2018.08.10

辻泰岳『方法としてのディスプレー:国立近代美術館の会場設計について』

近美が竹橋に建設されるまえの京橋時代の、主要な特別展(企画展)の展示形式と内容を論じている。『文化資源学』に掲載されたものというが、読む機会があった。

「世界のポスター展」「日米抽象美術展」「現代の目:日本美術史から」「現代の目:アジアの美術史から」「現代の目:原始美術から」をおもに論じているが、年表にはほぼすべての企画展が列挙されている。

そのなかで丹下健三ら建築家がアーティストと共同することで芸術の総合という概念をいだいていたことや、とくに丹下が世界を俯瞰して歴史主義のパリと行動主義のニューヨークを比較しつつ日本は行動主義にならうべき(常設展より企画展中心にすべきという意味?)と述べていたことが強調されている。さらに全体の企画方針としては啓蒙的意図が強かったことも。

照明や壁面といった細部も検討している。ただ理念をもって、論文のまとめとしている。シリーズ的な「現代の目」で問われていたのは、企画者たちが意識していた「われわれ」がどう確立したか、つまり日本、アジア、原始といったシリーズにおいて違う価値のものを見ることで「われわれ」が確立されようとしたか、ということであった。そこに美術館そのものの姿勢をみようとしている。

論文の組みたてとすると、展覧会における展覧意図と、美術館運営方針のような上位のレベルのものがやや混同されていないかと心配ではある。このあたりはもうすこし段階的に論を組み立てる必要もあったのではないかと思われる。とはいえ、たぶんそうなのであろう。

個人的には年表がおもしろい。1949年から1969年までの展覧会一覧でもあるのだが、個々の企画における意図の上位にある、美術館そのものの運営意志がおぼろげながらにわかる。それはかかわった人びとの集団意志でもあるかもしれないが、美術館を意図してドライブした運営主体の意志のようなものである。おそらく運営もまたいくつかに階層化されているのだろうから、階層ごとに展示意志をわけて分析するのもよいと思われる。MoMAとの連携があったというのも重要な点であろう。

個人的に記憶にのこっている展覧会は、まず磯崎新『間』展であり、これにより日本建築への関心はヨーロッパで格段に広まった。つぎに三宅理一『日本のアヴァンギャルド』展である。日本と西洋を、共通の指標で切ってみようという野心的なものであった。それから後にも先にもポンピドゥ・センターの『パリ/ウィーン』展は濃厚であった。

展示される作品以上に、企画には強度のある思想や意図があってしかるべきである。思想(あるいは批判性)のない展覧会はつまらない。そういうことでいえば『建築の日本』展はひさびさに展示意図について議論がなされている。

建築展についていえば、もともと日本には開催はすくなかった。しかし近年では格段にひろまったという印象である。ただし平均値的にはそれらは広報的であり一般的な意味での啓蒙的なものにとどまっている。ちょうど建築雑誌が企業広告的であり深い批評はなかった過去を思い出してみればいい。西洋とは逆で、日本に批評性のある建築展がなされるのはこれからかもしれない。そういうことで著者の作業は時代の求めに応えるものであろう。

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2018.07.01

アンドレアス・グローテ『ゴシックの匠』

日曜の朝、さわやかに読んだ。ドイツ語初版1959、英語版1966、この日本語版2018。15世紀、ウィトルウィウス建築十書が再発見された。1548年のヴァルター・ライフによる『ドイツ語版ウィトルウィウス』の内容紹介とドイツ建築へのインパクトが紹介されてている。

1563年のブリューゲル《バベルの塔の建設》への影響(建設機械、工事現場風景)が示唆されているのはおもしろい。実際の建物ではなく、建物イメージを描くことへの貢献である。考えてみれば当たり前だが、バベルの塔の絵画は、完成図もあれば建設途上のものもある。後者はにより「建設現場」である。牛や馬に曳かせる荷車、巻上機、石材をバールのようなものでころがす職人などが描かれている。それらは遡及すればウィトルウィウス建築書というわけである。ただしブリューゲル描く建設現場における足場は、どうみてもリアリティがない。おそらく建設現場の視察はしなかったのか?

ただ図版をみればドイツ語版はチェザリアーノ版の図版をすこし改めただけでほぼそのまま使っている。ふたつの版の図版を比較して、ドイツ語版は前版のどれを再録したか、新録はあるか、などを調べるとおもしろいであろう。とくに円形プランのものの四分の一だけを図示した理想都市案は、チェザリアーノそのままである。しかしライフは左上の空白を、風車、直角定規、コンパスなどで埋めている。

感想としては、ドイツ人はチェザリアーノ版ウィトルウィウスの工学技術にはおおきな関心をはらった。建築というより建設技術の体系である。しかし芸術的側面へはそれほどでもなかった。そういう文化摂取はドイツのゴシック的伝統からきている。ゴシック的精神にのみこまれたウィトルウィウス、というわけである。このように考えると工学技術としてのゴシック、芸術としてのルネサンスという構図がみえる。ウィトルウィウス建築十書はいわば総合的な文献なので、読み手の視点でどうとでも読めるのであろう。

グローテ自身の思想的背景はあまり知らないが、芸術における中心の喪失を嘆いたゼードルマイヤの弟子ということであれば、同時代のまさにバウヒュッテやバウハウスにおける工作技術という実体的なものを重視する視点があった。それがゴシック、ドイツ的なものを貫通するなにかだと想定されたのであろう。

訳文はこなれており読みやすい。ただし自由七学科は三学と四学ではなく三学四科ではなかったかと思うし、シュジェなのかシュジェールなのかなどいろいろである。

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2018.06.16

啓蒙から野蛮へ---森美術館「建築の日本」展について

https://medium.com/kenchikutouron/%E5%95%93%E8%92%99%E3%81%8B%E3%82%89%E9%87%8E%E8%9B%AE%E3%81%B8-622fb9bb9af1

日本建築学会HPの「建築討論」に拙論がアップされた。

タイトルが古めかしいが内容からすればこんなものである。

下書きにあったが自分でボツにしたもの。「入口にある北川原温《木組インフィニティ》は立体になったり平面になったりというエッシャーの絵のようである。個人的には好きである。東大寺南大門はもっと大きいほうがいいのだが。待庵には躙ってみて瞑想したが、屋根が合板で葺かれているのは笑えた。丹下自邸こそ原寸大にすべき(部分でいいから)。妄想がはじまった。明治村があるのだから、(既存のものではない)昭和村をつくり、近代住宅の名作のレプリカを建設して分譲するとか。とにかく模型がたくさん。この光景はなにかに似ている。そうだ、昔の大衆食堂の蝋模型メニュー。すると九セクションとは、和、洋、中華などの分類ということになる。あるいは90年代以降のマガジンハウス的なもの。新しい戦略があっていい。キャプションを読みすすめてゆくほど、イメージは拡散してゆく。総花的、八方美人的。これははずせないなあ、こっちにもいい顔しておこう、式の(ぼく自身も過去に悩まされた)業界的な構図は隠せない。とはいえ厳選されている。全体として飽きさせない労作である。キュレーターの力量もいかんなく発揮されている。しかしその構図そのものはまさに日本的である。」

模型展示はそれぞれが存在意義があって、そういう疑似体験そのものは文句なしに楽しい。ただ諸外国の例からすれば、模型は常設の建築ミュジアムに系統的に並べておいたほうがいい。テンポラリーなものは、もっと主張がはっきりさせたものがいい。だから今回の建築展は、それぞれ切り取れば楽しめるのだが、全体としてうけとめると、まあどうかな。

それと近未来的には大会場での展示などいらないでしょう。これからはVRゴーグルと創造的コンテンツにより、過去も未来も、実在したものも案だけのものも、フラットなプラットフォームで見れるはず(近づきつつあるものはあったが)。そうしたら自宅で楽しめて、勉強もエンタメも、鑑賞も設計もたがいに浸透しあうようになる。

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