2009.12.13

ヨコミゾマコトさん講演会

ヨコミゾマコトさんに大学まできていただいて講演会をしていただいた。

彼は3月、「デザインレビュー」(地元でやっている学生課題の合同講評会)にクリティークとして来ていたので、学生たちにとってはうれしい再会であった。

土曜日の3時から、時間はたっぷりあった。集中講義の形式を利用してであった。ヨコミゾさんもしっかり準備されていた。

主要44作品を2時間半ほどかけて年代順に説明していただいた。なかなかない経験である。

というのは通常の講演会では作品を選び、編集し、テーマを特定して話すのである。しかし今回のようにあえて積極的な意味で編集せず(とはいえひとつの作品のなかでは図面・写真などはチョイスされているのだが)時間順でというのは、ナマの感じがつたわってくるし、仕事の依頼、コンペ、着想などというものが具体的になまなましく立ち上がる様相が想像できて面白い。

首都圏の狭小住宅/地方の公共建築という構図はやはりあるのだなという実感。そのなかで21世紀は東京の一人勝ちなのだが、それでも地方にもそれなりの突破口があるのではないかという期待もいだかせる。

それからヨコミゾさんのアプローチも、きわめて具体的なものからはじめて、それを普遍化してゆくというやりかたであり、学生諸君には参考になったのではないか。たとえばダンスの舞台装置設計という機会に、モダンダンスにおける構成法を部分から全体を構築するやりかたとしてとらえるのだが、つまり観察したことを建築に翻訳してゆくのである。

建築学というものの組み立てがそうなのだし、とくに地方ほどその傾向があるのだが、やはり大所高所からはいりたがる。世の中の問題やいかにという大問題から出発し、それを個々の現場に適用して考える。これでは意識していても、どうしても既存政策の展開のようなものになってしまう。彼のアプローチはむしろ逆で、建築家と現場あるいは個々の課題のあいだの具体的な対話があって、それが次第に普遍化され一般化されて、都市や社会に繋がってゆくというもののように感じられた。

だから、建築によって社会を変えられるかもしれないよ、という学生へのメッセージもとても説得力があった。

言葉で説明すると簡単なことのようでいて、こうしたことは通常カリキュラムの組み立てのなかでは難しい。具体的な論理が、実践的な場でどう展開されるかというようなことは、生身の建築家がしていいることを追体験するのが一番である。

プロジェクトのスタディ、素材、建築家の領域拡大、構造設計家とのコラボ、施主とのコミュニケーション、直近のコンペ、などについて貴重なアドバイスをいただく。建築家は、建築家であること、その活動領域のありかたまで設計するもののようである。

ぼくはぼくで、ひとりの建築家を半日かけて味わい尽くすのはほんとうに勉強になる、などと自分の企画を自画自賛したりする。

学生たちは食事会にもついてきて彼にいろいろ質問を投げかけていた。解散するころには学生たちもぼくもとてもハッピーになっていた。ありがとうございました。

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2009.12.11

『近代建築論講義』その2

書評を頼まれましたので、下書きとして、断片的感想をメモすることをお許しください。

「理論」の章は、『建築の七つの力』についての解題である。前後の文献とからめて、わかりやすくチャート化してある。さらに応答では、地誌的な研究方法と、歴史的なそれの比較が論じられている。

・・・これは理論を生き直すものではなく、見取り図を描こうとするものである。俯瞰的な視点からであるのは、あるていどしかたない。なにしろ歴史家は、理論なるものの内部にまで入り込み、理論を生きてみるなどということはしない人種だからである。理論の歴史というのは、ないわけではないが、理論そのもののおもしろさを凌駕することはむつかしい(ぼくの悩みでもある)。

「装飾」の章は、装飾の復権を訴えた『建築の世紀末』についての解題である。オーロラとミイラから建築へアプローチしてみることの重要性、そして建築の装飾がもっている意味をほんとうに明らかにすることがやり残された課題ではないかという問い。しかし応答は、意外なことに、機械美学論の批判的展開であった。つまり装飾論と機械論はおなじコインの表裏なのであった。

・・・つまりこれほどまでに装飾復権論とは近代の機械論美学に依拠しているのである。その装飾論は裏返しの機械論である。そのことに批判性、その意義がある。

「地霊」の章は、デルフォイ、ゲニウスロキ、東京の郊外、イギリス庭園というように啓蒙的な解説を述べながら、詩人A・ポープが活躍した18世紀においてすでに通俗性が批判されていたのだがという危惧の指摘でおわっている。それへの回答は、東京まちめぐりである。

・・・ゲニウスロキは理論ではないと思う。古代からあった概念だし、18世紀英国式庭園でもしきりに言及された。それは「語り口」なのである。

「物語」の章は、小説家が東京の場所性をくわしく解説している。そして超高層乱立を批判することで終わっている。東京の地霊は危機に瀕しているというわけである。応答としては、建築が時間性をすてたという点も批判されるべき、というものである。

・・・この応答は、質問を受けての展開というものであろう。いろいろ語り方はあるであろう。歴史を捨てた、時間性を捨てたというようなことが、日本の都市や建築への批判としていわれる。しかし(良くないことにしても)つぎつぎと過去を捨ててゆく都市についての歴史も書こうと思えば書けるのだ。しかしこの世代の人びとはけっしてそうしようとはしないだろう。なぜかというと「都市の過去=自分の過去」という美しい構図を保っているからである。都市は自分の延長なのである。幸いかな、彼らは。しかし自分をいくら延長しても都市に届かない多くの人間がいたとして、この世代の人びとは彼らをも非難するのだろうか?

「記憶」では建築史の専門家が指摘している。日本の保存運動は、保存理論なき運動であった。S教授ははじめて保存論を書いたうえで運動を展開しようとした、という。返答は、日本における近代の保存運動のきわめて客観的でコンサイスな的を得たサマリーである。

・・・ぼくとしては保存理論がこれまでなかったという指摘は納得がゆく。そのとおりである。若干追記すると、「保存史」こそ書かれるべきである。つまり建築=文化であるならば、保存もまた文化であり歴史をもっているはずである。そしてそのためにも保存の(法制・技術としてではなく文化としての)理論ができていなければならない。

「伝統」の章も、建築史の専門家がまず問いかけている。おもに技術に注目し、日本の瓦技術がベースになってレンガ技術が迅速に移入されたことが指摘されている。返答は、自然主義庭園/象徴的庭園の対比である。

・・・自然式庭園はあるとはいえ、庭園こそもっとも装飾的であり模倣的である。ということで、庭園をモデルとして建築を構想したい気持ちはよく理解できる。

まだまだ章は続きますが、お風呂にいらねばならないので、中断します。

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2009.12.08

「批評」について---『近代建築論講義』から

最近、会議が多い。ほとんどいない自分の研究室にひさしぶりに顔をだすと、机に東大出版会から最近出た『近代建築論講義』という本がおいてあった。建築技術社から送られたものだ。

書評しろという。OKと返事をだす。

批評、理論、装飾、地霊、物語・・・という章立てである。まとめて原稿にするまえに、章ごとにブログに書いてみるのもいいかもしれない。

それで第一章のテーマ「批評」について感想を述べる。

I氏が論考し、S教授が回答するという形式である。これは建築論ではときどき使われる手法である。

まず90年代の「セカイ系」と、S教授の「私的全体性」とを比較論考しているのがたまげた。こういうのは贔屓の引き倒しなのかもしれない。

それはともかく長谷川堯の私性というコンセプトも同時代であったぼくには、もちろん人さまが私的全体性などということにはとくに異論はない。ただもちろん、それはあたり前に保証されていることではなく、それを追求するという思想なのであって、そもそも私的全体性が求めれば可能であるように思えるのも、近代社会だからこそである。

近代は歴史という枠組みをつくったのだし、現代を歴史の最先端として位置づけるのが批評の役割なら、たしかにペヴスナーもサマーソンも歴史家にして批評家であった。

八束はじめは、きわめて理論的に、現代はポストモダンであるので「歴史=近代」という図式がなりたたない、と指摘しているようである。

S教授はぎゃくにきわめて経験主義的に、丸の内地区の歴史にふれながら、建築を成立させる諸条件が変わってゆくことを指摘している。

ここで彼は、いずれにせよ歴史は現代と対峙しなければならないと結論づける。ただこの断言は、きわめて唐突に、断言的になされている。

・・・もしこれが対論だとしたら、両者の主張はあまりかみあっていないのだが、それでも行間には、あるいは文章の背景にはいくつか共通する方向性はありそうである。たとえば過去しか語らないのは歴史とはいえない。ほんとうの歴史は現代をも視野にいれるものである。歴史的視野において現代を語るのが批評である、というような姿勢。

都市の「哀しみ」とはいかなる哀しみであるのであろうか。それは都市に内在する属性ではないことは、はっきりしている。それは都市を見つめる人の心のなかにわいてくるものである。そしてこの人は、だれよりも都市の歴史と物語を熟知しているのであり、そのことにおいて、特権者であろう。いやそれは都市のスピリット、場所の精神、などが憑依する対象としての人間個体なのかもしれない。

この悲しみをいだく「私」は、もちろん近代社会のなかの存在なのであるが、しかし同時に、歴史や社会そのものを引き受けようとする、ある意味で(王様でも皇帝でもないのだから)、逆説的に強い私でもある。

これも近代的自我なのである。社会的に生産された「私」でありながら、全体を俯瞰できるというように思っている。そういう個体が成り立ちうるのが近代というものの時代の特性なのであろう。

そうすると「私的全体性」という理念が自分と地球の運命とをショートカットさせてしまう「セカイ系」と同じようなものとするのは、短絡のようでいて、ミもフタもなくそのとおりなのかもしれない。

そして日本において歴史と批評が別モノとなっているとしたら、こうとも換言できるのではないか。

(仮説1)批評/歴史が成立した順番。

ひょっとしらた建築のご本家では、まず批評というものがあって、それを母体にして歴史がでてきた。だから批評には歴史が内包されているので、どのような歴史を書こうが批評的である。

日本では近代化の乱暴さのなかで、まず歴史があって、そのなかから批評がでてきた。あるいは西洋からまず建築史を導入して、諸概念を学習し、その成果をふまえて批評がされるようになった。だから歴史は批評を内包するかもしれないが、批評性なしの歴史もできるようになった。よく事実主義的歴史と揶揄されるのは、こんなことである。

・・・さてこの推論はいちおうできてはいるが、おもしろい結論ではない。

(仮説2)批評の歴史の不在

批評すわなち現代建築についての論評と、建築史が分断されているのは、そもそも、さまざまな批評のテキストを、編年史的にまとめ、その歴史を描こうという作業がなされていないからである。つまり「批評史」が書かれていない。なぜ書かれないかというと、面白くないから。なぜ面白くないかというと、20世紀後半になっても思想の輸入にたよっているからである。建築批評輸入史なら描けるが、・・・というわけである。

ひきつづき明日も考えてみましょうか。

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