丹下健三と都市』

豊川さんからいただきました。ありがとうございます。

丹下と都市というと、業界人なら読まずして内容を想像できるようなものなのだが、そしてじっさい、戦前の富士山都市計画から、戦前のオリンピック計画、神宮外苑計画、戦後の大阪万博などなど、網羅的に紹介されている。おそらく独自に調査した新事実もあるだろうし、なにより時事問題に配慮した掘り下げをしている。

ただ今回の著作はこれまでの丹下論とはまったく異なっている。終章で自分自身をとりあげ、丹下シューレの末裔として、都市デザインにとりくむというマニフェストがなされているからである。「巨人の肩の上」などと卑下しなくともいいと思うのだが、そういう「覚悟」(これも近代日本建築史にでてくることば)がちからづよく表明されているようだし、そのほうが丹下を歴史的に研究することの、次のステップなどだと納得させられるものがある。

丹下スクールとはいわずに丹下シューレというのは、意図的な復古調というもので、趣味の次元なのだが、しかしそれでも「学派」としてとらえることは、古くさいようでいて、きわめて重要なのではないか。すなわち都市計画学、あるいはより基底的に都市学(urbanismeの直訳)というディシプリンを考えるうえで、そうなのである。

すなわち西洋なら、まず19世紀において資本の都市への蓄積を分析した経済学、都市市民の法的立場を論じた法制史、などが都市学の基盤となって、20世紀初頭の都市計画法立法を契機としつつ、社会学、人類学、心理学、建築学などをとりいれた都市学(といえるもの)が形成されて今日にいたっている。今日の世界では、都市分析、都市政策立案が、グローバルな枠組みで取り組まれているのは周知のことなのだが、それらを認識するために、この学派という観点は、一見古くさいようで、けっこう使えるのである。

ぼくの地元である九州・西日本は、じつはこの都市学的枠組みがみごとに欠如している。都市工OBが設置した専攻がひとつあるだけである。こうした状況で今後の都市や地域を構想するには、結局、人材を中央から呼ぶしかない。そこで大学改革WGに呼ばれた機会に、九大にも都市学科、都市デザイン学科なるものを設置し、地域の行く末を創造的に検討する主体を育てなければならないといった。具体的には既存の都市関係の専攻の下に、本格的な「都市デザイン学科」を設置すべき、と主張した。しかしほとんどスルーされた。ぼく自身は建築史学にすぎないし、都市学といってもその内部で主体とはなれない。年齢的にも無理である。そこでいくつかの会議、WGでなんどか「都市」をコアにする学科、専攻の設置を訴えた。共感してくれる先生はいるので、まったく可能性がないわけでもない。ぼくとしては遺言としていっているだけである。最近、自分の発言はすべて遺言となっている。つまり個人的利害にはもはやまったく関係づけられないのであり、若い世代がどう受け止めてくれるかだけである。

豊川さんが丹下シューレをよりひろい文脈のなかで再位置づけすれば、批判的にして創造的な継承だと思うし、応援するほどの力もありませんが、面白いとおもいます。それから頴原さんと豊川さんで千葉大の黄金時代がつくれそうです。

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2017.08.13

『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』

8月2日、ジラルデッリ青木美由紀さんのご講演である。同名の文献にもとづき、学生にも理解できるように解説していただいたものである。

例の世界図式、すなわち古代系、西洋系、東洋系という3文明圏は世界旅行を契機として構想されたものだが、ラテンアメリカ、アフリカははいっていないではないかという指摘があったそうである。とはいえ樹形図的な建築様式発展図のなかに日本の立場が低いことへの批判をこめつつ、地球を文明圏に分節化するこころみ、すなわち時間軸から空間軸への変換をもって西洋的思考から日本的思考へのそれとする点は、和辻哲郎の『風土』などの先駆ではあろう。

日本における忠太論考もいろいろあるが、やはりトルコではなく1923年まであったオスマン帝国にいったのだというシンプルな事実の意義にあらためて気がつく。

帝国、なのである。ちなみにぼくにとって帝国、そして帝国の建築とは、きわめて具体的なものであり、ムガール帝国、サファヴィー朝、ローマ帝国、ビザンチン帝国・・・・である。そしてオスマン=トルコは20世紀になってもともかくも存続していたように、帝国とその建築は、けっこう身近なものであった。

日本的文脈でいえば、20世紀にはまず東洋指向があり、つぎに日本的なものの探究があったのだが、これは端的にいえば、前者は帝国的なもの、後者はネーション=ステーツ的なものの探究なのである。

ところが忠太は、その点でナイーヴであった。20世紀初頭の世界において、国民国家が帝国を制覇しつつあるというのに、その制覇がむしろ帝国主義的であるかのようにうけとってしまい、そもそも自身のイデオロギー的一貫性もあったかどうか、疑わしい状況であった。

忠太が東洋的なものを目指すのはきわめて重大なことであるはずであったが、彼はその重大さにみあうだけの強度のあるイデオロギーを確立できなかったのであろう。

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2017.02.23

岡村健太郎『「三陸津波」と集落再編』

岡村さんより送っていただきました。ありがとうございます。

都市復興をテーマとする研究には越沢明の一連のものがまず思い浮かぶが、本書はこの復興に新たな視座をもたらそうとしている。ひとことでいうと、越沢がどちらかというと大都市中心であったのにたいし、本書はより小スケールの、地域の復興というテーマをかかげている。たしかに、神戸の地震ではひとつの大きな都市に被害が集中したが、東日本大震災では、広域におよぶ、多数の市町村が被災した。そういう意味で、適切な問題設定である。

ぼくが感心したのは全体の構成である。すなわち繰り返される津波の被害にたいし、通時的には地域主体、地方政府主体、中央政府主体というように復興システムは変遷していったことが詳細に素描される。それを著者はさいごに共時的構造に変換し、地域、地方政府、中央政府の3つからなる複合主体の構成のしかたのなかに、これからの検討課題をみようとする。戦略的ニュートラリズムとでもよべそうな分析である。たしかにいついかなる場所でも、3主体がおり、なんらかの役割分担をしているわけで、普遍的構造のなかに個々のケースの特殊性を分析できるのである。情報整理力の高さを感じる。

たほう、宮沢賢治、柳田國男、井上ひさしの、そしてスルニットが提供する、ある種のユートピア論のもたらす可能性についての指摘がある。コメントできる特段の知恵があるわけではないが、それを復興手法としてトリセツ化するものというより、人間の基本的な自律要求のようなものと想像している。著者が指摘するような、国家支配が強い時代においてこそ、この自律的社会構築の願望が強かったのだが、それを相互補完的などとするバランス感覚は陳腐であるにしても。

個人的な興味としては、やはり国家とはなにか、なんであったか、である。もちろん国家主体を一押ししたいわけではない。しかし著者がえがく主要3時代という時代的枠組みは、社会福祉、社会政策、経済政策など、おおくの分野に共通していることはすぐわかる。旧「都市計画法」はただしくは一九一九年であることはご愛敬(240頁)としても、行政サービスの普遍化ということと、経済の不安定化(大恐慌)ということの相克があるのはあきらかであろう。そして自然災害による都市と社会の破壊、そののち発揮される復元力、その力が行使されるメカニズムは、住宅供給、戦争、社会編成(町内会など)などとあきらかに共通の基盤のうえにある。たまたま国家主導であったわけでなく、そもそ国家主導の時代であった、わけである。すなわちある種の脆弱さ、不安定さにたいする対策として、100年ほどまえも、国家は突出したのであろうし、今の時代にあっておなじことを繰り返さないためには、ある程度の意識化は必要であろう。

というわけで個人的興味の延長としては、集落再編のくわしい細部も面白いのだが、ある種の基本構造を方法論として発見した感のある著者が、これからどういう方向に研究を展開するのであろうかということでもある。欧州における地域が欧州>国家>地域圏>都市連合>都市>区などという重層構造をなし、その構造を念頭におかないと研究もプロジェクトもままならないように、すくなくとも三層の重層構造として、日本の都市なり地域なりを分析するのだとしたら、まことにもっともだと思われる。

さらにいえば地域、地方、中央の3層構造は、じつは共時性をさいしょに考えており、しかるのちにそれを歴史のなかに遡及することで、歴史を再構成したなどということであれば、お見事ということになるであろう。

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