2009.07.09

『ガルガンチュア』を読んだ

村上春樹のあとでラブレーを読むのはかなりきわどい組み合わせである。でもけっこう良かったりして。読了後、その繋がりを考えるのもおそしろそうだと考えた。

なぜ『ガルガンチュア』かというと、2年前にレンヌを旅したとき、鐘楼の話しを読んだからであった。

レンヌには中世からの鐘楼があって、それは巨大なもので、市民の誇りであったが、1720年の大火でいちど破壊されたが、市長はその残骸を集めさせて、再度鋳造して鐘をつくり、18世紀に市庁舎が再建されるとそこに取り付けさせた、というのである。

大火前の鐘はフランス中に知れ渡るほど大きく有名なものであったので、ラブレーの『ガルガンチュア』のなかで言及されている、というのであった。

そこで宮下志朗訳の3巻本に目をとおした。とりあえずはレンヌの鐘だけでよかったのだが、面白くて読み通してしまった。

肝心の「レンヌの鐘」はこの邦訳では登場せずに、結局、WEBの英語サイトでその記載を発見した。つまり主人公はたいへんな巨人であって、その首飾りにレンヌなどの巨大鐘をつけるほどであった、というそれだけの話しであった。とはいえこの書はさまざまな逸話をかき集めることで16世紀フランスのパノラマになっている点が面白い。

それからルネサンスの書であるという本来的な観点。古代ギリシアや古代ローマの神話、詩、文学、哲学からの引用が充満しているし、たとえば訴訟談義のおいてもローマ法、ユスティニアヌス法などの条文を引用しつつ吟味したりしている。それらが主人公たちの一種の人格形成の(荒唐無稽な)物語として語られている。これらはソルボンヌ的な、ということは中世神学的な知の体型とはまったく異なる世界を描こうとしている。

もうひとつはフランスのサイトで面白かったのは、『ガルガンチュア』というキャラクターはラブレーの発明ではなく、口承物語りとしてフランスに伝統的なものであって、それはメリクリウスという古代の神が、ガリア化(フランス化)したものである、という指摘である。こういう意味でもルネサンス的なのであるが。いずれにせよ中世的な縛りにたいして、古典古代的なものを解放として位置づけている。

16世紀の古典主義もそうなのであろう。この時代の古典古代解釈はとても自由なものであって、17世紀における規則化とはまったく異なるものであった。文学を満たしている雰囲気を念頭において、建築も観察すべきなのであろう。当然。

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2009.07.04

世界の虚構性について

村上春樹の1Q84についていろいろ書評が書かれてきた。目に入るものがあれば読むようにしているが、とくに驚くようなものには出会っていない。

ある意味で、この小説はとてもわかりやすい。それは戦後の学生運動、左翼運動その変換されたものとしてのエコロジー、共同体運動、新宗教、帰農、健康ブームなど、一連の背景がプロットされているからである。そういうものの虚構性が現実というものをはるかに凌駕している現代というものが枠組みとして描かれている。現実と虚構という二元論ではもはやない。虚構と自分自身、あるいは虚構において生身の人間であることの意味、その「生身性」というようなことであろう。

この小説と特別連動しているのではないが、ぼくの学生のひとりが卒論を書いている。建築写真の虚構性というようなテーマである。残念ながらぼく自身にとってはそれほど切実なテーマではない。が、この昭和最後かひょっとしたら平成最初の世代が、この世界は虚構であった、というようなことに気がついて右往左往している、そのような状況がいろいろ印象的であった。

その彼(おそらく1990年前後生まれ)がおもに参照しているのは、1970年前後生まれの建築評論家のような人びとの書き物である。1960年代生まれ以降の世代が、メディアという虚構の世界に意図的に生きようとしているようなことも、あらためて感じられるということが、再確認できる。がそれはそれとして、若者が参照しているものも、自分自身から下の世代というようなことが発生しているわけである。このことはぼく自身、現実からの距離がますます大きくなったことを意味しており、そのことは虚構性がますます増したことをも示唆しているのであるが。

さてぼく自身にとっての「虚構性」の目覚めはどんなものであったか?はっきり記憶していないがSF漫画かSF小説であったように思う。人体から切り取られた脳が、栄養を補給する溶媒のなかで生きている。その脳へは、あらゆる情報や刺激が送られているので、彼はもはや身体や世界もない脳だけの存在であることにはまったく気がつかない。脳だけの存在でありながら、友人と語り、映画を見、食事をし、ごくごく普通の生活を送っている(つもりである)。究極の虚構を生きている。そんな物語を小学5年生のころ読んだ記憶がある。

するとぼく自身の現実というものも、このように脳に送り届けられた信号にすぎないのであって、周囲にあるものは実在しないのではないか、という不安にかられた記憶がある。

この不安は、どうも東西冷戦における核のバランスというものに連動していたように、自己分析できる。なにかのはずみで世界が滅亡する可能性があるという不安である。

なにかのはずみで。脳への栄養と信号の補給がスイッチオフにより止まる。核ミサイルのスイッチがオンになる。そんな「はずみ」で。

いずれの不安も、ぼく的に面白いことに、自転車に乗っているときに発生しているというディテールがあるので、よく覚えている。もちろん子供がだれでもいだく不安として、自分自身が存在していることの根源的不安もあるのだが、そういうのは就寝時ときまっていた。自転車という、安定/不安定の弁証法的関係においてあらわれる特有の不安というものもあったようだ。

それはそれとして世界という虚構のなかで自分をとらえることは、やはり難しいことのようであって、村上春樹が読まれるのも、そんな理由からなのであろう。

虚構の世界はどのうように成り立つのか?よく指摘されるように、主人公「僕」は、奥さんに逃げられたり、部屋をだれかに荒らされたり、編集者からへんな仕事を持ち込まれたり、ようするにトラブルが到来することで、立ち上がる。徹底して受動的な「僕」である。

1Q84は小説家志望の男性が主人公ということで、村上の自伝的(自己記述的)側面もあるのではないかと思った。小説を書く、小説を書く自分をネタに小説を書く、それをネタにまた書く、といった自己内包型のメタ構造が、自己運動のように続く。

そんなことを考えると「なぜぼくは存在するのか?」という不安は「自分が生きている世界はじつはぼくの脳に送り届けられる電気信号の総体にすぎないのではいか?」という不安と表裏一体なのであろう。

というわけで今は宮下志朗訳のラブレー『ガルガンチュア』を読んでいる。この荒唐無稽な人物にかんする伝記も、ディテールをよめば16世紀におけるフランス(という虚構?)の立ち上げのようにも読める。ただそこに必要であるのは、精密な理論化ではないような気がする。「物語り」という虚構の形式なのであろう。

そこで虚構性ということに戻ると、理論化、批評によっては「虚構であることへの気づき」しかできない。しかしそこにはかみ合うこと、がないのではないか。かみ合うには「物語り」という形式そのものへの言及が必要であろう。それは別の「物語り」を求めるのであろう。分析するのではなく、分析の対象となる「与件」そのものを、分析が追いついていけないほどに、つぎつぎに生産してゆくこと。そのようなことなのであろう。

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2009.06.07

「けんちく」と「建築」

昨日は、大学で、学科OB会が主催する講演会があった。ぼくは司会をつとめた。

レクチャラーとしてOBで建築家がふたり呼ばれた。

ひとりはぼくよりすこし若い(でも学生から見ればほぼ同世代)の石原健也Iさんで、箱根の研修センターや、町田市鶴川駅コンペ最優秀プロジェクトなどを拝見した。超越的でアプリオリな図式ではなく、そこにある自然、地形、人、アクティビティの流れからたちあげてゆく方法論は卓越したものであった。

鶴川駅プロジェクトはもっと見たかったのだが、時間の関係で大部分割愛されていた。都市/公園というような文脈(そういえば研修センターもそうなのだが)で深いものがあると思ったので、ほんとうはもっと知りたかった。つまり、、公園内は容積が制限されるが、しかしそれでも、公園とはきわめて建築的なのである。鶴川駅も、建築類型的には、駅ビルであって公園ではないが、しかし緑とランドスケープのネットワークを破壊しないように、地下にボリュームの半分以上を埋め、人や緑やアクティビティの流れを生かしているのは、じつは公園(公園内施設)的な設計である。

たといえば後楽園は、ホテルやら球場やらホールやらがいっぱい建っていても「公園」なのである。

そんなこんなをひっくるめて、公園/都市のコンセプトは面白い。公園は都市である。ならば都市も公園である。そんなアナロジーを方法論のコアにもってきても面白い。

で、もうひとりは若手の坂口舞さん。じつはぼくの研究室のOBでもあり、出世頭的な存在でもある。二世建築家でもあるが、親のインフラに甘えることなく、それをしっかり活用しつつ、いまどきの人らしく、福岡と東京にそれぞれ拠点を置いて活躍している。

彼女は自作についていろいろ内容豊かに語った。そのなかで、ぼくは、あることにああそうかと気づきつつ、そこでは話題にしなかった。「けんちく」である。彼女は自分の事務所でつくるものを「けんちく」と呼ぶのである。

ひらがなにする意味を、本人にはきかなかったし、本人も説明しなかった。しかし、もちろんその意味を理解するのはむつかしくはない。紀貫之である。ひらがなは女性的文字である。「建築」をジェンダー的に変換して「けんちく」にしているのである。

「建築」と漢字で書くと、重厚なモニュメント、哲学的な建築論、土建社会日本、・・・などというものをぞろぞろと連想してしまう。それは男性的、オス的なのである。

そういえばかつて長谷川堯は建築のオス性/メス性を区別していた。オス的建築とは、国家的モニュメントであり、それを探求した明治建築であり、その嫡子的存在である昭和の合理主義建築である。それにたいしてメス的建築とは、いわゆる「私性」に立脚する大正建築であり、公共建築というよりはどちらかというと民間建築、個人建築である、スタイルとしてはたとえばアールヌーボーやアールデコのようなもの近い建築である・・・。

彼女はまだまだ若手なので、住宅が中心である。戸建てがほとんどである。それからいくつかクリニックも手がけている。歯科クリニックが多い(同業者ネットワークによってつぎつぎと依頼が連鎖するという喜ばしい状況)。まちづくり・ものづくり、子育て支援機構のようなものにもかかわって勉強しているらしい。

住宅も、医院も、それぞれは違うカテゴリーなのであるが、それを設計する方法論は共通しているようである。これは特段独創的ではないが、医院をも住宅的に設計している。これはオフィスやワーキングスペースの居室化というような趨勢とパラレルではある。でも人がそこにいるいじょうは、すべては居住空間であるという意識がうかがえる。

また住宅などでは、システマチックに施主ヒアリングをするが、そのまとめかたはいろいろで、恣意的だが、施主からはそうとは見えない仕組みになっているように、こちらからは観察される。いっぽうで、設計プロセスをネットでつねにオープンにして、施主からも、関連専門家からも、チェックしやすいものにしている。

そういうものの総体が「けんちく」なのであろう。それについてあえてマニフェストしない彼女は、そこのところは直感的に理解しているのであろう。

「建築」と書いてしまうとマッチョすぎるので、やさしく「けんちく」と書いてみる。もちろんarchitectureを邦訳しようとして、造家では意味が違ってしまうので、漢語のなかにあった熟語「建築」を再活用する・・・という「建築」の「本来の意味」はあらわれなくなってしまう。表意文字を表音文字にするのだから、意味はなくなってしまう。

彼女が直感的に理解しているであろうものは、そういう「建築」と、彼女のクライアントとの間の埋めがたい距離のようなものであろう。だから「けんちく」とすることで、その距離をかなり縮めているのである。

語源学的背景には、すでに述べたように、建築=中国・大陸・男性的、けんちく=やまとことば・島国・女性的、という対比がある。でもこれはあくまで理念的なものだ。

それでも建築=超越的・トップダウン的、けんちく=実感的・ボトムアップ的、という対比は成立するであろう。

さらにいえば建築/けんちくは、一級建築士/二級建築士などという対比よりよっぽどスマートで、よっぽどやさしいのではないか?

ともあれひらがなの「けんちく」にはこれから意味を深めたり広めたりする余地がいっぱいあるように思われる。施主の意識もそこには反映されているであろう。・・・そういうことになんなく気がつく彼女もたいしたものである。

そういうようなことで、ぼくの研究室から、彼女のような建築家が出ることについて、理論的にもすごく納得してきている。そんな今日このごろであった。

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