2018.07.01

アンドレアス・グローテ『ゴシックの匠』

日曜の朝、さわやかに読んだ。ドイツ語初版1959、英語版1966、この日本語版2018。15世紀、ウィトルウィウス建築十書が再発見された。1548年のヴァルター・ライフによる『ドイツ語版ウィトルウィウス』の内容紹介とドイツ建築へのインパクトが紹介されてている。

1563年のブリューゲル《バベルの塔の建設》への影響(建設機械、工事現場風景)が示唆されているのはおもしろい。実際の建物ではなく、建物イメージを描くことへの貢献である。考えてみれば当たり前だが、バベルの塔の絵画は、完成図もあれば建設途上のものもある。後者はにより「建設現場」である。牛や馬に曳かせる荷車、巻上機、石材をバールのようなものでころがす職人などが描かれている。それらは遡及すればウィトルウィウス建築書というわけである。ただしブリューゲル描く建設現場における足場は、どうみてもリアリティがない。おそらく建設現場の視察はしなかったのか?

ただ図版をみればドイツ語版はチェザリアーノ版の図版をすこし改めただけでほぼそのまま使っている。ふたつの版の図版を比較して、ドイツ語版は前版のどれを再録したか、新録はあるか、などを調べるとおもしろいであろう。とくに円形プランのものの四分の一だけを図示した理想都市案は、チェザリアーノそのままである。しかしライフは左上の空白を、風車、直角定規、コンパスなどで埋めている。

感想としては、ドイツ人はチェザリアーノ版ウィトルウィウスの工学技術にはおおきな関心をはらった。建築というより建設技術の体系である。しかし芸術的側面へはそれほどでもなかった。そういう文化摂取はドイツのゴシック的伝統からきている。ゴシック的精神にのみこまれたウィトルウィウス、というわけである。このように考えると工学技術としてのゴシック、芸術としてのルネサンスという構図がみえる。ウィトルウィウス建築十書はいわば総合的な文献なので、読み手の視点でどうとでも読めるのであろう。

グローテ自身の思想的背景はあまり知らないが、芸術における中心の喪失を嘆いたゼードルマイヤの弟子ということであれば、同時代のまさにバウヒュッテやバウハウスにおける工作技術という実体的なものを重視する視点があった。それがゴシック、ドイツ的なものを貫通するなにかだと想定されたのであろう。

訳文はこなれており読みやすい。ただし自由七学科は三学と四学ではなく三学四科ではなかったかと思うし、シュジェなのかシュジェールなのかなどいろいろである。

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2018.06.16

啓蒙から野蛮へ---森美術館「建築の日本」展について

https://medium.com/kenchikutouron/%E5%95%93%E8%92%99%E3%81%8B%E3%82%89%E9%87%8E%E8%9B%AE%E3%81%B8-622fb9bb9af1

日本建築学会HPの「建築討論」に拙論がアップされた。

タイトルが古めかしいが内容からすればこんなものである。

下書きにあったが自分でボツにしたもの。「入口にある北川原温《木組インフィニティ》は立体になったり平面になったりというエッシャーの絵のようである。個人的には好きである。東大寺南大門はもっと大きいほうがいいのだが。待庵には躙ってみて瞑想したが、屋根が合板で葺かれているのは笑えた。丹下自邸こそ原寸大にすべき(部分でいいから)。妄想がはじまった。明治村があるのだから、(既存のものではない)昭和村をつくり、近代住宅の名作のレプリカを建設して分譲するとか。とにかく模型がたくさん。この光景はなにかに似ている。そうだ、昔の大衆食堂の蝋模型メニュー。すると九セクションとは、和、洋、中華などの分類ということになる。あるいは90年代以降のマガジンハウス的なもの。新しい戦略があっていい。キャプションを読みすすめてゆくほど、イメージは拡散してゆく。総花的、八方美人的。これははずせないなあ、こっちにもいい顔しておこう、式の(ぼく自身も過去に悩まされた)業界的な構図は隠せない。とはいえ厳選されている。全体として飽きさせない労作である。キュレーターの力量もいかんなく発揮されている。しかしその構図そのものはまさに日本的である。」

模型展示はそれぞれが存在意義があって、そういう疑似体験そのものは文句なしに楽しい。ただ諸外国の例からすれば、模型は常設の建築ミュジアムに系統的に並べておいたほうがいい。テンポラリーなものは、もっと主張がはっきりさせたものがいい。だから今回の建築展は、それぞれ切り取れば楽しめるのだが、全体としてうけとめると、まあどうかな。

それと近未来的には大会場での展示などいらないでしょう。これからはVRゴーグルと創造的コンテンツにより、過去も未来も、実在したものも案だけのものも、フラットなプラットフォームで見れるはず(近づきつつあるものはあったが)。そうしたら自宅で楽しめて、勉強もエンタメも、鑑賞も設計もたがいに浸透しあうようになる。

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2018.06.03

森美術館「建築の日本展」

日本の伝統建築と近現代150年とを相関させ、代表作100点以上を選んで9つの枠組で分類し、多くの模型を展示した充実した展覧会を、先日みてきた。

まずはざっくりの感想。

展覧会を本気で検討してみようと思えば、NY現代美術館における『近代建築』展(1932)と比較してみるのがベストであろう。さらに前後して出版された『インターナショナル・スタイル』も参考にすべきであろう。

とりあえずふたつの論点がある。

まず普遍性の問題。20世紀をとおしてトレンド・リーダーであったMoMAは、1932年の時点で「アメリカ建築」を問うてもよかったのだが、そうはしなかった。むしろ普遍的「建築」を論じ、かつその指標のいくつかを明確に指摘した。ところがわが国における日本建築への問いは、つねに日本性を問うのであり、建築性を本格的に問うことはしない。そのようなひたすらな問いのなかで、じつに率直に、外部が欠如してゆく。日本は虚構であるということは、大前提なのだが、それは言明されない。したがって国際やグローバルとの関係はみごとに捨象される。この展覧会は、日本近代の大問題をあっけないまでに率直に継承している。

つぎに情報発信の主体について。関係者たちのなかには、主催が公立美術館でもアカデミーでもないことの特殊性をことさら指摘するむきもあるが、そうなのだろうか。それこそ伝統的にはアメリカは私立美術館、ヨーロッパは国公立美術館、日本は折衷であったが、近年は全世界的にエージェント型へと移行しつつある趨勢である。ポンピドゥ・センターは1970年代フランスにおける芸術の大衆化であったということを、高階秀爾から聞いたことがある。だとすればMoMAの近代建築展は、1930年代アメリカにおける建築文化の大衆化であったのだ。民間だ、大衆相手だ、ツーリスト向けだなどという指摘は、いったいいつの時代なのかわからない。普遍的な情報発信をめざすとして、その主体は公、民、私、・・・いずれであるべきか、などについてはべつに決まり事もない。

つまり日本性を問うのはよいのだが、わたしたちはなぜ日本性ばかりを問うのかは、ますますわからなくなり「疑惑はさらに深まった」!いずれもうすこしくわしく論考して発表するかもしれない。

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