2012.05.19

豊川斎赫『群像としての丹下研究室』

オーム社よりいただきました。ありがとうございます。

さっそく一読した。建築雑誌2011年2月号に書いた拙論『国家のアイコンをめぐって----折衷主義・純粋美学・弁証法』を思い出した。国家を代理代表する建築として、日本では、鹿鳴館的な折衷主義、「日本的なもの」のような純粋美学、アポロとディオニソスを統合しようとした丹下健三のような弁証法、という3類型に分類できて、私見では丹下的アプローチがまだのびしろがあると指摘した。それにたいし難波和彦さんからは、多様な現代にあってそんな単純化ができるのだろうかという批判をいただいた。そういうながれからすると本書は、ぼくの予言(?)を応援しているかのようである。

さらにくだらないことをいうと、日本史上の建築家をひとりえらぶなら、重源か丹下健三のどちらかであろう、ともこのブログで書いたこともある。

個人的には、遠い昔、建築に進学して専門家になろうと意識したころ、まず読んだのが丹下の文献であり、まず見学したのが香川県庁舎であったので、気合いはすこしははいる。じつは最近気合いをいれて読む本がなくてほんとうに困っていたのだが、ひさしぶりにテンションが高まった。

表題からわかるように、丹下を中心にしながらも、立原道造、浅田孝、浜口隆一など多くの同時代人にも触れていて、たいへん詳しく取材していて、詳細に書かれており、本格的である。論文はやはり素材が命であり、大きなものを対象にすえ、かつヒアリングなどでオリジナルな生の情報にもとづいて書かれているので、久しぶりの本格派といったところである。

本格派なので読む側もつい細かいところが気になったりする。たとえば「衛生陶器」(p.7)発言は、そのとおりなのだが、本書では1985年の文献に再録されたものからの引用である。戦前の、具体的などの状況で、具体的にどの建築家のどの作品についてなされた批判かはわかっているはずなので、そこまで書いたほうがいいのではないだろうか。

P.63あたりで感じたが、やはり国家=モダン、近代化は国家が主導するもの、という時代なので、丹下はそのパラダイムに忠実であろうとした。その忠実度が際立っている。ただぼくが注目するのは、時代の課題に忠実とは言っても、機械的な政策検討者・立案者にはならないで、スタディをベースにしながらも、どこかで超越するその超然としたありようが丹下ならではなのであろう。そういう意味では、本書のなかでも述べられていた構造派と芸術派の対立を、まさに弁証法的に超越するような立場にいたことになるのだが。

「住宅は建築ではない」(p.76)というのは、端的に西洋思想である。ただ、これは日本がそこまで近代化したというように解釈するか、あるいは市民派を自称する建築家とは違うぞ、あるいは商業主義的建築家とは違うぞ(それぞれ代表選手がいるのだが)、という建築家意識なのか、いろいろであろう。

ドイツ観念論で成長した丹下が、ロストウ「離陸論」などをいいだすのは、どうもそこでなにかが変わったような気がする。20世紀全般を俯瞰すると、戦前はドイツ観念論、マルクス主義、フランス現代思想という順番で、日本の建築若者にとっての教科書は変わっていったのだが。

長谷川堯による丹下批判「<国家>の意図に従順」(p.370)の再批判は、すこし機械的な気もする。たしかに70年代は丹下批判もあったのだが。ぼくとしては丹下理論も理解し、長谷川の主張もわかる、両にらみの気分ではあったが。ただ丹下の場合は、国家が彼に指令したというより、彼自身が国家であったので、従順もなにもないとおもうのだが。つまり磯崎さんの追悼文にあるように、丹下はなによりも国家建築家であった。それは国家主義の建築家という意味ではなく、国家=世界を自分で構築しようとする建築家、すなわち神/建築家アナロジーという意味においてそうであった、のだが。

ともかくも深い追体験の書であることは確かである。

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2012.03.25

ティム・ブラウン『デザイン思考が世界を変える』

たまにはこんな本もと思って、図書館で斜め読みした。学生のころ『生きのびるためのデザイン』なる本があったが、そんな感じかなとおもっていたら、この本もしっかり引用されていた。

学生向けなのであろう。理論的すぎず、現在進行形の語りであり、いろいろなプロジェクトがいきいきと説明されている。小池百合子のクールビスだとか。最近のBOPにも言及されている。いわゆる先進国のデザイナーは第三世界といわれたものへの注視をおこたっていない。といった比較的最近の動向も紹介されている。MBAなどビジネス教育にもデザイン思考がとりいれられている。翻訳もこなれている。

ただ上流に遡るとか、クリエーターと消費者(ユーザー)のコラボとか、クライアントをデザイン経験に参加させることっとか、グローバルからローカルへといったよいことが書かれている。ちょっと平板である。ライトの「フレーベル教育」、フラーの宇宙船地球号とか、すこし題材が古くさい印象もうける。

それから理論的基礎は省略されている。ポランニーの暗黙知や、アメリカ大都市の死と再生論、知識産業・知識経営、はたまたサッセンのグローバル都市などといった理論が背景にあるのはあたりまえだが、それへの言及はない。はたまたipodが企画されたとき、アップルの経営者たちはそもそも音楽を聴くこととはなにか、といった根源的な議論がなされたとかいった面白そうな話もない。だから全体としては表層的である。もちろんデザイン事務所が活発にいろいろ活動している雰囲気はよくつたわってくる。

でもこれならグーグルがデジタル図書館をつくって世界政府を構想するなどといった、ちょっとファナティックなほうが、一種の悪未来的な読み方もできて、読書としては楽しいのだが。

それから建築的に思うのは、建築/デザインの関係がまったく変わったということであろう。100年前、古い技術がまだ残存していた建築は、工業デザインを模範として、みずから近代化・合理主義化しようとしていた。いま、それほど根本的にパラダイム的に学ぶものはないのであろう。大量生産の時代がとっくに終わっていて、高度な一品生産の時代だなどといえば、ようするに建築の時代(のはず)なのである。ぎゃくに建築はなにをモデルとしたらいいか、という問いが残っているとも感じられる。

もちろん311以前に出版された書物なので、すこし雰囲気があわないのは不利ではあるが。

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2012.03.14

建築・遺産活用エリア(Avap)という新制度

これは従来の「建築的・都市的・景観的文化遺産保存区域(ZPPAUP)」にとってかわるものである。従来制度をはなはだ損ねるものではないが、持続可能な発展というものを組み合わせることで、バージョンアップされる。Avap(Aires de mise en valeur de l'architecture et du patrimoine)の定訳はないようで、建築・景観活用区域とする研究もあるようだが、ここでは「建築・遺産活用エリア」としたい。

2011年12月19日にまず「建築・遺産活用エリア(Avap)にかんするデクレ」が発令された。
2012年3月2日に、上記にかんする通達が、文化財局長から地域圏知事へなされた。Avapのための手引きのようなものらしい。

ル・モニトゥール誌WEB版の解説などによると、現行ZPPAUPは2015年7月14日(なぜか革命記念日)まで有効。つまり持続可能性にかんするGrenelle II法が制定されて5年後、という。建築・遺産という枠組みのなかに、さらに環境・持続可能性という軸がはいってきて、両立できるのかという懸念もあるというのではあるが。また現行ZPPAUPが新しいAvapとしてぞれ以前に承認されることはできる。しかしこの日までに新制度に再登録できないと、歴史的建造物の周辺地区とかはほぼ最初から再構築のようなことになるらしい。

もともと文化財保護の政策は、きわめて中央集権的に、国家主導的になされてきた。その権力がしだいに分権化され、地方圏知事などにすこしずつ委譲された。Avapはさらにコミューン(基礎自治体)の自律性を高める枠組みになっている。

地域ごとの建築や文化財の価値は、まさに地域の人がいちばん知っているだろうし、その活用もまた遠隔操作では問題があるであろう。だから1980年代以降の地方分権化のながれにそって建築・遺産活用も展開してゆくのであろう。ただうがった見方も知りたいのではあるが、教育・文化予算などは大幅削減の傾向のなかで状況は苦しいのではないかとは想像するのだが。

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